第3話初めての死合
断言するが隙をつくことに成功した彦次郎は、その気になれば自身の住まいである武家屋敷まで逃げ切れた。弥八に習った剣脚流を用いれば塀や壁を乗り越えて、屋根伝いに走ることも可能だ。
当然、彦次郎の頭にその考えが過ぎらなかったわけがない。しかし、それでも戦わなければならないと彼は思い直した。
「万が一、義兄上や義父上義母上に危害が加わるようであれば、防がなければいけませんね」
背後から殺気を感じている彦次郎。わざと逃げ切れない速度を保っている。そして自身に有利な場所まで誘導しているのだ。
「俺の名を知っていて、帰り道で待ち伏せしたということは、ある程度調べはついているはず。なら――屋敷に押し込んでくる可能性もあります」
だからこそ、彦次郎のやるべきことは――逃走ではなく撃退だった。それもどうして彦次郎を狙うのかを白状させることも視野に入れている。難易度の高い事柄だが、やるしかないと彦次郎は考えた。無論、若さゆえの無謀も含まれている。
「さて。ここでいいでしょう――」
彦次郎が選んだのは、なんと袋小路だった。
三方を塀に囲まれている。道幅も狭い。確かに居合抜きは難しそうだができないほどではなかった。
自ら死地に来たと思われても仕方がない。
「……死ぬ覚悟が決まったようだな」
「ふん。生憎ですが、決まっておりませんよ。俺が決めたのは――戦うことです」
そこで彦次郎は深呼吸をした。
初めての実戦。
初めての死合。
それらの緊張感が全身を包む。
対照的に編み笠の男はひどく落ち着いていた。戦いの経験はかなりあるようで、刀の鍔に指をかけながらじりじりと迫っている。
「戦う前に一つ訊かせてください。あなたはどこの出ですか?」
「素性を探ってどうする? 貴様はここで死ぬのだぞ?」
「そうじゃあありません。もし故郷に家族がいるのなら、報告しておきたくて」
編み笠の男が怪訝そうに「何を報告するのだ?」と訊ねる。
彦次郎は無表情のまま、至極真面目に答えた。
「あなたが死んだ報告――ですよ!」
その言葉を皮切りに彦次郎は間合いを一気に詰める!
しかし先ほどと同じだと断じた編み笠の男は「他愛なし!」と素早く居合抜きを放った。避けられるはずもない、一撃必殺の一閃だった――
「やはり、あなたは相当の達人のようですね――」
感心に似た声が編み笠の男の耳まで届いた――認識した瞬間、視界がブレる。
編み笠の男は己がたたらを踏んでいるのだと分かったがどうしようもできない。まるでドロドロとした煮込み料理のように、視線が定まらない。
「こ、の――クソガキがぁ!」
抜刀した刀をでたらめに振り回した編み笠の男に、彦次郎は「おっと危ない」と言って大きく離れた。前後不覚の状態から立ち直った男は自身の顎に手を置く。じんじんと痛みがあった。
「居合抜きを、すり抜けたのか……? いったい、どうやって?」
「素直に答える義理はありません」
彦次郎が行なったことは単純そのものである。編み笠の男が居合抜きをしたとき、右の塀を蹴って大きく飛び上がり、そのまま男の顎に蹴りを直撃させたのだ。結果として居合は空を斬っただけに過ぎなかった。その間は刹那と呼べるほど短い時間だった。
「その怪我のままでは、俺に勝てませんよ。諦めたらどうですか?」
「……使命を果たすまで、退くわけにはいかん」
既に不退転を心に決めている編み笠の男に「どうして俺なんかを狙うんですか?」と心底不思議そうに訊く彦次郎。
「別に人様から恨まれるようなことはしていませんが」
「確かに恨みなどない。だが命は貰わねばならぬのだ」
「……それは、母のことと関係ありますか?」
彦次郎の頭に過ったのは優しかった母の記憶だ。彼女の暖かな眼差しを今でも覚えていた。
「それこそ素直に答える義理はないな」
先ほどのやりとりを揶揄したのは明らかだった。
