剣脚流の彦次郎 ~大江戸決闘絵巻~

橋本洋一

第1話強くなる理由

「義兄上! もう勘弁してください! 説教はこりごりです!」

「こら、どこへ行く! まだ話は終わってないぞ!」


 時は天保元年、場所は江戸の武家屋敷。

 その縁側でどたどたと騒いでいる少年と青年がいた。


 少年は十六才でまだ元服していないのか、伸ばした髪を後ろで一本に結んでいる。顔立ちも大人びいておらず、どちらかというと女性的だった。しかし鍛えてはいるようで身体つきは引き絞っている。背はあまり高くなく、五尺と少ししかない。格好は武家の子供のように小袖を着流していた。帯刀はしてないが腰には稽古用の木刀を差していた。


 一方、青年のほうは月代を剃っていて、二十歳は超えている様子。眉が太くきりりとしていて、右目の泣きぼくろが印象的な美男子で中肉中背のしっかりとした体格。少年と対照的に背は高く、天井近くまで伸びている。こちらは裃を折り目正しく着ている。帯刀もしていた。


 そんな二人が追いかけっこをしている――ばしっと青年が少年の首根っこを捕らえた。


「捕まえたぞ! さあ、勉学に励むと約束しろ! これから朱子学の講義をしてやる!」

「そんなの習ったって意味ないですよ、義兄上!」

「意味がないわけがないだろう――彦次郎!」


 少年――彦次郎は口をへの字にして「私にも用事があるのです」と言い出した。


「これから道場で稽古があるのです。行かないと弥八の兄さんにどやされます」

「あんな貧乏道場に通っても出世の道につながらんぞ!」

「もう! 義兄上はいつもそうです! 私は出世などしたくはありません!」


 すると青年は「じゃあお前は将来、どうやって暮らしていくんだ?」と神妙な顔で問う。

 どうやら彼は彦次郎の身を案じているようだ。


「このまま、この屋敷に住み続けるのか? 一家の主になりたくないのか?」

「…………」

「成長しろ、彦次郎。お前ならいずれ――」


 言い終わる前に「もういいではないか、誠一郎」と青年の名を呼ぶ声が後ろからした。

 二人が視線を向けると、そこには四十半ばの初老の男が立っていた。

 青年に似た太い眉の持ち主だった。


「父上! あなたは彦次郎に甘すぎます! そんなことだから――」

「――隙あり!」


 気が逸れた瞬間を見計らって、彦次郎は上手く誠一郎の手から逃れた。

 誠一郎がしまったと思う間もなく、縁側に置いていた草履を取った彦次郎は庭先の岩や木を利用して――塀の上に立つ。さながら古の忍びのような動きだった。


「お、おい! 彦次郎――」

「それでは、御免!」


 そのまま屋敷の外へ下りた彦次郎。

 もう追えないと分かってしまった誠一郎は大きなため息をついた。


「おお。相変わらず身軽な奴だ。ますます素早くなったな」

「父上……感心している場合ですか。彦次郎は――」

「あれは佐川家にとって必要な子だよ」


 穏やかな表情のまま、初老の男――佐川太助重臣は自身の嫡男を諭す。


「好きにやらせておきなさい。いつか、あの子は大きなことを成す……気がする」

「父上……そこは断定してください……」


 呆れた顔のまま、誠一郎は彦次郎が消えた先の塀を見る。

 透き通るような青空が広がっていた。



◆◇◆◇



「あーあ。帰ったら義兄上に怒られるんでしょうねえ。帰りたくないです」

「どうした彦次郎。手が止まっているぞ」


 みすぼらしくてところどころ床が痛んでいる貧乏道場。

 ぼやきながら木刀を右腕だけで振っている彦次郎に対し、道場主である弥八は軽く尻を叩く。


 弥八は彼独自の流派、『剣脚流』の師範を務めている。体格は彦次郎より少し背が高いくらいで、世間的には小柄な部類に入る。しかしながら彼もまた筋肉質な体型をしており、色黒なことも相まって漁師の頭のように見えてしまう。彼はほつれた稽古着を着ていた。


