第七話 見えた
花は綺麗。色も、立ち姿も、咲き誇るその気高さも。
分かりきっていることなのに、何故、私はこんなに嫉妬してしまうのだろう。
雨の匂いが校庭の樹々を介して、校舎へと風が通る。グランドの水溜りが陽をチカチカと返して眩しい。
その光が目に痛いとばかりに、若葉春流は目の前に迫っているものに集中できないでいた。
私は考えあぐねながら、多分あっているだろうと『日貨』と書いてみる。毎日決まってやること、そんな意味だが、漢字が違うような気がしてならない。手の平に綴った文字に、皇月レノンは『それは日本のゆしゅつひんといういみだ』と手話で伝えてバッテンを作っていた。
四年三組の教室には特段と変わったことはないが、やや焦って配布されてから二ヶ月は経ったドリルをペラペラと忙しなく見る者、神仏か何かにでも成ったかのように悟った顔をした者が混在していた。
しかし、右側にある予定表用の黒板に刻まれた文字に気づくことともなく何時もの雰囲気でいる者もいる。
「あれ、ワカバ、手話しねーの? 」
その一人、クラスの元気印の呼乃邉哲こと、テツ君。快活そうな声色でハルルとコウヅキの様子を見て尋ねてきた。
「そうってわけじゃないけど」
私は苦笑した。短髪頭が首を傾げている。テツ君にとって、身振り手振りのようにもみえる手話の単語と指文字混じりに伝えていた私の姿が印象深いらしい。
彼の白い手の平にできるだけ迷わないように書いていくが、コウヅキは口元にフッと皺を寄せ、バツを付けた。
「漢字とかを伝える際には良いって聞いたんだ」
私は自分の手に書かれたペケ印に、チェッと舌打ちしながら答えた。手前の席に鞄を置いたテツ君は、何が何だか分からないという風にしていた。
「へ〜、でも何で漢字? 」
未だ分からない彼に救いの手を差し伸べたのは、テツ君の隣の席のユキコちゃんだった。
「昨日、アキ先生が言ってたじゃないの。今日は漢字テストあるって」
仕方のない子ねぇとでも言うように、彼女は肩をすくめながら答えた。
黒板に書かれた予定表の『漢字テスト』という軽い地獄に、テツ君は目をひんむいていた。
「マジで⁉︎ 言ってたっけ⁉︎ 」
間延びした声が特徴の我がクラス担任が言うことは、どんな重要事項も適当に取っておけよとばかりに聞こえてしまうのだ。仕方がないのかもしれない。
私は溜め息をフッと吐きながら、大して長くない前髪を払いのける。朝っぱらからしたって、受け取る点数はおおよそ変わらないと思うけど…。
「だから、テストの範囲の朝勉をしてたの」
手の平のバツの名残が久しくないと、眺めながら私は言う。
「で、どうだった? 」
私とのテストの成績がどんぐりの背比べの彼にとっては、どうも気になることのようである。自分がちょっと先の未来で取る点数の予想がわかるからだ。テツ君は固唾を飲み込みながら聞いてきた。凶と出るか吉が出るか…。
「私の大負けよ、このコウヅキ先生ったらトメハネの一点も見逃さないんだもん。」
そもそも私うろ覚えだったし、と内心で言い訳を講じてみても、再テストの道に繋がっていくわけでして。だんだんと顔色が青くなって頭を抱えるどんぐりの背比べコンビにユキコちゃんは苦笑していた。
こういう時に見るコウヅキの御尊顔はこちらをバカにしたような表情を称えているような気がして、何故だかムカつく。さっきのペケ印の連続にあんまり表情変えていなかったけど心なしか笑っていたし。今更ながらにムムッとコウヅキに睨みつけるが、ヤツは何処と吹く風だ。チクショウ、クールなヤツめ…。
眉間に皺を寄せる私を、スゲェ顔してんぞ、と笑うテツ君が場の空気を和ませていた。その時に、誰かが割って入り込んで来た。
「あら、レノン君とお話しているの? 」
長い鳶色の髪がサラッと流れる。暖色系でまとめられた服装の中でワンピースが揺らめく…。少女だ。叶愛花だ。
彼女は此方に目を向けながら軽く微笑んだ。
「あら…」
