第5話居酒屋『一休み』
「ごめんください。やっていますか?」
「なんだい。ひこ坊じゃないか。昨日は大変だったねえ」
弥八の貧乏道場から北にしばらく歩いたところにある居酒屋『一休み』に彦次郎は訪れていた。そこで女亭主のお町がへらへらと笑って応対する。
お町は四十半ばだが年齢不詳と言われるほど若く見える。下手をすれば二十後半に見えてしまうだろう。それは背が低くて子供のような体型をしているのが原因だ。
そんな子供のようなお町が彦次郎のことをひこ坊と呼ぶのはおかしみを感じる。しかし彦次郎は気にしてなどいなかった。付き合いが長いこともあるが、それ以上に世話になっているからだ。
「相変わらず耳が早いんですね。俺が襲われたこと知っているんですか」
「当たり前さ。道端で切腹した武士なんて珍しいからねえ。だけど、それにあんたが関わっていたって聞いたときは驚いたよ」
蓮っ葉な喋り方をしつつ、席についた彦次郎に白湯を出すお町。店に他の客はいない。開店前に彦次郎が来たからだ。
「今日は弥八と一緒じゃないのかい?」
「兄さんは用事があるみたいです。稽古が終わってすぐに出かけました」
「女のところに遊びに行ったのかねえ。お盛んなこった」
「その代わりにたくさん食べますよ」
「酒の飲めない子供に気を使われるほど困ってないよ。これでも繁盛しているんだ」
彦次郎は白湯を飲みつつ「それは表の商売の話ですか?」と訊ねた。
「それとも、裏の話ですか?」
「はん。どっちもだよ……あんたがここに来た理由は分かっている。どうせ自分が狙う刺客の情報を知りに来たんだろ?」
彦次郎は黙って頷いた。そうでなければ店開きの前に訪れたりしない。
「生憎だけど、どうしてあんたが狙われているのか、情報は入っていないよ」
「そう、ですか……お町さんなら知っていると思ったのですが」
少しだけ残念そうに呟く彦次郎に「期待に添えなくてごめんね」とまるで悪びれていないお町だった。
しばらく沈黙が続いた後、お町は「仇討ちのこと、まだ諦めていないようだね」と話した。
「ええ。当たり前ですよ。そのために俺は生きているんですから」
「あんたの人生だ。後悔しようが、あたしゃ別に痛くもかゆくもないね」
「その情報もまだ、手に入っていないようですね」
「そりゃ十年前のことだもの。調べるのは骨が折れるよ」
彦次郎は「依頼して二か月が経ちます」と目を伏せた。
「それでも分かりませんか?」
「何の進展もないさ。でもね、面白い話を仕入れたよ」
「面白い話? なんですか?」
何の期待もしてない彦次郎に対し、にやにやと笑うお町は「あんたの母親を殺した下手人の特徴さ」と続けた。
「あんたが暮らしていた村……辺鄙な村ゆえに見知らぬ人間が来たら直ぐに分かる。当時の村人が覚えていたんだけど、怪しげな男がいたんだって」
「ま、まさか……その男が?」
「その男は村人と会話していた。そのときに家紋が入った印籠を見たんだって」
彦次郎は身を乗り出して「そ、それじゃあ、その男が母を殺したんですか!?」と興奮気味に言う。
お町は逆に冷静で「あくまでも可能性の話だよ」と応じた。
「その家紋とやらを村人は何となく覚えていたけど、なり形までははっきりと覚えちゃいない。だから今、家紋を探している最中なのさ」
「そ、そこまで話が進んでいるんですね!」
「あんたからはけっこうな額のもの、貰っているからね。確か、母の形見だっけ」
彦次郎がお町に依頼料として渡したのは、母のかんざしだった。
それしか高価なものを持っていなかった――形見を渡すことは苦渋の選択だったが、致し方なかったのだ。
「さて。ここまで話をした上であんたに頼みたいことがあるんだ」
「また厄介事ですか? この前は変な取引を妨害するってことでしたけど」