「それがまた義兄上が口うるさかったんです。酷い話でして」

「どうせまたてめえが勉学を怠けたんだろ? いつものことじゃねえか」

「手厳しいですね。俺だって考えはあるんですよ」

「言ってみろよ。こんな貧乏道場に通うのを優先する立派な題目があんのか?」


 道場主が言う台詞ではない。

 彦次郎は少し黙ってから「俺の目的のために、強くならないといけないんです」と答えた。


「強くなって、母上の仇を取らなければなりません」

「……あのさ。相手の顔も名前も知らないんだろ? どうやって見つけるんだよ」


 弥八の指摘に「それでも、探さないといけないんです」と力強く木刀を振るう彦次郎。

 片手で振っているのにびゅんっと音が道場に響く。


「俺はこれでも武士のはしくれ。母親が殺されたのに、仇を討たないわけにはいかないのです」

「だけど、お前が不在のときに殺されたんだ。何の手掛かりもないのに見つけられるものかねえ。それにだ――」


 弥八は手に持った木刀で彦次郎の左腕を示した。

 木刀を握るでもなく、添えるでもなく、そのままだらりとしている左腕。


「――産まれたときから不自由な左腕じゃあ人を斬れねえ」

「だからこの道場に通っているんですよ」


 素振りをやめて、彦次郎は真っすぐ弥八に木刀を向けた。

 挑む目つきのまま「一手、指南してください」と言う。


「そろそろ、弥八の兄さんから一本取らないと前に進めませんから」

「生意気言いやがって。ま、取れるもんなら取ってみな」


 彦次郎は左足を前に、右足を後ろにして、姿勢を低くした。

 木刀を持った右腕を顔の傍に添え、刃を上向きにしている。明らかな突撃の構えだ。


 対する弥八は両手でしっかりと持って、正眼に構えている。

 何の変哲もない構えに見えるが、剣の心得がある者ならば感嘆の声を上げるほど、滑らかで淀みのない姿勢だった。


「いきますよ――エイッ!」


 気合を入れて突貫した――彦次郎は横薙ぎに木刀を振るう。

 弥八は一歩下がることで回避する――しかし次の攻撃は木刀で防ぐしかなかった。

 横薙ぎの勢いのまま、彦次郎は身体を回転させ、右脚を遠心力よろしく弥八に叩きこむ。

 木刀は勢いを付けさすための布石だった――弥八の木刀が蹴りの威力に軋んだ。


「相変わらず器用な野郎だ――」


 そう言いつつ、弥八もまた反撃を試みる。

 空中にいる彦次郎に向けて右の上段蹴りを放った。左腕が利かない彦次郎は防御できず、そのまま左の側頭部に当たる――首を捻って最小限の怪我に抑えた。


 道場の床に倒れ込んだ彦次郎だが、ここで弥八の足を狙った蹴り、つまりは足払いをした。すぐさま反撃できるのは元々、受ける覚悟を決めていたからだろう。


「甘えよ。そんな苦し紛れの攻撃なんざ、効かねえ」


 まるで大縄跳びを飛ぶが如く、大きく跳ね上がる弥八。

 逆に伸ばしきった足を踏みつけてやろうと狙いを定める――


「――危ないですね! 骨折したらどうするんですか!?」


 慌てて足を引っ込める彦次郎。

 どたん! と道場中に大きな音が立った。弥八が着地したからだ。


「どうした? もう終わりか?」

「見くびらないで――くださいよ!」


 倒れた姿勢から、柔軟な身体と右腕と腹筋で跳ねるように起き上がった彦次郎は、そのまま弥八に攻撃を仕掛ける。ずずいと接近して、急に後転し弥八の顎を蹴り上げようとする。

 しかしこれは予想されていたのか、上半身を反らすことで弥八は回避した。

 そして逆立ちとなった彦次郎の両足を掴んで――持ち上げた。


「わわわ!? 何をするんですか!? 放してください!」

「その頼みは良くねえんじゃねえか?」


 彦次郎がぶんぶんと腕を振り回した最中に先に手を放した弥八。

 頭から落とされた彦次郎はぐへえという汚い悲鳴を上げる。

 彦次郎が頭を押さえて悶絶する中、首筋に弥八の木刀が添えられる。


「はい。俺の勝ち」

「ううう、また一本、取れなかった……」

「てめえは身軽だ。でもな、そいつは攻撃が軽いっていう弱点でもあるのさ」


 悔しそうな彦次郎に解説する弥八だが、弟子の成長を目の当たりにして喜んでいた。

 たとえ仇を討つという理由でも、強くなってはいけないわけではない。

 道場主である弥八はそう考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る