第4話 ギネス
「ギネス、持ちたいなぁ」
自宅のリビング。勉強に励んでいる最中、ふと思考が漏れていた。
「何よ急に」キッチンにて夕餉の支度をする母が呆れたように返す。
「いや、”世界一”って憧れるじゃないか。僕も何か世界一が欲しくて。母さん、何かない?」
「相変わらず突拍子もない子ね。……まぁ、一つあるけど」
「本当!?見せてよ」
「はぁ、こうなったら聞かないものねアンタは。ちょっと待ってなさい」
コンロの火を止め、エプロンで手を軽く吹きながら、母は足早にリビングを出ていく。そして数分後、一冊のアルバムを持ってきた。埃に塗れ、装本もかなり年季の入ったアルバム。
「何?それ、母さんのアルバム?」
「違うわよ。お父さんのひいおばあちゃん、つまりアンタのひいひいおばあちゃんのアルバムよ」
「ひいひいおばあちゃんの?」
僕の高祖母は今年で120歳になる。明治37年生まれ。以前は元気にチャリで茨城からこの東京まで会いに来てくれていたが、最近ようやく足腰にガタが来始めたようで、晴天の日以外はチャリで来れない。家族の老いとは、げに悲しきものなり。
……そこで脳天に稲妻が走った。どうして今まで気づかなかったんだ。
”高祖母”って、ウチの家族以外で聞いたことがない。
「まさか、ギネスって……」
「あら、もう察しがついたの?随分早いわね」
「むしろ遅いくらいだよ。別にわざわざアルバムを見なくても……」
「いや、見せないとアンタは信用しないだろうから」
と言って、母さんはアルバムの表紙をめくる。貼られていたのは今現在とほぼ変わらない、失礼ながら枯れ木の様に皺の寄った顔のひいひいおばあちゃんの写真だ。
「これはこの前の”大還暦”。つまり120歳の時に撮った写真ね」
「もはやその事実だけで十分だけどね。……でも、こういうときの写真って、もっとちゃんとした礼装着て、ちゃんとした場所で撮るんじゃないの?」
写真の中の高祖母は、いつも通り炬燵に入りながら、使い古した赤いちゃんちゃんこを着てぎこちないピースをしている。写経が趣味の為、手元には紙と鉛筆と消しゴムが無造作に置かれていた。
「何言ってるの、それじゃギネスが映らないじゃない」
「はぁ?どういう意味?」
何言ってるのはこっちのセリフだが、母親は構わずアルバムをめくる。
「これは”百寿”。100歳の時の時ね」
「また写経してる……道具も構図もほぼ同じじゃないか」
20年前。皺の寄った紙、荒く削られた鉛筆、少し大きめの消しゴム。平成初期の為か全体的に”バージョン”が古い気がした。
「次は”喜寿”。77歳ね」
今から43年前。昭和だ。今度は写経中ではなかったが、なぜか就寝前の高祖母が映っている。すっぽりと掛け布団に身を包み、見るからに固そうな、カバーも何も付けていない長方体の白い枕に頭をのせている。
「寝心地最悪だろうに、何でこんなに笑顔なんだ……」
「次は50歳。この年になってようやく一般家庭にも徐々に電化製品が普及し始めたらしいわ。すごい話よね」
満面の笑みを浮かべる高祖母。傍らには等身大の、冷蔵庫と思しき真っ白い家電が鎮座していた。今のものとは当然技術も仕様も異なるのだろう。冷蔵、冷凍庫の区画もないのか、のっぺりとした白い扉一枚が露わになっているだけだった。
「20年前。ついに100年前ね。上京して、初めての一人暮らしが始まったらしいわ」
当時の建物故に、内装もいかにも”平屋”といった雰囲気。粗く組み合わさった木材の壁に裸電球。天井もやけに低い。当然白黒写真なので色の情報は乏しくなるが……高祖母が寝そべる床は、畳ではなくどこか高級感のあるものだった。大理石?なぜ床だけ?それに大理石たらしめている模様の様なものは何一つない。これが高純度のものであるという証明なら、相当の値打ちだろう。
「じゃあ次は……」
「いや、もういいよ。そもそも何でひいひいおばあちゃんの写真を何枚も見せたの?」
「だから、順を追って見せていかないと信用しないと思って……」
「存在が証明してるじゃないか。ひいひいおばあちゃんは120歳。現時点での長寿のギネスでしょう?」
そこで、母は急に眼を丸くした。
「何を言ってるの?現時点での長寿はどっかの国のおじいちゃんで、多分125歳くらいでしょ?」
「えっ?」
「ギネスっていうのはひいひいおばあちゃんの事じゃないわよ」
「どういう事?じゃあギネスは一体どこに……」
「それよ」
母は、呆れ果てたように机の上を顎でさした。
乗っているのは先日デパートで買ったノート、高校入学時に記念でもらった鉛筆、そしていつから使っているのか分からない消しゴム。
「”世界で最も長期間使われた文房具”」
そう言って、アルバムの最後のページをめくる。
「ひいひいおばあちゃんが生まれた日。家の前で撮った写真ですって」
赤子の頃の高祖母と、彼女を抱える父と傍らの母。
彼らが豆粒に見えるほど遠くから撮られているが……その背景は、不自然なほどに白色で埋め尽くされていた。
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