もしも願いが叶うなら
――狼さん、お名前は何とおっしゃるんですか?
本当は名乗りたかった。名を渡してヨンに祈ってもらえば少しは解呪の効果があるのではないかと思ったのだ。何しろヨンからは
あの娘はほんものだ、とシルファは思う。だからきっと月の神殿に納められた鏡の力も月神の力もほんものだ。シルファを縛る魔術師は火の力を使うから、恐らく水神でもある月の力を帯びた巫女に勝算があるはず。
シルファは帰る場所もなく漂流する魔族で、かつてその心の
目標や夢もなかった。自分を擦り切れた雑巾のような生き物だと思ってきた。それでもやはり自由になりたいと思ったのはヨンに会ったからだ。
手首足首には枷の痕が刻まれていた。鎖は重く垂れ下がり、歩きにくそうな傷だらけの木靴は足に合っておらず、衣服も寸足らずで冬物でさえない。銀糸で縁取られた
国の
自由になりたい。ヨンもそのはずだ。あの娘を自由な世界に連れていけたら。
あの時、焚火の前に並んで座りながら彼女はこう言った。
――もしも願いが叶うなら、狼さんのように旅をしていろんな国を見たいし、家族もほしいです。
努めて諦めている言い方だった。
――火に当たらせてくださってありがとうございました。旅のご無事を祈っています。どうか、お気をつけて。
そう言って焚火を離れたヨンは、シルファがごく近く後を追って月の神殿まで辿り着いたことには気づいていないだろう。吹雪になったため足音も聞こえないし、山の中ではシルファは自分の気を自然と溶け合わせることができる。
シルファが魔術師に命じられたのは月の神殿から神鏡を盗み出すことだ。ヨンの国が幾度侵攻されても敗れず版図を守り拡大していくのは月神の加護のため。その力を
本当にそうだろうか。疑問はあっても今のシルファは魔術師に逆らえない。祈りを捧げたヨンが神殿を後にするのを見た後、神鏡を盗み出して国に戻った。何かの祟りがあるかと思ったが、何もなかった。
何もなかったのだ。
魔術師が調べ上げた方法で月神の祭壇を組み祈りを捧げても何も起こらない。何日もの試みのあとで、疲れ果てた魔術師は激昂した。
「祈りだ」
魔術師は絞り出すような声で言った。彼は宮廷政治の裏側で王の命なく行った悪事が明るみに出つつあり、近いうちに大きな手柄を上げなければ王宮を追われる運命にあった。だから焦っている。
「鏡単独ではこれといった力はないのだ。月の巫女の祈りでなければ月神に届かず、神鏡も役目を果たさないに違いない。クソッ、だからあの国だけに月神の加護があるんだ。シルファ、もう一度あの国へ行け。月の巫女を生け捕りにして私の前に連れて来い!」
嬉しくなかったと言えば嘘になる。あの月の巫女ヨンに会えるから。
シルファは全速力で西から東へ冬の森を駆け続けた。
あの娘を
もしも自由の身になったなら、今度こそあんな魔術師には敗けない。ヨンを連れて逃げよう。誰も追ってこない遠い国へ、二人で――あるいはヨンだけでも。
やがてシルファは森を渡り人里の離れを通り抜け、月の巫女が王城に住んでいると知ると王都へ入る。月神の加護で大陸一栄えている都と噂に聞いたのに、猛吹雪と異常な寒気のため道端には凍った死体が転がっていた。街は吹き溜まりに沈み暴風雪に殴られ続けている。
どうなっているのだろう。シルファは耳を澄ませる。風の中でも集中すれば、乏しい通行人や家に閉じこもった住民たちの会話を聞き取ることができる。
――神様のご加護が消えてしまったというんだよ。
――ああ、この火が消えたらあたしたちも死んでしまう。
――兵隊に取られた隣の息子も一向に帰ってこない。
――軍は東方の戦場で凍え死んだと聞いたぞ。
――神様の鏡が失くなったのだって。
――不吉だ。月の巫女は何をしているの。
――巫女のせいで神様が怒っている。
――王様は巫女を罰すると。
――そうだ、この国を元に戻せ。
――そのために犠牲になるのが巫女というものじゃないか?
――嫌がるのなら、魔女かもしれない。
――吊るせ。逆さに吊るせ。重りをつけて吊るせ。
――焼けた釘を打て。爪を剥がせ。針を刺して魔女のしるしを探せ。
――水に投げ込め。巫女ならば死なないだろう。
――いいや、
――縛り上げろ。痛めつけろ。吹雪を止めないのなら殺してしまえ!
これはまずい、と急いで凍りついた城壁を登り城内に入り込んだシルファは、吹雪の向こうから聞き間違いようのないヨンの声を聴いた。
長い絶叫のような悲鳴。血と水と鉄の匂い。
シルファは逆上した。
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