第4話帰り道

「いい加減、白状したらどうなんだ! お前がやったんだろ!」

「何遍も言っているじゃないですか! 俺はやってません!」


 それから半刻。繰り返し発せられる同心の怒声に対して、彦次郎は否定し続けた。ありもしない罪を着せられるのは真っ平御免だった。けれども、しつこい同心は「お前があの男と諍いがあったのは分かっているんだ」と続けた。


「刀を抜いての殺し合いをしていたことも、お前がよく分からない剣術を用いていたことも、証言は取れているんだ」

「見ていたなら助けてくださいよ……死ぬところだったんですから」

「死ぬのが嫌だから殺したのか?」

「言葉尻を捉えないでください。違います」


 奉行所の一室で行なわれている取り調べは、明らかに彦次郎を下手人だと断定していた。何を言っても無駄なんだろうなと彦次郎が思い始めた頃、新たに同心が部屋に入ってきた。


「どうした? 何か分かったのか?」

「獄医の話だと、本当に切腹して死んだらしい。あの身元不明の男」

「なんだと? 介錯もなしにやったのか?」


 どうやら疑惑はそこだったようだ。

 介錯なしに切腹をする。それはとてつもない覚悟が無ければできないと彼ら同心は考えていた。ならばこそ、彦次郎を疑っていたのだ。


「ただの喧嘩じゃないのか?」

「ただの喧嘩で人を殺すように、俺が見えますか?」

「…………」


 二人の同心は顔を見合わせた。元服前の少年がそんな大層なことができるとは思えない。それに悪人にも見えなかった。


「では何故、あの男は切腹なんかしたんだ?」

「……俺だって知りたいですよ。命が狙われた理由もね」


 自身の使命が果たされなかったとしても、切腹まで行なうだろうか?

 それほど重要なことなのだろうかと彦次郎自身、疑問に思った。


「それからお前に迎えが来ている」

「迎えですか? 誰です?」

「誠一郎と名乗っていた」


 その名を聞くと彦次郎はあからさまに嫌な顔をした。

 また説教されると分かったからだ。


「もう帰っていいぞ。下手人じゃないのなら居ても無意味だからな」

「で、できればここで一泊とかできませんか?」

「意味が分からん。お前はまだ疑われたいのか?」


 そうですよね、と彦次郎は渋々従った。

 重い足取りの中、奉行所の外に出ると誠一郎が門の前に立っていた。

 いつもより険しい顔だった――相当怒っているなと彦次郎は震えた。


「あ、義兄上……その、これはですね……」

「……帰るぞ」


 素っ気なく言う誠一郎。手に持っていた提灯が震えているのは怒りのせいだろうか。

 彦次郎が「……はい」と言うとそのままくるりと回って屋敷の方向へ歩いていく。

 道中、彼らの間に会話は無かった。屋敷に着いてから説教するのかなと彦次郎は怯えていた。


「母上が、お前のことをいたく心配していた。ちゃんと謝っておけ」


 屋敷にもうすぐ着くというときに誠一郎が足を止めて口を開いた。

 静かだが、何かを耐えているような声音だった。


「義母上が? いつも物静かな人なのに……」

「母上は感情を表に出さない人だ。しかし、お前のことを気にかけている」

「そうですか……」

「お前は――母上を実母のように思えないのか?」


 誠一郎は彦次郎と顔を合わせなかった。

 前方をずっと見つめている。


「思おうと努力はしました。それでも、俺は母をまだ大切に思っているのです」

「今回の件、その母親が関係しているのか?」


 その問いに彦次郎は髪をかき上げつつ「可能性はあります」と答えた。


「母と関係しているのかと編み笠の男に訊ねました。するとかの者は否定しませんでした。それに全然違う理由なら意味が分からないと言うはずです。だけど、反応を見る限りは関係がありそうでした」