コウヅキの手の平へ私の人差し指で綴っていく。その様を見て、驚いたかのように、彼女は目を大きくした。
「手話じゃないのね」
先程のテツ君と同じことを言っている筈なのに、全く違う意味として聞き取れてしまいそうな自分を必死に抑えた。
涼やかな声で何を考えているのかが分からない。清廉な子っていうイメージが強いマナカちゃんのことだから、きっと低俗なこと等は頭に入っていないのだろうなと、一抹の不安を放って、そう思おうとしている自分の矮小さに呆れてしまう。
マナカちゃんは悪くない。そう思う度に、『手話じゃなくてもできるから』とコウヅキから受け取った言葉を口に出す彼女の姿が、ふと脳裏によぎり出す。
あれは、マナカちゃんが言おうとした言葉ではないのだ。やけに含みがあるように思えてならないのは、私が彼女に懐疑心を抱いている所為に違いない。これは私自身の問題だ。
だが、先日のことが脳裏に焼きついているように離れてくれないのも事実。
「うん、今は…」
上手く笑み返していれば良いのだけれど、両頬が引くついてしまっているような気がしてならない。私は、無理にでも目を細めようとした。そして、そっと深く息を吸う。
何度も繰り返す言葉。
私は大丈夫。
何度も何度も繰り返して、やっとちゃんと息が吸える。
スミレ姉さんと電話でモヤモヤとした悩みを打ち明けてから、今では流した涙は嘘かのように思える。あれから幾日も経ってないのだが、普通にできていると思う。同じ班で友人のユキコちゃんからは「目の縁が赤いよ」と言われてしまったけども。
少なくとも、今し方、コウヅキの手の平に『曇り空』の文字を書いているくらいなんだから。そう、何時もの私と違う所など何もないのだ。
「場合によりけりだから」
何時もの私らしくいようとした。
鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をしたマナカちゃんは、一瞬だけ崩れた微笑みを元に戻した。
「そう、私も良いかしら? 」
彼女は、私達がいる席に視線を流す。その仕草が大人びているように思えて、絵になるなと感心してしまった。流石、天使のマナカちゃんだ、と思いつつ。
「…うん」
私は、喉につっかえがあるような感覚を覚えながら、頷いた。
雨にポツポツと振られ始めたグラウンドがよく見える窓の傍で、私は項垂れていた。梅雨入りはやたらとセンチメンタルになりやすいのだ。思いに更けらせてくれとばかりに頬杖をついていた。
「私って、小さいなぁ」
思わずそうさめざめと私が言うと、花江由希子は黒のボブカットを揺らす。
「身長のこと? 普通でしょ、整列したら真ん中辺りじゃない」
私なんて背の順になると前の方になるんだから、とユキコちゃんは両腰に手を当ててプリプリと怒る。平均の体格よりも小柄な彼女にとって、背のことは彼女にとっては禁句なのだ。
私は手を横に振りながら「違うって」と入れておく。彼女は噂話が大好きな娘だが、身長・背のこととなると追求しようとする比じゃないのだ。
「まぁ多少スラリとしたいけどさ」
コウヅキがいる所で手書き文字で会話を楽しんでいるマナカちゃんを見やると、ユキコちゃんは「あ〜…」と相槌をとった。学年きっての美少女とも言われている叶愛花は、容貌だけでなくスタイルも綺麗に整っているからだ。
やけに自分の足りない所が目に映ってしまう。
「ちっぽけってことよ」
沈没船に乗り込んだかのような気分で私は吐き出した。
「ハルルちゃん、悩みすぎ」
即座にツッコミを入れるユキコちゃんは抜かりがない。最近、私が喜怒哀楽の波が激しいことを気にしているようである。友人を心配させるだなんて、と沈没船がどうやってもスイスイと行く潜水艦にならない。駄目だ、コリャ…。
「そうかなぁ? 」
駄目元で誤魔化してみるけれど、ユキコちゃんは分かったらしい。いつだったか、ユキコちゃんから「顔に書いてある」と言われたこともあったっけ。
