第2話居合抜き

「弥八の兄さん、酷いんですよ。あれから何遍も床に叩きつけられました」

「それも稽古のうちでしょ? 仕方ないことじゃない」

「手厳しいなあ、しぐれさんは」


 夕暮れ時。橙色が空を染め上げようとする中、彦次郎は自身の幼馴染である、しぐれの家に来ていた。彼女の屋敷の居間で向かい合って話している。


 十八のしぐれは美人の部類には入るものの、目つきの悪さと隈の濃さで印象が良くなかった。柳の下にいれば幽霊と見紛うほどの肌の白さを持っていた。加えて女性の中でも背が高い。嫁の貰い手に困る容姿だが、これでも許嫁がいる。そんなしぐれは旗本の娘だった。


 彦次郎が住んでいる武家屋敷と住まいの距離が離れているが、それでも彼はほぼ毎日会いに来ていた。武家の娘は案外退屈らしく彦次郎の話を楽しそうに聞くのが日課となっていた。


「少しぐらい慰めてくれたっていいじゃないですか」

「あら。慰めてほしいの? 昔みたいに膝を貸してあげようか?」

「い、いえ。要りません……」

「照れるくらいなら言わないでよ」


 どうも彦次郎はしぐれに弱く、いつも丸め込まれてしまう。だが彦次郎は悪い気がしないようで、笑顔のままだった。


「それで、相変わらず仇討ちのために鍛えているの?」

「そうですね。それしかやることがないので」

「誠一郎さん、なんとかやめさせようとしてるって聞いたけど」


 誠一郎の名が出ると、途端に顔を曇らす彦次郎。折り合いが悪いわけでも、特段仲が悪いわけでもない。しかし仇討ちの件に関しては――二人の意見は異なっていた。


「彦次郎に危険なことや悲しいことをさせたくない。常々、誠一郎さんは話しているわ」

「余計なお世話、ありがた迷惑です。あの人はいつだって、俺を子供扱いします」

「元服前なんだから子供じゃない」

「これでも強くなったんですよ。寺にいた頃に比べたら格段に成長しました」

「心はどうかしら? 本当に成長したと言える?」

「それは、仇討ちのために生きるのが子供のようだ、と言いたいんですか?」


 ムッとした表情になった彦次郎に「仇討ちなんて勝手にやって」としぐれはあっさりと返す。


「ただあなたのことが心配なのよ。はたして無事に仇討ちが成せるのか。大怪我をするんじゃないかとか。それにもしも返り討ちに遭ったらと思うと……」


 憂いに満ちた表情になるしぐれ。

 そんな彼女の顔を見ると、彦次郎は何も言えなくなる。

 だけどここで仇討ちをやめるなんてことも言えなかった。そのために生きているのに、諦めてしまえば今までの人生を否定してしまうからだ。


「……ごめんなさい」

「ううん。いいの。ちょっと意地悪なこと言ったわね」


 しぐれは彦次郎に近づいて、右手を握った。

 突然のことに彦次郎は顔が赤くなる。


「し、しぐれさん?」

「絶対に死なないで。死んだら許さないから」


 胸の鼓動が高鳴る。

 しぐれの手の柔らかさが彦次郎を動揺させる。


「はい。絶対に死にません」

「……ありがとう」


 そっと離れたしぐれ。

 そして笑顔で「誠一郎さんによろしくね」と言う。


「もうすぐあの人との祝言だから。楽しみに待っているわ」

「……そうですね。義兄上も楽しみに待っていると思いますよ」


 彦次郎の心に冷たい風が去来する。

 口うるさいけど、自分のことを心配してくれる優しい義兄が自分の初恋の人と婚姻する。

 何をどうすればいいのか。

 まだ幼い彦次郎には分からない。



◆◇◆◇



 すっかり日が暮れてしまった道を、彦次郎はてくてくと歩いていく。

 今日もしぐれさんと話せて嬉しかったなとか、明日は弥八の兄さんから一本取ってみたいなとか、益体のないことを考えていた。


「――お前、彦次郎だな」


 辺りには人がいない。左側には川が流れていて、右側は塀が広がっている。誰も通らないのは柳の木が植えてあるからだ。幽霊が出るとの噂がある。

 そんな場所で前方から声をかけられた――剣呑な声音だった。


