九章 邪眼のバロアだぞ!

 ゾディアックと下界げかいをつなぐ坂道は長い。子供の足では片道、数時間はかかる。近くの屋台でフィッシュ&チップスとミルクティーを山と買い込んで両手に抱え、途中で森に立ちよってバロアの邪眼じゃがんに突き刺すためのくいわりの枝を手に入れ、坂道をくだっていく。

 お互い相手に負けまいと知っているかぎりの歌を唄いつづける。下界げかいまちから坂道をのぼってくる商人や旅人たちが元気よく唄いながら行進する子供たちを見かけては何事かと視線を向けていく。

 最初の頃は元気いっぱいだった。『英雄になる』という空想に身をふるわせ、血をたぎらせるだけの余裕があった。

 けれど、坂道はあまりにも長かった。歩いているうちに声がれ、唄うこともできなくなった。

 お腹もすいた。

 当たり前だ。午前の授業を抜け出してきたから給食も食べていない。給食の時間までには学校に戻ってなに食わぬ顔で食堂に飛び込むつもりだったのだけど……。

 日がかたむき、夕暮ゆうぐれが近付きつつあった。東の空が暗くなり、西の空が赤く染まりだした。太陽が地平線に近付き、黄金色の小さな玉から赤く広がった姿にかわりだした。

 もうそろそろ夕食の時間だ。

 お腹が減った。グウグウ言っている。屋台で買い込んだフィッシュ&チップスとミルクティーはとっくに食べ尽くしてしまったし、もう食べるものも飲むものもない。

 下界げかいから、大きな馬車に食料を山と積んで運んでくる商人たちとは何度も行き合った。彼らから食料を買うことはできた。

 ただし、そのための金がない。なけなしの小遣こづかいはフィッシュ&チップスとミルクティーを買うために使い果してしまった。

 というわけで、子供たちはすきっ腹を抱え、唄いすぎていがらっぽくなったのどをさすりながらトボトボと歩いていくしかなかった。のど湿しめらせるための水一滴あたりにはない。

 のどかわく。ヒリヒリする。ただでさえ唄いすぎてのどが痛んでいるというのに水一滴、飲めないとあってはまるで拷問ごうもんだ。

 足も痛い。いつも街中まちじゅうを駆けまわっていた元気いっぱいの子供たちとはいえ、こんな長い時間、坂道をくだりつづけたのははじめてだ。下界におりたこともあるにはあるけど、そのときはいつも馬車に乗っていた。自分の足で歩いてくだるのははじめた。

 坂道はのぼるよりもくだるほうがつらい。ふくらはぎがまるで石になったように固くなり、ひどく痛んだ。一歩、歩くごとに泣きたくような痛みが走る。

 ひざがガクガク言う。力が入らない。ちょっと後ろから押されたらたちまち転んでしまいそう。実際、何度も転びそうになり、そのたびに仲間の誰かにぶつかり、ののしりあいになった。とくに、相手側にぶつかったときには大変だった。

 「気をつけろよ、このうそつき!」

 「お前だってさっき、ぶつかってきただろ!」

 「ぶつかってない!」

 「ぶつかった!」

 「うそつき!」

 「うそつき!」

 「おれの仲間をうそつき呼ばわりなんて許さないぞ!」

 「こっちの台詞よ、あんたたちなんてさっきから転びそうになってはぶつかってきてるじゃない! わざとなんじゃないの⁉」

 「なんだと⁉」

 そんな調子でたちまちグループ同士のくち喧嘩げんかに発展してしまう。殴り合いにならなかったのは単に疲れていてそんな気力がなかったからだ。そうでなければまちがいなく殴り合いのだい乱闘らんとうになっていた。

 夜はどんどん近付いている。太陽はもう半分以上、隠れている。空を暗闇くらやみおおいはじめた。吹きかう風からは昼間のあたたかさが消え、冷えはじめた。

 冷たい風に打たれて体が冷える。みんな、身をちぢこませ、冷たい風に耐えなくてはならなかった。

 カア、と、西の空から大きなカラスの鳴き声がした。みんな、ビクッとして飛びあがった。その声はまるで『よくきたな、まとめてとって食ってやる』という人食い鬼の叫びに聞こえた。

