第十二話 ちょっと変だけど

 ローズマリーは料理に使う香辛料の一つ。 

 細長い緑が松の枝みたいな形で生えている植物。

 そして香水にも、ポプリにもなるらしい。







 明日から夏休みだ。正確には、家に着けば夏休みが其処で始まる、そう言う人が言うけれど。私は未だ学校に用事があるから始まっていないのだろう。私、花江由希子はそう思っていた。


 四年三組の教室は混沌を極めていた。まぁ、そうだ。長期休暇が始まるのだからハッチャケ具合が何時もよりオーバーなのだ。


 ハルルちゃんは四学年一律に育てていたプチトマトのプランターと道具箱を辟易としながら「どう持ち帰るんだろコレ……」と黄昏ていた。終業日を逆算していただろうコウヅキ君はスッキリとした出立ちで鞄一つで済んでいた。

 全くもって凸凹な組み合わせで面白いと感心しつつ、そこにマナカちゃんが入って来るのを、私は観戦していた。……人の仲を割って

入る感じじゃないわね、ハルルちゃんが美男美女の間をフォローしている。コウヅキ君にムキになったりするのは何時ものことの友人のハルルちゃんは彼女に対し、何やら悩んでいた時期が確かにあったのだが、それが別の方向に昇華したのだろうか。


 ん? 隣の席の人とはどうなったって? やめてよ、あんまり思い出したくない。あれから何も追及も出来ずに悪戯に時が過ぎ去って、こんな長期休暇を挟むくらいになったのだから。

 強いて言うなら、ちょっと、少しばかり、呼乃邉哲と溝が出来てしまったみたいなのだ。普段のテツ君は何ら変わりはないように思う。囃し立てが始まるのは何時だってテツ君が切り込むし、体育の授業での対抗試合だって皆を鼓舞しているし、時たま見るドッジボール部の練習時の姿も何ら変わりないテツ君だ。

 でも、私に接する時、彼はぎこちなくなっていたらしい。少し間があるが何時もの調子で接して来るテツ君に、違和感を感じた人は言うのだ。

「ケンカしたの?」

 そうすると、一瞬だけ時間が止まったかのように、彼と私の間に沈黙が出来てしまうのだ。

「ううん、違うよ」

 図星さえも突かれてない取り繕った愛想笑いを、私はする。

「ああ……ケンカしてねぇよ」

 テツ君は笑ったが、私にはそれが歪に見えた。





 数週間ぶりに来た家庭科室は、入れ替えたての空気が頰を撫ぜた。

 何日か前にコウタダさんから教えて貰ったレシピから、ポプリを作ったのは良いものの完全に出来上がるまでの保管場所は、残念ながら園芸愛好会にはないのである。あるとすれば、空調設備があるわけない蒸し蒸しと暑くなっている用具入れだけなのだ。保存瓶の煮沸消毒をしてくれた顧問の先生に頭を下げ、冷暗所がちゃんとある家庭科室の戸棚入れに置いたのだ。

 戸棚の中にタグが付けられた数個の瓶を見つける。その中からマジックペンで書かれた『園芸愛好会・ポプリ制作中』と麻紐で結ばれたタグを外し、手に取る。

「そろそろできたと思うんだよな」

 ポンッと音を立てて開けると、何かが鼻を掠めた。

「……スッとする匂い」

 頭の中がスッキリする香りに、私は驚いた。ポプリが「悩んでいるんだろ」と言っているような気がしたのだ。そんなの有り得ないと分かっているのだ。それでも、迷いを晴らしたい、戸惑いなんて長く続けたくない、そんな私の隠していた叫びが答えだと気付いたのだ。





 数個のポプリが入った保存瓶の中から、見栄えも綺麗に出来ているものを選んで用務員室に行く。このポプリの作り方を教えてくれたのも、材料にローズマリーを使うきっかけとなったのもコウタダさんだ。だからお礼をしなくてはと、そんな名目を作って。

「コウタダさん、ポプリのお裾分けです」

 言うのだ。ツゲグチではないように、ローズマリーの匂いを閉じ込めたポプリの香りでスッとさせて。テツ君とコウタダさんのこと。

 しゃがれている「嗚呼」と返す声を聞いて、ドアを開けようとした。


 勇気を出すため目を瞑っていた私。耳を閉じたかのように聞こえてくる鼓動の音は、きっと激励しようとしているんだ、きっと。


 入ろうと、一歩、前に進もうとした時。

「え⁉︎」

 誰かが驚くような声が耳に入った。


 何処かで聞いたことのあるような……、自分の席の隣人で、今ちょうど私が悩む種になっている人に似ている気がしてならない。


 パチッと目を開けると、私は目をひん剥いてしまったのだ。

 首にタオルを掛けた少年がいたのだ。千歳茶色の甚平を着て、落ち着いた様子で麦茶を飲もうとしていたからか、恰も別人のようにも見える……呼乃邉哲。

 私と同じく驚愕の顔を貼り付けた彼は、麦茶が入ったグラスを机に置いて、怒鳴った。

「何で、いるんだ⁉︎」

「そっちこそ⁉︎」

 今、テツ君ではなくて、コウタダさんに用があったのだけど。まぁ、確かにテツ君のことだから関係のないわけでもないけれど。鴨がネギ背負っているって、このこと⁉︎ いや、でも、彼とは冷戦関係みたいに落ちいっているわけでして。だから、穏やかなコウタダさんからと決めていたじゃない。


