おじいちゃんと海

ヨット

第1話 少年

    

波が砂浜に押し寄せては引いていく。

僕はその景色をただ眺めていた。



おじいちゃんに叱られた。

僕の誕生日だからって、おばあちゃんがハンバーグを作ってくれた。

僕はおばあちゃんのハンバーグが大好きだし、おばあちゃんに喜んでもらいたくて「おばあちゃんの作ったハンバーグは世界で一番おいしい」

って何回も言った。

おばあちゃんはそのたびに「ありがとうね」って優しい顔で笑ってくれた。

僕はおばあちゃんが笑ってくれて嬉しくなった。

それなのにおじいちゃんときたら、

「お箸の持ち方が悪い」

と言って僕の手を叩いて注意してきた。

それまで幸せだった僕の気持ちは、たちまちしぼんでいった。

小学生にもなって叱られているのが恥ずかしかったし、

叩いてくるおじいちゃんにむかついた。

だから、いつもなら「ごめんなさい」って言えるけど、昨日はなぜだか言えなかった。

だから僕は思わず言ってしまった。

「別に持ち方なんて何でもいいじゃん。僕、今日誕生日なんだよ。何で誕生日の日にまで注意するの。お箸の持ち方がちょっとおかしくても、おじいちゃんみたいに嫌なことを言うよりはよっぽどマシだよ。」

僕がそう言い終わっても、おじいちゃんもおばあちゃんも喋らなかった。

部屋には蛍光灯の出す音だけが響いていた。


僕は言ってやったぞって気持ちでいっぱいのはずだった。

おじいちゃんは、僕が誕生日なのに嫌なこと言うし、そのうえ、僕の手を叩いた。だから、おじいちゃんの言うことを聞かないで、おじいちゃんに言い返しても清々した気持ちのはずだった。

だけど、なんだか急に鼻の奥がツンとして、のどがきゅっとなって、涙が流れてしまった。

僕自身、何で泣いているか分からなかった。

「もう。なに泣いてるのよ。」

おばあちゃんはそう言って、また優しい顔で僕の頭をなでてくれた。

僕は悔しかった。こんなことで泣いてしまう自分にも、何も言わないおじいちゃんにも。僕は泣きながらおじいちゃんの方を見た。

おじいちゃんはいつものように500mlのビール缶を飲んでいた。

おじいちゃんは500ml、おばあちゃんは250ml。それは僕が生まれる前からの習慣らしい。そう言えば、ビール缶に書かれている麒麟という読み方を教えてくれたのはおじいちゃんだった。

そんなことを今思い出したくないのに思い出して、また涙があふれてきた。おじいちゃんはそんな僕の方を見ながらゆっくりとビール缶を置いて、言った。


「おう、そうかい。そんなに嫌いなら出て行けよ、ほら。」


おじいちゃんはそう言ってへらへらと笑い出した。

僕はたまらず、立ち上がって、玄関まで走った。立ち上がる時に椅子を倒したけどそんなのはおじいちゃんが悪くて、僕は悪くないんだ。

だけど、椅子の音にびっくりしていたおばあちゃんを見るとまた涙があふれてきた。コンバースのかかとを踏んだまま、家を出て、自転車に乗って、どこに行けばいいかも分からず、ただおじいちゃんの家から離れたくて自転車をこいだ。

家と反対の方向に漕ぐことなんてめったになくて、運動会の日におばあちゃんとおじいちゃんでお寿司を食べに行った時以来だった。

そのお寿司屋さんも過ぎてしまうとだんだん怖くなってきて、自転車から降りたくなった。でも、情けない自分にはもうこりごりだったし、おじいちゃんを困らせたくて、怖くても自転車をこぎ続けた。


いつのまにか住宅街を抜けて、細い川の河川敷を走っていた。おじいちゃんの家から離れたいと思っていても、やっぱり帰れなくなったら困るから、川に沿って自転車を漕ぐことにした。そうやって、帰り道の心配をするのがいかにも自分らしくて、悔しかった。