お町は彦次郎にいくつかの依頼を出していた。
それらを達成すればかんざしを返すと約束したのだ。
「今回も厄介事だよ。このあたしさえ、関わりたくもないことさ」
「なんですか? 斬った張ったのことですか?」
「そうなるかもねえ。なにせ、相手は千住のならず者だからさ」
それを聞いた彦次郎は「岡場所とか関係ありますか?」と訊ねた。
岡場所とは準公認の遊郭のことである。
「関係あるね。そこを仕切っているやくざから、幼気な少女を守るのがあんたの役目だ」
「……俺、今刺客に狙われているんですけど」
「狙われていようがいまいが、こっちの事情には関係ないさ」
「刺客のほかにやくざにも狙われたら……」
お町は「上手くやるしかないね」とにべもなく言った。
ガクっと頭を落とす彦次郎は「詳しい話、聞かせてください」と頼んだ。
「話が早くて助かるよ。その少女は吉江という。あんたの村の子さ。覚えているかい?」
「覚えていませんよ。十年前ですし、少なくとも俺は会ったことないです」
「そりゃそうね。吉江は十三才だし。あんたらは村の外れでひっそりと暮らしていたから。それで吉江には兄がいるんだけど……やくざになっちまったのさ」
腕組みをして彦次郎は「なんだか嫌な予感がしますね」と不安そうな顔をした。
お町は「その予感は当たりだよ」と笑った。
「両親が止めるのを押し切って、兄を引き戻そうと千住まで行ったのさ。十三の娘がだよ? 信じられるかい?」
「無鉄砲なんでしょうね。俺にも経験があります」
「今もでしょ。ま、それで娘を無事に連れ戻してくださいってのが依頼よ」
彦次郎は「やくざが絡んでいると、やっぱり斬った張ったになりそうです」と半ば諦めたように呟く。
「でも聞いて。あんたはその両親の依頼、断れないのよ」
「なんでですか? 別に知り合いでもないのに――」
「その両親が家紋のことを覚えていたのよ」
「……偶然って怖いですね」
そこで彦次郎は冷めてしまった白湯を一気に飲み干した。
そして「明日の朝、出立しますよ」と依頼を受けることを了承した。
「母の死が関わっているのであれば、俺は断りませんから」
「即決即断は格好いいけど、せっかちなのは良くないね。兄のいるやくざの名前とか、その兄の名前もあんた知らないじゃないか」
「ああ。そうでした。教えてください」
「そのどうしようもない兄の組は雄平一家ってとこ。そして兄の名前は吉平だよ」
彦次郎は「それだけ知れば十分です」と頷いた。
「さてと。それじゃあご飯ください。稽古が終わった後なのでお腹空いているんですよ」
「はいはい。今作らせるよ。ちょいとお待ち」
やくざが関わる案件をあっさりと引き受けたのは、彦次郎の母の死が関わっているからだ。
それ以外に理由はない。
もちろん、面識のない少女、吉江のことは何とも思っていなかった。
次々と出される料理に舌鼓を打ちながら、彦次郎は考える。
どうして吉平はやくざになったのか。
どうして吉江は兄を連れ戻そうとするのか。
お町に聞けば答えてくれるだろうけれど、敢えて聞かなかった。
何故なら彦次郎への依頼は吉江を連れ戻すことだった。
つまり兄はその両親にとってどうでもいいのだ。
やくざになろうが野垂れ死にになろうが関係ない。
もしも兄のことを気にかけているのなら、二人を連れ戻してほしいと依頼するはずだ。
だから――そんなにひどい展開にならないだろう。
彦次郎はそう楽観的に考えていた。
一方、料理を運んでいるお町は、きっと悲しいことが待ち受けているんだろうねえと思っていた。
一筋縄ではいかないと予想もしていた。彦次郎には荷が重いとさえ感じていた。
それでもやり遂げてくれるだろうとも考えていたのだ。
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