「ええ。俺は彦次郎ですけど……あなたは?」


 目の前の男は編み笠を深く被っていて、顔がよく見えない。

 男だと分かるのは着ている服装からだった。

 腰には大小の刀を提げていて士分だと分かる。


「――許せ」


 短く発せられた謝罪の言葉と共に、男は一閃した――居合抜きである。

 通常ならば彦次郎は斬られていたが、怪しげな男と居合をする前の殺気で一歩後ろに下がれていた――小袖を斬られるだけで済んだ。


「な、なあ!? 何をするんですか!?」


 いきなり斬られたこともそうだが、それよりも驚いたのは男の殺気がますます強まったことだ。

 彦次郎は持っていた木刀を片手で構えた――全身が震えている。


「悪いが命を貰う」

「そ、そんな、三文芝居の台詞みたいな――」


 言い終わる前に男は刀を納めた。

 一瞬、やめたと思ったが次の瞬間、殺気が増大したのに彦次郎は気づく。


「い、居合の達人ですか……」


 そう。彦次郎の推測通り、男は居合の達人だった。

 先ほどは躱されてしまったが、今度は逃さないという気迫がありありと感じられる。

 対して彦次郎は居合の達人と殺し合いなんてやってられないと、今にも逃げ出したくなった。


「だけど、逃げたら後ろから斬るつもりでしょう……それは勘弁願いたいですね」


 結局は戦うことを選んだ彦次郎。

 いきなりの展開について行けないが、やるしかないとじっと編み笠の男を睨む。


「覚悟あり、か……上等!」


 言うか言い終わるかの狭間に――繰り出した一閃。

 彦次郎の間合いを読み切っている。逃れようがない――


「――セイヤァ!」


 構えた木刀を素早く逆手に持ち直して、横薙ぎの一閃を受け止める彦次郎。

 普通の木刀ならばそのまま斬られて彦次郎も怪我を負っただろう。

 下手をすれば絶命したのかもしれない。

 しかし――


「……なんだその木刀は」


 驚いたのは編み笠の男のほうだった。

 木刀は斬れるどころか曲がることなく、折れることもなく、そのままの形を保っていた。


「ひいい、なんて威力の居合ですか……手が痺れそうです……」


 当の彦次郎も居合に慄きながらも五体満足でいる。

 実は彦次郎の木刀は特殊な拵えで、中に鉄芯が入っているのだ。

 片手でも刀が振れるようにと弥八が考案した代物だった。


 男は素早く刀を納めた。

 一応、刀は伸びていない。

 ならば斬れる――今度こそ。


 彦次郎は後ろに下がり間合いを取って、相手の出方を窺う姿勢となった。

 木刀のおかげでなんとか凌いだものの、次からは効かないだろう。

 居合の刃を木刀で防いだのは奇跡に近い。編み笠の男ほどの実力者ならば、頭部から脚部まで好きに狙うことができる。


「だったら、先手必勝しかないですね!」


 彦次郎は何の事前動作なしに、一気に編み笠の男との距離を詰める。

 その速度はまるで稲妻のようで、素早く彦次郎は自身の間合いに編み笠の男を入れることに成功した。


「くっ――小賢しい!」


 油断はしていなかった。

 慢心もしていなかった。

 だが予想はしていない。


「エイヤァ!」


 走った勢いのまま、彦次郎は編み笠の男に向けて――前蹴りを放った。

 居合を行なう間も無く――彦次郎の蹴りは、男の鳩尾に吸い込まれるように激突した。

 ドガン! と鈍い音を立てて後方へ吹き飛ぶ。

 追撃の好機だったが、彦次郎は後追いせずに、この場からの逃走を選んだ。


「手加減はしましたから。それでは御免!」


 くるりと反転して逃げる彦次郎。

 その背に強い殺気を感じる――まだ編み笠の男は諦めていないようだった。


「……逃がさん」


 編み笠の男は立ち上がって彦次郎を追う。

 彦次郎は決死の覚悟で走りながら考える。

 どうして自分が狙われているのかと――

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