それでも我慢して漕ぎ進めると、だんだんと川幅が広くなって、水面も僕の方へ近づいてきた。

僕は、ここで初めて自転車を止めた。

自転車から降りると本当に静かだった。

人も、車も、虫の気配すら感じなかった。本当に世界で一人きりになったようだった。ただぼんやりと真っ暗な川の水を見ていただけなのに、なんだかとてつもなく怖くなった。ときどき聞こえてくる水の音が怖さをより一層際立たせている。

「帰ろう。」

気が付けば独り言でそう呟いていた。

そして、自転車のハンドルを握って、反対方向に向きを変えた。

すると遠くから自転車の光が見えた。

僕は焦った。夜遅くに小学生が一人で遊んでいたら通報されちゃうって先生が言ってたからだ。

だけど、僕は遊んでいないし、夜も遅くないから大丈夫だ。

この道は自転車一台分くらいの幅しかなく、通り過ぎるのを待つしかなかった。

そう自分に言い聞かせて遠くからやってくる自転車が通り過ぎるのを待っていた。


だけど、やっぱり怖くて俯いて立っていたら、僕の目の前で、ギギギーって音を出して自転車が止まった。

再び真っ暗になった道は静けさに包まれた。

「おい、帰るぞ。」

僕が顔を上げると、そこには自転車に乗ったおじいちゃんがいた。

「このばかたれが。」おじいちゃんはそう言っていたけど、ちょっと笑っていた。

僕もなんだかほっとして、「ごめんなさい」って言った。

おじいちゃんは僕の頭に手をのせて、僕の頭をくしゃくしゃに撫でた。

僕はおじいちゃんにムカついていたのに、どうでもよくなって笑っていた。

「帰ったらおばあちゃんに謝ろうな。」おじいちゃんはそういうと再び自転車に乗って漕ぎ始めた。僕もおじいちゃんの後に続いて自転車を漕いだ。

さっきまではとても怖かった夜の川が、おじいちゃんが前にいるともう怖くなかった。

このままどこへでも行けそうな気がした。

 


去年の冬、おじいちゃんが死んだ。

大腸がんだった。

おばあちゃんはおじいちゃんの入院が始まると毎日お見舞いに行った。

おばあちゃんは、麒麟の500mlと250mlの缶ビールを隠し持って、毎日病院に行ったらしい。

初めて気づいたのは僕だった。

いつもとは違う時間にお見舞いに行ったら、おじいちゃんもおばあちゃんも手を後ろに回して座っていた。

だけど二人の口の周りには白いひげが付いていて、僕は思わず笑ってしまった。

二人も僕が笑っている理由に気づいて、やっぱり笑った。

だから、おじいいちゃんが死んだときもその光景を思い出して、おじいちゃんが死んだのに泣く気になれなかった。


おじいちゃんが死んでから一人で海を見に行くことが増えた。

河川敷を通って海まで自転車を漕いでいると、夜中におじいちゃんと一緒に自転車を漕いでいた気分を思い出すからだ。

あの日はすごく遠い気がした河口も、海まではまだまだ遠くて。

それでも大人になった僕なら海まであっという間についてしまう。

砂浜に座って、波が押しては引いていく光景をぼんやりと眺めている。

500mlの麒麟を開けてみる。

プシュッと音を立てた割には元気がないように見える。

波打ち際まで歩いて、

「おじいちゃんすきだったもんね」って言いながら海に注いでみる。

ビールはぼとぼとと音を立てて落ちていった。

そのとき

「このばかたれが。海に注ぐ者があるか。」って怒鳴る声が聞こえた気がした。

そんな声が懐かしくて構わず注ぎ続けた。

ついでに僕の涙もちょっぴり注いだ。

注ぎ終わるとさわやかな気分で自転車に乗れた。

僕の後ろから乱暴な風が吹いて僕の頭をくしゃくしゃにした。

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おじいちゃんと海 ヨット @sakasunounagi

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