「等身大の自分ってのが大事よ」
彼女が言う、その言葉に思い当たる節があり、溜め息を吐いてしまう。背伸びしようとしていたそんな自分、とも言うべきか…。
「今の自分自身に甘んじてよって感じかぁ」
そうしないと慢心してムキになってしまうのかもしれない。
コウヅキにとって、私が習得していた手話程度など知ったかぶりにみえているかもしれない。彼は、私の理解度に合わせて指文字を交えるくらいだから。
若しくは、皆がそう感じているのかも…。
ネガティブに捉えた私に対し、ユキコちゃんは身を乗り出してきた。
「そうじゃないって! 」
鼻の穴を大きくして、沈没船を押し上げようとする彼女は自信があり気のように見受けた。
「今、感じた好奇心の赴くままにしなきゃ! 」
ユキコちゃんは、面白そうなことや楽しそうなことを聞きつけて関わろうとする。トライアンドエラーと言って、そうやって彼女は自分自身の好みを掘り出していく。
「若いんだし」
そう続けるユキコちゃんに、私は吹き出してしまった。
「若いって…。私達まだまだ子供じゃないの」
ランドセルやナップザックがお似合いの、背伸びした所でスポーツバックが似つかわしい。そんな年齢ではないか。
私が言った子供の範疇に対し、「あら! 」とユキコちゃんは憤慨したようだった。
「でも、何でもお世話されなくちゃいけない歳じゃないでしょ、四年生なんだから」
むしろ下級生の世話をしないといけない側でしょ、と彼女は呟いた。確かに去年までは五年生とペアを組んで監督されていたっけと思うと、置いてかれているように感じている私も成長しているんだと気付いた。
「新しいクラスになって二ヶ月も経っているし、ピカピカの四年生ってわけでもないもんねぇ」
板に付いたわけじゃないけど、良い加減に慣れなくちゃいけない。無理に大きく見せなくたって、見栄を張らない私。これが結構難しいのだ。
「そうそう」
ユキコちゃんは頷くと、大きく伸びをした。
「まぁ悩むってことはさ」
ん〜っと小さく声を上げながら、私にニヤリと笑う。
「ハルルちゃん、子供の殻を破ろうとしているのよ」
きっと、そう続ける彼女の目元には笑みが残っていた。
「殻をねぇ…」
お母さんに未だに叱られっぱなしで、悲しいことが起きる度に幼馴染のスミレ姉さんに泣きついてしまう。
そんな私が殻を破れるのだろうか。
「純心以外の何かも、大人には必要ってこと…か」
皇月レノンを見ていると、色んな感情が湧いてくる。彼が得意気に『F』と呼んで揶揄ってくるとムッとしてしまったり、私のことに気付いてくれた時や彼が頑張っている所を見ると嬉しかったりするのは何でだろう。
そう思うと、洗われていった雨雲から光が差してきた。あ、エンジェルラダーというやつだ。
「今時、純心はないでしょ」
アレ見て分からないようじゃ大人には未だ遠いよ特にハルルちゃんにはと、耳打ちするユキコちゃんに、私は憤慨した。
「失礼な! 」
私にだってねぇ、と声を荒げそうになった時に、何だと言う風に周りが注目してきたので慌てて口を閉じる。
ユキコちゃんの目線の先、マナカちゃんが微笑みを絶やさずにコウヅキと仲睦まじい様子だ。まごう事なき、王子様の元に舞い降りてきた天使だ。いや、その天使がお姫様のように見える。それ程、マナカちゃんは、コウヅキの前だと可愛らしく映るのだ。
その様子を見れば私にだって分かる。
「マナカちゃんって、コウヅキのこと…」
私ができるだけ小さな声で言おうとした時、ユキコちゃんはシィーッと口元に指を立てる合図をした。
続けようとした「好き」という言葉は、喉の奥に掻き消えた。
月はどんな時が経っても美しい。白く輝くその姿は、光として一つ当てたとしても、似合ってしまうのは凛とした花だけだからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます