遠国の話

 取って喰われるかと思ったのに、掴んだ手を少し引き戻されただけ。なぜ。私は美味しくなさそう? ヨンのその困惑が伝わったのだろう、狼男はほんの短いため息のあと、焼ける、と言った。

「手を炎に突っ込むところだ。冷え切って感覚がないんだろう。ここより火に近付くな」

 そして手が離される。

「……手枷。あんた奴隷か?」

 そう言われても、ヨンにはどうしようもない。月の巫女は国のさかえを大きく左右するから万一のことがあってはいけないと城内の神殿裏に繋がれたまま暮らしてきた。しかし、寝床には屋根と毛布があり食事が当たり、式典の際には美しい着物を着せられて聖職者の列の前の方に並べられる月の巫女は、恐らく奴隷とまでは呼べないだろう。

 答えられずにいると、パチパチと足元でまた焚火がぜた。狼男はヨンの返事が遅いのに構わずたきぎの面倒をみたようだった。

「私、奴隷ではありません。ヨンといいます」

「ヨンか。俺は見ての通りの狼男だ。ああ、見えないのか……とにかく、この森に入って三日になるが人間に会ったのは初めてだ」

「私もです。ここは我が国では禁足地なので誰も入りません。時たまよその国から、それを知らない無茶な旅人が来て通り過ぎるくらいです。森は繋がっていますから」

「途中、行き倒れの死体や骨はいくつか見たな」

 その中には私の先代がいたかもしれない、とヨンは思った。月の巫女は老い始めて力を失うと身一つでこの森に追放される習わしになっている。それは巫女の器であった肉を月神に捧げる重要な生贄で、次の巫女が生まれ神殿参りを再開するまでの祈りの空白を補うために必要だと言われていた。

 先代が森に追放されたのは今から七十年ほど前だ。その死と同時にヨンが生まれて後々王城に召し上げられ、しきたり通り十四の時から五十年以上、森の神殿参りを続けてきた。

 私はずっと私のお墓の中を歩いているのだなあ、とヨンは思う。墓の中で魔族と言葉を交わしているなんて、何だか不思議なことだ。

 狼男は西方の国から来たという。隣で話をしていると、王城に仕える人々に比べてその身体の引き締まった分厚さ強さ、背の高さ、厳しい環境に慣れた者独特の気配の薄い鋭さをよく感じられる。狼男が通り抜けてきたのであろう山々の気も心地よかった。針葉樹の枝から落ちる雪、風に揺れる梢の葉鳴り、鳥の声、動物たちの気配、どこからか来て海へ注いでいくという川の音。彼はヨンの知らない山をたくさん知っている。それからきっと、ヨンの知らない種類の悲しみや死にも触れている。その身体からは戦いの血の気配が漂っている。

「雪が降らない国も多い。いつでも夏のように暑く、ひどいと何もかも枯れて一面が砂の海、砂漠だ。昼じゅう熱風に打たれながら、人の生きていけない暑くて乾いた砂漠をらくで旅する」

 駱駝って何でしょう? と首を傾げたヨンに狼男は、砂漠の馬のような生き物で背中に大きなこぶがあり、荷物も人も運べる、と説明した。その口調は最初よりもやや柔らかく、ヨンはあまり怖くなくなってきている。

「駱駝は暑くて乾いた場所でも生きていけるんですか?」

「そうだ。こぶに水が入ってるからだと現地の奴らは言うが、本当かな。分からん。本当なら人間が死にそうな時、駱駝を殺して飲み水にしそうなもんだ。だがそういうのは見たことがない」

「まあ……。この山の雪をたくさん持っていけたら、助かる人もいるのでしょうか」

「そんな夢のようなことができるならな。実際には、現れては消える緑州オアシスを探しながら何とか生き延びていくしかない。だが美しさもある。夜になると、溺れるんじゃないかと錯覚するほどたくさんの星が輝く。星は全て地上の人間と魂で繋がっていて、苦しい時も星を通して天が見ていてくれると現地の人々は信じてる」

 ぱち、ぱち、とたきぎぜる。美しい音だとヨンは思った。冷えた身体も心も暖める火のもたらす音。神殿裏の住まいにも冬は薪を貰えるが、こんなに沁みるような柔らかい暖かさではない。

「……星は助けてくれないが、信じることで心の持ちようを得るのだと言っていた。俺は魔族で信仰を持たん。だがあんたは神殿に通うんだから、何かの神を信じているんだな」

 ええ、と答えたものの、それは嘘かもしれないとヨンは思う。月の巫女に生まれついたと言われ、神殿参りを命じられるからするのであって、捧げる祈りは月神にというよりは運命なるものに対しての祈りだ。どうかこの先、災いが起こる運命ではありませんように、と。そして持ち帰る神託とて、神の言葉を聴いたことなど一度もない。祭壇の鏡の前にぬかづくと、心の中でずっと閉じていた本がぱっと開いて『読める』ようになる。その中身を王城で報告しているだけだった。

「ヨン、俺はこの山にある月の神殿を探してるんだが、場所を知ってるか。あんたは何の神殿に行く?」

「月の神殿です。でも、あの……」

 ようやく手先にたっぷり焚火の熱が感じられ、身体も暖まって少しだけ眠い。狼男の声は低くて心地よく、火の側に招いてくれたことにも油断したヨンはつい喋ってしまった。

「月の神殿に行く道は、月の巫女にしか開かれないのです。他の人が探しても木々に迷わされて同じところをぐるぐる回ってしまい辿り着けません」

 その神殿に行く自分は月の巫女だと明かしているも同然の言葉だと、愚かにもヨンは気付かずにいた。

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