出会って反れ合う芽吹きの前に
聞こえる時にはザアァァと砂嵐のような音しか受け入れない耳に、見える時には冴え渡らない何かしか映らない目。昔は、幼い二歳の頃までは本当に聴こえていた視えていたらしい。でも、今の僕は、鏡のように写る世界からも音楽のように響く世界からも閉ざされている時の方が長くて、あの時の景色も音も朧げになっていた。
航空からずっと走っていた車から降りる。
木々を通ってきた風が、皇月レノンの頬を掠めた。
『風があの時のままだ』
幼少時に過ごしてきた広い家、他の人は『屋敷』というらしい。あの場所は特に変わることなく、僕を出迎えてくれた。
『……母さん、あの……』
自分は背後から来る母の気配を感じて伝えたかったのだ、『此処は変わってないみたいだけれども、どんな風になっているの? 』と。
でも、母さんは何時も忙しい人だから。
『あなたに構ってられる暇がないわ。此処のこと覚えているでしょう? 』
母さんの冷たい手が僕を突き放した。実際に押された訳でもない。手話だって早く的確に伝えてきてくれるはずなのに、『お終い』の合図をすると去って行く。
引っ越してきた僕達は、父さんの作業場がある家に戻ってきたのだ。今まではイギリスに居たのだが、母の祖父が自身の唯一である孫娘に仕事の申し入れをしたらしい。彼女はやるせないのか、『日本に支社ができたから』と手話で伝えてくる手は震えていたのを、僕は分かっていたのだ。
父さんは本館に居ず、外の丸太でできたカントリーハウスにこもっている。出てくる度に彼は膠と岩絵具の匂いを漂わせて、自分の頭をガシガシと撫でてくるのだ。その父は終わるまでは頑なに外の空気も吸わない『無精者』というらしい。
母さんと父さんとの距離が近いようでいて遠いのだ。
分かっている。見えていた聞こえていた世界から切離されたから、それぞれの能力を発揮させて働いている両親にとって、自分の存在が足枷になっているってことに。
僕は、誰もが指摘しようともしないが事実とも取れるそのことから目を逸らすように、家から一人で出た。
煉瓦でできた門を白杖で突つく。確か、右に進めば図書館があったはず。
『そういえば、父さんと来ていたな』
肩車をされて高い視点から、緑のトンネルを進んで行った。木漏れ日がポヤポヤと幼い僕の髪の毛を照らしていたような気がする。そうして、帰ってくると、芝生が敷き詰められた庭にオカンムリな母さんが僕等を叱ったっけ。恐らく、「出掛けに行く時くらいちゃんと言いなさい!」っていう内容だったような。そして、その後に父さんが苦笑しながら、「でもなぁ…」と何か言っていた。
『唯一ある、あの世界の記憶』
思い出しても仕方がない。
手に伝わる杖の感覚に集中する。首元が急に暑くなったから、木々の影は此処で終わる。そろそろ、階段があるはずだ。
その時、有り得ないことが、思いもしないことが起こったのだ。モヤが掛かっていたあの世界の入り口、追い立てられた、そこに何かが映る。それは、昔視えた新緑の、それよりも若い色をした何か。何色だっけ。一般に、大抵多くの植物の色は『緑』とカテゴリーされている。緑の何だっけ?
気を取られていたら、足を滑らした。僕は頭から落ちていく感覚に、嗚呼と、生きることを手放したのだ。
大人しく落ちていこうとすると、腹部にドスリと衝撃が来た。誰かに抱きつかれているというより、タックルされたというような感じだ。
ポスリと尻餅をつくと、目の前に『緑』が広がっていた。それが、揺り起こそうとしているのだ、そして、僕の手を握ってきたのだ。
『だ、い、じょ、う、ぶ、で、す、か』
暖かい手が一生懸命に伝えてきたのだ。
知らない匂いに、僕よりもやや小さい丸い手には豆が付いている。きっと同い年くらいの子。こう僕に伝えようとしているだなんて境遇が似ているのだろうかと、ふと思ったが、違うだろうな。手話の中でも仮名文字に対応した指文字を中心として、その子は話しかけているからだ。それに辿々しい。
しかし、『緑』の子は、僕とは初対面のはずだ。ぎこちなさのある手付きの裏腹に、こんなに心配しているのが手から伝わっていくのだ。
『ふ、し、ん、しゃ?』
その子に対して何故だか揶揄いたくなった。
『緑』はワナワナとしたようにしているのが分かって、嬉しくなったのだ。ポンッと叩けば鳴るようで、偽りがなさそうで。
だから、僕は甘えてしまったのだ。
『こ、こ、が、と、しょ、か、ん』
古い本の匂いも変わらない中へと連れて行ってもらう。『緑』の子の腕に掴みながら、杖の感覚を手繰らせた。
一瞬、懐かしい感覚が足を捕える。何故か左に行ってしまう。こっちに何かあったけ? 何だろう?
『そ、っ、ち、は、じ、ど、う、しょ、こ、ー、な、ー』
僕の手に伝えてきたその子は、児童書コーナーに案内した方が良いかと、聞いてきたが、その時に自分は首を横に振った。
父さんが、あの時、何か言ってくれた部屋だと思出せたのだ。
「お前が大きくなったらな…」
若い父が言っていた。二歳児の僕には、大きくなったらってケチ、そう文句を放った場面。
そう「大きく」、「大きく」かぁ。
僕は一時間も経っていないはずなのだ。わざとでもないながらも階段から滑り落ちる際に、命を投げ出そうとも思っていてから。
そんな今の僕に、八年越しに、「大きく」が伝わるとは。
僕はその『緑』の子に、図書館の中へと色々と親切にしてもらった。その子と別れる際に、やけに熱い怒りに燃えていそうな『じゃ、あ、ね』を貰う。自分の手に『緑』が残っているか拳を軽く握った。
その『緑』の子と、また会うとは思わなかった。その子は、『わかばはるる』というらしかった。一喜一憂しているのが分かり易いと思うと、顔が緩んでしまう。
転入した先の第二小学校で、その子と隣の席になった。
『ワカバ』
そう肩に触れ呼ぶと、その子の感情が伝わる面白い子。
わかばは、僕の世界に『色』があるって気付かせてくれた人だ。
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