神さまはいない

 ヨンは貧しい農家から口減らしの奉公に出された子どもだった。年季奉公とはいえ実態は身売りで、二度と家には帰れないと言われて王都外れの商家で下働きをした。元来頭がゆっくりしていたヨンは誰より物覚えが悪くて連日殴られた。殴られると疲労は数倍に膨れ、よりものが考えられなくなってまた叱られ殴られる。ある新月の晩、強く殴られて倒れ頭と鼻と耳から血を出して、翌朝目覚めた時には目が見えなくなっていた。

 めしいたり歩けなくなったりした下働きは路上に捨てられるのが常であったところヨンがそうならなかったのは、失神している夜の間に栗色の髪は銀に、薄紅色だった爪も銀に、そしてはしばみ色だった瞳が輝く紺青に変わっていたためだ。商家の主は王城にも出入りしており、百年に一度現れるという『月の巫女』の容姿を知っていた。

 たちまちヨンは全身を洗い立てられ豪奢な着物を着せられて王城に差し出された。

 その時巫女だなどと思われず路上で死んでいたほうがよかったのだ、と今は思う。


 今、ヨンは自分の声と痛みの区別がつかなくなるほど激しく悲鳴を上げていて、牢には誰一人味方はいない。それは牢に入れられる前でも同じだったが、外ではヨンの身体に太い針を刺したり焼いた釘を打ったり、指を鉄の器具で挟んで砕いたり爪と肉の間に針を刺したりする者はいなかった。

 痛い。痛い。骨に当たるまで刺さる針が、焼かれた釘が肉を焼くのが、指の骨が砕かれるのが、爪と肉の間に釘が突き刺されるのが、痛くて痛くて痛くて怖くて見えない世界のどこから次の痛みが来るか分からなくて怖くて怖くて怖くて怖い。痛い。怖い。嫌。嫌。どうして。逃げられない。すぐ殺してくれない。苦しめるのが目的なんだ。痛い。痛い。気を失いたい。今死にたい。今。今。今死んでここから逃れたい、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! 私を人間だと思っているならこんな事できない。私が普通じゃないから、私が馬鹿でのろまで目が見えないから、私は誰かの娘じゃないから、だから誰も私のためには何にもしてくれなくて私は永遠に身体に焼けた釘を刺される。暑くて寒くて吐くことも息もできずに悲鳴が出て喉は破れ血にせ、身体はばらばらに千切れそうで、縛られたところが食い込んで痛くて指の骨を砕かれるのが痛くて身体が裏返りそうなほど叫んで叫んで殴られて叫んでもう死にたい。どうか殺して。今すぐ殺して。

 らくのことが頭に浮かんだ。猛烈な痛みと恐怖にがくがく震える身体から心が千切れて関係のない記憶を掴んだ。駱駝。駱駝。駱駝駱駝駱駝。砂漠ってなに。乾いた砂。吹雪。緑州オアシスってなに。どれほど遠いところ? 焚火のそば? 焼け落ちる両手。駱駝のこぶは水。分からない。森を渡って。ああ。ああ。ああ私は何て馬鹿だったんだろう、神鏡がないのを確かめにたび神殿に向かったあの時、辿のに! 神官たちは冬山を長く歩けず倒れて消えてくれただろう。そうして森を渡り西の国へ行き、あの狼を探せばよかった。

 あの人だけは私に親切だったのに。

 ああ神様、いつも何一つ助けてはくださらない!

 きっと神様なんかいない。見えない目にすら見えないものを信じられない。ヨンはただあの焚火の記憶だけにしがみつく。死にたい。死にたい。死んで駱駝の夢を、狼の夢を見たい。私はあのたきぎの一本であればよかった! あの人を暖めて焼け落ちる痛みのほうがどんなにましだったか!


 やがて牢の入口から悲鳴が聞こえ、何事かと振り返った看守や神官、赤く焼けた釘を手にした刑吏は檻に赤い肉塊が衝突し飛び散るのを見た。直後、彼らもまた絶叫の中で順番に薙ぎ倒され、ヨンの血で床だけが赤く染まっていた牢の中は壁も天井も全て赤黒く塗り潰される。

 立ちはだかる者をすべてほふりながら駆け抜けてきた狼男は、鉄の椅子に縛り付けられた血まみれのヨンを見て憤怒の咆哮を上げた。その腕や首を覆う狼の銀の毛は逆立ち、牙も爪も人間の血に濡れていたが、明らかに狼のものと知れる金色の眼には涙が浮かんだ。拷問の椅子に取りつき娘の細く柔らかい身体に食い込んでいた戒めを引き千切る。爪の間に刺さったままの針をどうしたらいいのか狼男は躊躇した。

 その数秒の間に、背を切り裂かれながらも立ち上がった兵が牢の中まで追ってきて長い斧を振りかぶり、狼男が気づいた時にはもう重い斧が振り下ろされている。

 自分一人なら避けられる。しかし斧は動けないヨンに刺さってしまう。

 狼男は躊躇ためらうことなく、ヨンの身体を庇って覆いかぶさった。

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