二八章 脱走なら任せて!

 校舎こうしゃの外に出てみると世界はさらに混沌こんとんとした様子を増していた。

 世界をらすやみはさらにく、深くなり、空一面がみがかれた黒曜こくようせきのように輝いている。

 それはある意味、太陽の輝く青空以上に美しい空だった。その空の下に広がるのは精巧せいこう石像せきぞうの立ち並ぶ灰色の大地。

 「……なんだか、シュールな絵のなかに入り込んだみたい」

 「ああ、おれもそう思う。なんか、こういうのもいいなって思っちまうな」

 「うん」

 エルも心からうなずいた。

 それも体のなかに流れるバロアの血によるものか、それとも、この世界が実際に人間の目から見ても美しいものなのか。

 それはわからない。とりあえず、ふたりには関係のないことだった。関係があるのは別のことだった。

 ギャア、

 ギャア、

 ギャア!

 耳障みみざわりな声が空のあちこちからひびいていた。子供の甲高かんだかさけごえに、のどのつぶれたおとなのだみ声を混ぜて、貪婪どんらん凶猛きょうもうな食欲をたっぷりとまぶしたような声。

 ふたりは空を見上げた。

 そこには多くの生き物がっていた。いままで生きて動くもののなにひとつなくなっていた世界に生き物の姿が戻ってきていたのだ。

 だからと言って、ふたりはとても喜ぶ気にはなれなかった。それは怪物だったから。コウモリを子供ほどの大きさに引きのばし、人の姿にせたようななにかだった。

 「あれが……デイモン」

 「だな。本で見たことがある。たしか『スカヴェット』って書いてあったな。するどい足の爪で獲物えものをひきちぎり、肉を食う、意地いじきたない連中だってさ」

 「……もうデイモンたちが現われるほどになっちゃってるんだ」

 自分の大好きな世界、どこもかしこもキラキラとかがやき、オモチャがいっぱいにつまった宝箱のようだった世界。

 その世界が少しずつ、でも、確実にかわっていってしまっている。その現実を見せつけられてエルは涙がにじんだ。そして、もし、自分たちがやるべきことをできなければ世界は二度と元の姿に戻ることはないのだ。

 「スカヴェットはデイモンのなかでは一番の下っぱだってさ。非力なもんだから自分では戦わないし、獲物えものることだってめったにない。他のもっと強いデイモンが獲物えものをしとめるのをまっていて、そいつがいなくなったあとに残った死肉をむさぼり食うんだってさ」

 「最低の連中ね」

 「そうだな。でも、おれたちを殺すぐらいの力はあるよ、きっと」

 「こっちは、なんの力もないただの子供だもんね」

 エルは深々ふかぶかとため息をついた。

 「こんなとき、英雄物語なら魔物を倒せる聖なる武器とかが手に入るようになってるのにね」

 「現実はそれほど甘くないってことさ」

 エルが思わず吹きだすぐらい、ニーニョはおとなぶって答えた。

 「あいつらはデイモンたちの先兵せんぺいでもある。次元を越える《門》の開き方が小さいうちは強力なデイモンはやってこられない。だから、まず、スカヴェットみたいな小物がやってくるんだ。そして、こちら側からも《門》を開く。そうしてはじめて強力なデイモンが出てこれるようになる。そのうちきっと、ずっと大物が出てくるぞ。伝説にある、指先ひとつで山を吹っ飛ばすような正真しょうしん正銘しょうめいの怪物がな」

 「そんなのがきたら、バロアの封印ふういんかれちゃうでしょうね」

 「だろうな」

 そこでエルははっきりとほがらかな笑顔を浮かべた。晴ればれとした口調で言う。

 「じゃあ、その前に《バロアの天体図てんたいず》と《ちかいのほのお》を見つけだして魔王エーバントニアを召喚しょうかんする。やることは単純ね」

 「そう、単純。というわけでさっそく行こうぜ」

 「うん!」

 そうは言ったもののひらけた道の上を全速力で駆けぬける、などという真似まねはしなかった。

 まだ一〇歳の子供にすぎないふたりだが脱走だっそうに関してはベテランだ。敵の目をぬすみ、抜け出すためのコツは知り尽くしている。

 なによりもまずあわてないこと。まわりをよく見て、自分の位置と相手の位置を計算し、相手の行動を予測してから動く。それが大事だ。あせって飛び出せば、たちまち見つかり敵の手に落ちることになる。

 ふたりは物音をたてないよう静かに歩きだした。物陰ものかげかくれ、様子ようすをうかがう。

 スカヴェットたちはなにをしているのか。ただ飛びまわっているだけなのか、なにか目的をもって行動しているのか。それがわからなければこちらも行動しようがない。それがわかるまでじっと我慢がまんだ。物陰ものかげひそみ、息を殺し、相手を観察かんさつするのだ。