 言い合いになりかけていた時に、コウタダさんが奥から来たのだ。

「ハナエちゃん、前に言っただろう。孫のテツだ」

 私たちの間に浮かぶ剣呑さを知らずに呑気そうに言うコウタダさんに、テツ君は吠えたのだ。

「爺ちゃん、言わないって約束しただろ⁉︎」

 鼻息荒く叫ぶテツ君に、コウタダさんは静かに言った。

「もう良いじゃないか、テツ坊や」

 そして、言い聞かせるように言ったのだ。

「祖父と孫なんだから良いじゃないか、恥ずかしいのかい?」

 大きくなると家族と一緒にいるのを恥ずかしくなっていくらしいから。私はそんな風に思ったことはないけれど、見たことはある。

 それは、誰かの父兄が来た時のことだった。何時も格好を気にする先輩が、苛立ちを残した気恥ずかしさに飲まれている様子で足早と済ませようとしているのを。

 テツ君もそうなのかな、私は彼をチラリと見た。


 でも、想像していたような表情をテツ君はしていなかった。きっと、そうだとでも言いたげな顔をしているに違いない。私は、そう思ってさえいたのだ。

「……違う‼︎」

 彼は傷付いた顔をしていたのだ。


 コウタダさんは私たち二人を背にした。

「儂は木の様子を見なくてはいけないから、涼んでなさい」

 そうポツリと呟くと、コウタダさんは麦藁帽子を被って行ってしまった。


 戸を閉める音が妙に響いた気がした。コウタダさんは荒げた様子でもないというのに、そう感じてしまうのは後ろめたさがあるからだ。


 テツ君と私がいる用務員室には沈黙が続いていた。グラスに注がれていた麦茶からカランと音がやけに大きく聞こえた。


 用務員室の奥にテツ君は座った。畳が敷かれた狭いスペースに、テツ君は胡座をかく。

 教室にいた時は何時もの動きやすい服装だったのに、何故、彼は甚平を様に着ているのだろうか。テツ君の背後には、彼のスポーツバッグが置いてあった。中から、青緑色の練習着が覗いている。帰りの会をした後にドッジボール部のクラブ活動をしていたんだ。

 彼の首に水滴が伝っていきそうになったので、「あっ」と声を上げそうになった。テツ君は、私の視線に気がついたのか、濡れた髪をタオルでガシガシと拭いた。

「座りな」

 顎で空いていたスペースへ指し示られたので、オズオズと上履きを脱いで私は座った。


 暫く手持ちぶたさにタオルで頭の水滴を払うように拭いていたテツ君は重い口を開こうとした。

「知っているんだろ…………爺ちゃ……コウタダさんは……」

 先程も爺ちゃんって呼んだではないか。わざわざ、他人めいた風に言意直さなくても、気にしなくたって……。

「爺ちゃんって呼びなよ、誰にも言わないから」

 あなたの普通で話をしたい、見知ってはいるけれど取り繕ったテツ君でも、見知らぬ冷めた目をした誰かでも、素直に言えなさそうだったから。

「嗚呼」

 彼は呟いた。


 私は何の気なしに彼に尋ねた。

「何時もと違うね雰囲気、ていうか前の時もだけど」

 元気一杯に学校で過ごす姿、中休みの時に見た感情を削ぎ落とした顔を貼り付けた姿。そして、今、神妙な顔をしながらも落ち着いた雰囲気を漂わせているのだ。


 私が呆けていると、彼は畳の目を眺めていたが視線を上げた。

「オレ、本当はこんななんだよ」

 テツ君は自身の目を射抜いていた。

 私が知っているテツ君ではないけれど、前みたいな恐怖心は抱かなかった。

 こういうの何て言うんだっけ? 落ち着いているから、クールってことなのかな? コウヅキ君もクールだと評されているけれど、それに目の前にいる彼がカテゴライズされるのはちょっと違う。