彦次郎は「そうですか……残念です」とあからさまに落胆する。
「もうそろそろ、騒ぎを聞きつけた人がやってくるはずです。逃げるなら今のうちですよ」
「その前に貴様を斬ればいい」
再び高まる殺気に何か秘策があるなと彦次郎は感じた。弥八との稽古で培った勘のようなものだ。
編み笠の男は構えた――後手必殺を狙っている。彦次郎が言ったように人が来るかもしれないのに、敢えて待ちの体勢となった。
「そんな覚悟を見せられたら、野暮なことはできませんね。いいでしょう。剣脚流の真髄を見せます」
彦次郎は木刀を逆手で持ち、だらりと力を抜いて構えた。それは突撃そのものを表している。
互いの気力が高まったのを見計らって――先に動いたのは彦次郎だった。
「エイヤァ!」
何の迷いもなく、そして惑うことなく、彦次郎が近づいた瞬間、編み笠の男は刀を抜いた――その動きは音がひずみ、光が歪むと見紛うほどの一閃だった。おそらく男の生涯で最も優れた斬撃だろう。
しかし反射的に彦次郎は木刀を刀の軌道上に置いた。鉄を仕込んだ木刀だがあまりの威力で弾かれて上空に飛ばされる。
「秘技――二の太刀」
編み笠の男は振り終えた刀を素早く上段に構え直した。木刀を無くした今、彦次郎が刀を防ぐ術はない。そのまま袈裟斬りをせんと、一直線に――斬る。
「剣脚流――啄木鳥」
回転しながら落ちてきた木刀を掴むことなく、柄の頭の部分を横蹴りで蹴って――編み笠の男を狙う。それは男が振り下ろすよりも先に刃先が鳩尾に吸い込まれるが如く、突き刺さる。
「うぐ……!」
刀を落としてその場にうずくまる編み笠の男を見下ろしながら危うい決着だったと彦次郎は考えていた。まさかの二の太刀があるとは思いも寄らなかったのだ。
「これで決着ですね……さあ、どうして俺を殺したかったのか。教えてくれますね?」
編み笠の男の刀を手に取りながら訊ねる彦次郎は呼吸を整えていた。初めての実戦で緊張していたが、終わってみればなんてことないと慢心していた。既に相手が何も抵抗できないと思っていた。それは油断と同じだった――
「……ふんっ!」
編み笠の男は腰に提げていた脇差を抜いて――自身の腹に突き刺した。
「なあ!? な、なんで、そんな真似を!」
そのまま腹を引き裂いていく編み笠の男は口から血を吐き出しながら「お、怯える、がいい……」と言う。
「き、貴様に、刺客が放たれた……いずれ、し、死ぬことに、なる……」
最後に編み笠の男は腹から脇差を抜いて、そのまま左胸を刺した。切腹で介錯人がいないときの作法だった。
「はあはあ、うっぷ……おええ……」
目の前で壮絶な死に方をした編み笠の男。血の臭いも相まって、彦次郎は吐いてしまった。
「お、俺なんか殺すのを失敗しただけで……なんで死なないといけないんですか……?」
呆然と立ち尽くす彦次郎は衝撃を受けていた。あっさりと死を選ぶのもそうだが、はたして自分に何の因縁があるのか、見当もつかない。
「おいお前! 刀を置け!」
そんな声が彦次郎の前からした――誰かが奉行所に通報したのだろう。同心と岡っ引きが数人現れた。
「な、なんて野郎だ。お前が殺したのか?」
「い、いえ、違います! この人が勝手に死んだんです!」
「問答無用だ! おい、引っ立てろ!」
同心の指示で岡っ引きが彦次郎に近づく。
抵抗しても無駄だと分かったので大人しく捕縛された。
「さあ来い! 奉行所でお前が仕出かしたことを後悔させてやる!」
「……もうとっくに後悔してますよ」
そのとき、彦次郎は編み笠の男の死体を見た。苦痛に歪んだ顔を見て、酷い死に方だなと思った。
しかしそれ以上に考えるのは。
自分を殺したがった理由だった。
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