 スカヴェットたちの目的はすぐにわかった。獲物えものを求めているのだ。石像せきぞうとなった人たちのまわりにむらがり、さかんに足の爪を立て、牙だらけの口でかじりついている。

 だが、さいわいに、と言うわけにはいかないだろうけど、スカヴェットたちの爪や牙は石には通じないようだ。ひっかこうが、かじりつこうが、石像せきぞうにはきすひとつつかない。もしかしたらバロアの魔力で作られた石は普通の石よりかたいのかもしれない。

 スカヴェットは、心をもたないと言われるデイモンたちのなかでも一番の下っぱと言われるだけあって知能も低いらしい。爪も牙も立たないというのに、あきらめることなくおそいつづけている。ギャアギャアという耳障みみざわりなさけごえは、獲物えものの肉を食いちぎることのできない苛立いらだちにちがいない。

 ニーニョはホッとむねをなで下ろした。

 「とりあえず、まちの人たちはだいじょうぶみたいだな」

 「……うん」

 ニーニョの言葉にエルはうなずいた。よろこべる事態じたいではないけど、それでも生身なまみの人間がデイモンのれにおそわれ、食いちらかされる、なんてことになるよりはずっとましだ。

 まかり間違まちがえば、まちの人たちを石にすることなくデイモンだけを呼びよせてしまう、ということもありえたのだ。そうなっていたら……。

 エルはあわてて首を横に振り、その不吉ふきつ想像そうそうを追い払った。

 「あいつらは食うことに夢中むちゅうだ。石像せきぞうだけしか見ていない。石像せきぞうのないところを進めば目につかないだろう。一気に通り抜けられるぞ」

 「そうね。でも、忘れないで。ということは、生身なまみのあたしたちが見付けられたら最後、どっとおそってくるっていうことよ。そうなったら逃げることもできない」

 「ああ、わかってるさ。とにかく静かに、音を立てずに、においもさせず。とにかく、近くのマンホールまで行くんだ。なかに入っちまえばこっちのもんだ。下水道のなかまではまだデイモンもいないだろうし、一気に走って行ける」

 アカデミー周辺しゅうへんのマンホールの位置はもちろん、すべて把握はあくみ。ふたりはそろそろと動きだした。

 ゆっくり、ゆっくり、物音を立てないように。もちろん、警戒けいかいおこたらない。エルが四方しほうに視線をめぐらし、まわりの様子をうかがう。それではまっすぐ進むことなどできないのでニーニョが先に立って手を引いて手近なマンホールまで連れていく。見つかりそうになったらすぐに姿をかくせるよう、つね物陰ものかげの近くを通ることも忘れない。

 先導せんどう警戒けいかい分業ぶんぎょう

 脱走だっそうれたふたりならではの無言むごんのチームワークだった。

 「……なあ、エル」

 エルの手を引きながらニーニョが言った。

 「なに?」

 と、こちらも視線を四方しほうくばりながらエルが答える。

 ニーニョの声は笑いをかみ殺しているようなひびきがあった。

 「こんなときだけどさ。おれ、すっげえ楽しくなってきた」

 「あたしも!」

 エルは思わず破顔はがんした。不謹慎ふきんしんだとわかってはいるけど、心踊こころおどらずにはいられない。

 ――自分は圧政あっせいに立ち向かうレジスタンスだ。敵の兵士たちの監視かんしの目をかいくぐり、必要な物資ぶっしを仲間たちに届けにいくのだ。あたしがこの任務にんむに失敗したら仲間たちは全滅ぜんめつする……。

 そんな空想をしながら抜け出したことは何度もある。いまはそれが現実となっているのだ。見つかれば殺される。自分たちが殺されればこの世界は二度と元の姿を取り戻すことはない。レジスタンスの仲間どころか世界の命運そのものが自分たちにかかっているのだ。

 なんというスリル。

 なんという緊張きんちょうかん

 心臓しんぞうがドキドキし、思わず顔がほころんでしまう。いったい、他の誰がこんなすごい場面に出くわせるというのか。ここで成功させなかったら主役じゃない!

 「やっぱり、冒険っていいよな」

 「うん、最高」

 ふたりは首尾しゅびよくマンホールにたどり着いた。ふたを開け、ハシゴを伝ってなかにおりる。ここまでくればこっちのもの。ふたりは全速力で走りだした。

 勝手知ったる下水網。まようことなどなにもない。あっという間にダナ家本家の屋敷やしきのそばまでやってきた。マンホールのふたをそっと開け、地上の様子をうかがう。

 このあたりにはもともと人通りがなかったらしく、石像せきぞうになった人の姿がない。おかげでスカヴェットたちも寄りつかないようだ。その姿も、耳障みみざわりなさけごえも聞こえない。

 「よし、行くぞ」

 「うん」

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