 クールはクールでも……。

「一種の、ジジクセェってやつ」

「あ、渋いってやつだ」

 同時に口に出した時に、要らんことを言ってしまったヤバいと思ってしまう。テツ君は、怪訝そうにしながら溜め息を吐く。

「何か言ったか?」

「いいえ、何にも」

 聞かれてもすぐさまに否定したので、私の失言を聞かなかったことにしてくれたらしい。


 テツ君は、ようやく話してくれた。

「……親が共働きでな、爺ちゃんに幼い頃から預かってもらっていたんだ」

 小さい頃からコウタダさんと共に過ごしてきたのか。穏やかそうなあの特有の気風が自然と似そうだが、そういった風でもなさそうだ。

「渋いって言ってただろう、ハナエ」

 ジロッと睨みを利かせるテツ君に、私はアチャァと額に手がついた。聞こえていたのかと思いつつ、私は口をモゴモゴとさせた。

 彼は腕を組みつつ体勢を楽にしながら「そしたら、こうなったらしい」と息を吐いた。

 

 チラッとこちらを見ながら、彼は言った。

「炭酸ジュースとか、ドッジボールが好きだとか、そんなイメージあるだろう、オレ?」

 私はコクリと頷く。だって、何時だってアクティブに快活に明るく元気にいきましょうとしている彼の姿なら見知っていたから。こんな、大人びた、と言うよりも、私が知っている大人よりも歳をとった雰囲気があるだなんて、あまり見たことがなかったのだ。

「じゃぁ、嫌いなの?」

 私は尋ねてみる。

 その問いに、彼は眉を寄せながら「違う違う」と手を振る。


 テツ君はポツリと呟いたのだ。

「それはな、親が言うからだ」

 その時の彼の姿は、何処かで見たことがあった。何処だったけ……? あ、思い出した。テツ君に睨みつけられた後のコウタダさんの姿だ。でも、その時に私が見えたのは正確には、コウタダさんの正面も表情さえも見えない年老いた背中だけだった。そうか、寂しそうにしていたのが、コウタダさんにそっくりだったのだ。


 テツ君は吐き捨てた。

「子供は子供らしいのが一番だって」

 そう続けながら。

「だから、そうした」

 今、彼が浮かべた自嘲を携えた微笑は、似つかわしくも年相応ではなかった。


 何となく、ただ単に気になったのだ。

「どんなのが本当に好きなの?」

 聞いている限り自分自身を押し殺していた彼。無理にでも、ああいう元気なキャラクターを作り出して演技して、自分らしさを檻に入れて。生きていたのだろう。

 そんな彼が心の底から好きなもの。ただそれが知りたかったのだ。


 右隣にいる彼は身体を縮こませながら、初めは小さく口を動かしながらも、だんだんと口ずさむように羅列していく。

「本当は茶の方が美味いと思うし、手入れの行き届いた庭を眺める方が好きだ」

 そう言い切ると、テツ君は口を閉ざした。

 そして、彼は顔を埋めて言ったのだ。

「そんなことを好むって、親に知られたら、爺ちゃんと離される」

 そう静かに聞こえた。


 彼は、コウタダさんの所縁のあるものを、楽しそうにも、それが消え入りそうにも話したのだ。

「爺ちゃんが入れた花茶を飲むことができなくなるし、爺ちゃんの自慢の桜の木が見れなくなっちまう」

 自分の身の置き場の行く末を心配している程で、彼は話しているけれど。


 彼の様子を見れば分かってしまう。明確な一言は言わないけど、コウタダさんのこと……。

「コウタダさんと一緒にいると安心するんだね」

 ……大好きなんだね。


 彼は顔を赤くしてあたふたとし始めたが、私が揶揄っているのではなく真面目に言っていると分かると「……嗚呼」と呟いた。


 私は立ち上がった。

「私、言わない」

「……へ?」

 テツ君は私の言動に戸惑いを見せていた。


 でも、彼はここまで言ってくれたのだ。彼にだって、彼なりの理由があったのだから。

「私、この前さ、テツ君のこと怖いなって思ったの」

 表情なくして、あんな風に睨みを利かせて怖けさせようとしてきたら、恐ろしいものじゃない。

「……悪かったな」

 あの時に、釘を刺そうとした自身を反省したらしい。彼はポッソリと呟いた。


 私は彼に振り返る。

「でも、今、怖くない」

 テツ君は呆気に取られていた。彼は畳の上に座っているからか、目線が随分と下から見られている。テツ君の形が良いおでこが見えることに気付いて、私はクスリと笑った。

 

 私は言ったのだ。

「テツ君とコウタダさんがすれ違うことよりも怖くない」

 窓から見える外は青空。雲一つもない晴れやかなもの。


 雨は振ることもあるけれど、きっと、晴れる時だってあるのだ。

「だって、私、元気なコウタダさんの方が良いもん」

 あんな寂しげにしているのはいやなのだ。


 そして、ちょっとお茶目に正直な心も出しておく。

「それにさ、無理してないテツ君の方が好きかな」

 私はニッコリと笑った。


 彼はすぐさまに顔を真っ赤にして言った。

「んな⁉︎ そんなこと言うんじゃねぇーよ、馬鹿」

 これがテツ君らしさらしい。








 ローズマリーのポプリはちょっとした魔法。

 蓋をポンッと開けると、良い匂い。

 頭をスッキリさせる、おまじない。

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