「ならば、これからお前は狙われることになる」


 それは聡明な誠一郎でなくとも推測できた。

 彦次郎は「でしょうね」と短く答えた。


「お前は逃げようと思わないのか?」

「母の死に関係するのなら逃げるわけにはいきません」

「そこまで、母が大事なのか」

「父を知らない俺にとって、母が全てでした。十年間、あの日のことは忘れられませんでした」


 誠一郎は「最後に訊く」とようやく振り返った。

 その目はひたひたと濡れていて、明らかに心配していた――その事実に彦次郎は息を飲んだ。


「お前は、命を狙われることが怖くないのか? 今回は助かったが、いつかは負けて死ぬかもしれないんだぞ」

「…………」

「お前はまるで分かっていない。お前が死んだら父上や母上、しぐれが悲しむんだぞ。お前が母を悼むようにだ」

「……それは、分かっている、つもりでした」

「なら俺も悲しむことは分かっていたか?」


 誠一郎から出た意外な言葉に彦次郎は反応しそこなった。

 そして意味を理解すると――今まで張っていた糸が切れた。

 死と隣り合わせの戦いを思い出し、今更ながら恐怖がやってきた。


「あ、あう……お、俺は……」

「無理をするな。まだお前は若い……いや、幼いんだ。怖かったら怖いと言え」

「義兄上……俺は、武士です……怖いなんて……」


 誠一郎はそっと彦次郎に近づいて、左肩を握った。

 強くない優しい触り方に暖かみを覚える。


「そうだな。武士なら怯えてはいけない。それでも――頼っていいんだよ」

「…………」

「俺に頼ることは恥じゃない。そりゃそうだろ。兄が弟を慮るのは当然のことなんだから」


 彦次郎は涙をこらえた。

 頼ると甘えるのは違うと分かっていた。

 それにここで泣いてしまえば、今まで築いてきたものが崩れてしまいそうな感覚があった。


 誠一郎は彦次郎から離れた。

 弟の強がりを見守ってやろうと考えたのだ。


「さあ、帰ろう。今日の晩御飯はお前が好きなぶり大根だ」

「それは、楽しみですね……帰りましょう!」



◆◇◆◇



「へえ。無事で何よりだったな。しかし昨日の今日でここに来るとは、どういう心境だ?」

「一日稽古を怠れば、腕が鈍りますから」


 そして翌日。

 彦次郎は弥八の道場に来ていた。

 上段蹴りをしつつ昨日起こったことを話す。


「そりゃあそうだな。鈍れば死ぬかもしれねえ」

「他人事みたいに言うんですね」

「そりゃ他人事だからな。俺が狙われているわけじゃないし」

「可愛い一番弟子が心配じゃないんですか?」

「あん? 心配されたいのか? それに心配したら生き残れるのかお前は」


 軽口を叩かれた彦次郎は「手厳しいですね」と苦笑した。

 上段蹴りをやめて正座となる。


「どうした改まって」

「弥八の兄さん。もっと俺に稽古をつけてください。刺客から身を守れるように」

「刺客を倒せるように、とは言わなかったな」

「そこまで俺は傲慢ではありませんよ。もちろん、倒せるに越したことはないですが」


 弥八は腕を組んで「剣脚流は足技を主眼に置いた剣術だ」と言う。


「足を使う理由はなるべく刀で人を殺めないためではない。足を使えばそれだけ相手の虚を突ける。その結果として倒せるからだ」

「ええ。重々承知しております」

「だからお前もいつか、人を殺すかもしれないぞ」


 昨日見た編み笠の男の死にざまを思い出す彦次郎。

 人を殺すという重みのある言葉は軽々に返答できるものではない。


「お前はそれでも戦うのか? 人を殺したら、今までのように笑えないぞ」

「……覚悟はしています」


 彦次郎は真っすぐ弥八を見た。

 目を逸らすことなく――


「そもそも、母を殺した者の復讐でここに通っているのです。とっくの昔にできているに決まっているじゃあないですか」

「そうか。ならば俺は何も言わん」


 弥八は壁にかけてある木刀を手に取った。

 そして「一手、指南してやろう」と構えた。


「かかってこい。お前が生き残れるように、お前が刺客に勝てるように、鍛えてやる」

「はい、ありがとうございます。弥八の兄さん」

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