 それでもようやく坂をくだり終えた。目の前に鬱蒼うっそうと木のしげった《バロアの丘》がそびえていた。

 大きい。

 ゾディアックのまちから見下みおろろしていたときには小さな小山にしか思えなかったのに、こうして下界げかいから見上げると、まるで巨大な怪物が横たわっているかのよう。

 あまりに大きくなりすぎたせいで一歩も動けなくなり、背中の甲羅こうらいっぱいに木をやしてしまった巨大なカメだ。

 ニーニョは《バロアの丘》を見上げた。引きつった笑顔を浮かべてエルを見た。

 「ふ、ふん。いよいよだな。どうだ? あやまれば許してやるぞ?」

 「だ、誰があやまるもんですか!」

 「むりすんなよ。ここまできたんだ。卑劣ひれつうそつきのダナ家にしては上出来じょうできだ。弱虫よわむしばわりはしないでやるよ」

 「ふん。そんなこと言って。あんたこそほんとは恐いんでしょ。つまらない意地を張ってないで素直すなおあやまったほうが身のためよ」

 「誰が恐いもんか! さあ、行くぞ」

 「もちろんよ」

 エルは憤然ふんぜんとして言い返した。でも――。

 エルの仲間の女の子がついに言った。

 「あ、あの……あたし、弟の面倒みなきゃいけないから、これで帰るね。ごめんね!」

 そう言うなりゾディアックのまちめがけて走りだした。仲間の誰ひとりとして声をかける間もないあざやかな逃げっぷりだった。

 エルたちは呆気あっけにとられた。ニーニョのあざける声がした。

 「ふん。ざまあないな。やっぱり、お前らダナ家の連中は弱虫よわむしなんだ」

 「あ、あのう……」

 と、今度はニーニョの仲間の女の子ふたりがそろって手をあげた。

 「あたしたちもその……家の手伝いをしなきゃいけないから……」

 「そ、そうそう。うちは妹が生まれたばかりで母さんがいそがしいから。夕食はあたしが用意しなきゃいけないの」

 「うちも家族が多いから手伝わなきゃいけないし……だから、ごめんね!」

 ふたりそろってそう叫び、先に逃げた女の子を追って駆けていく。

 今度はニーニョが唖然あぜんとする番だった。エルはここぞとばかりにはやてた。

 「ほら、見なさい。あんたたちなんかまとめてふたりも逃げだしたじゃないの。あんたたちミレシア家こそ口先だけの臆病おくびょうものよ」

 「ふ、ふん、なんだあんなやつら」

 ニーニョは無理やりふんぞり返った。

 「女の子なんていざとなったら役に立たないってだけさ。おい! お前たちはだいじょうぶだろうな? 逃げ出したりしないだろうな?」

 「あ、ああ、もちろん……だよ」

 ニーニョに言われて残った三人の男の子たちは自信なさそうにうなずいた。

 エルも四人の仲間を振り返った。

 「あんたたち! まさか、このおよんで逃げ帰ろうなんてしてないでしょうね?」

 「あ、ああ……」

 「それはもう……」

 みんな『もう勘弁かんべんしてほしい』という表情だったけど、口に出してはそう言った。

 「ようし。さあ行くぞ。ダナ家のうそつきたちに真実しんじつを教えてやるんだ」

 「行くわよ。レットウシュゾクのミレシア家にダナ家のすごさを思い知らせてやるんだから」

 子供たちは《バロアの丘》をのぼりはじめた。

 《バロアの丘》はしっかりと整地せいちされた丘で、決してのぼりにくくはない。山道もきれいに整備せいびされている。ただ、なんと言ってもこの山道は何重なんじゅうにも折れ曲がった迷路になっている。真っすぐ行けば一時間ですむような道のりがその三倍も四倍もかかる。

 何度もなんども行ったりきたりしなくてはならず、気が滅入めいる。そうこうしているうちにも夜はどんどんふけていく。とうとう耐え切れなくなった子供たちが逃げ出していく。

 ひとり、またひとりといなくなり、いつの間にかエルとニーニョのふたりだけになっていた。それでもふたりは山道を進んでいた。

 『ふたりきりになってしまった』という心細こころぼそさからだろう。あんなに反発はんぱつしていたのにいまではまるで生死を共にする同志どうしのようにピッタリとよりそって歩いている。

 ふたりとも顔色が真っ白だった。丘のなかで冷たい夜風に吹かれているというのもある。それよりなにより、不安と恐怖で押しつぶされそうになっていた。

 冒険好きのエルとニーニョだけど、さすがにこんな時間まで街の外にいたことはない。普段ならとっくに暖かいベッドのなかにもぐり込み、ゆめそので大冒険をしている時間なのだ。

 空が暗闇くらやみに閉ざされ、明かりと言えばわずかな三日月とまたたく星だけ。それだって高くしげった木の葉にさえぎられてほとんど届かない。

 ふたりの歩く山道は真っ暗と言ってよかった。目のよさには自信があるのにどんなに目をらしても目の前の道も見えはしない。ふたりともへっぴり腰になってそろそろと進まなければならなかった。

 まるで、罰として地下迷宮に放り込まれた罪人ざいにんだった。

 心細こころぼそさで泣きそうになっていた。高いこずえの上でフクロウの声がする。山道のわきの林のなかでガサゴソと音がする。そのたびに驚いて飛びあがった。

 恐かった。

 木々の間からいつなにが飛び出してくるかわからないと思うと気がきではなかった。邪眼じゃがんのバロアの伝説が単なる伝説にすぎないとしても、クマやオオカミはいるかもしれない。いや、『かもしれない』ではなく、まず確実にいるはずなのだ。

 ――もし、見つかったら。

 子供ふたりで武器もない。そんな所を野性の獣に襲われたら……。

 そのありさまを想像してしまい、エルは卒倒そっとうしかけた。

 帰りたい。

 このまますぐに回れ右して飛んで帰りたい。でも、だけど……!

 ――こいつより先になんて帰れない!

 その意地が邪魔じゃまをする。

 にっくきミレシア家のニーニョはまだ意地を張っている。歯を食いしばって前に進もうとしている。そうである以上、エルとしても逃げ帰るわけにはいかない。えあるダナ家の一員としてミレシア家の人間より先に逃げたすわけには行かないのだ!

 ――バカ、バカ、バカ! 恐いくせに意地張っちゃって。いつまでこんなことつづけるつもりなのよ。なにかあったらどうする気なの? 素直すなおあやまればいいじゃない。そうすれば笑い話ですむことなんだから。そんなことすらできないなんて。だから、ミレシア家の人間なんてきらいなのよ!

 エルはとうとうニーニョに対して腹をたてはじめた。

 どんなに入り組んだ迷路めいろであっても先に進めばすすむほど確実にてっぺんはちかづいている。そして、そこには岩屋いわやがある。邪眼じゃがんのバロアが眠っているという伝説の岩屋いわやが。そして、そこにたどりついてしまえば今度は……。

 ――なかに入らなきゃいけない。邪眼じゃがんのバロアが眠る岩屋いわやのなかに……。

 それはほとんど純粋な恐怖だった。悲鳴ひめいをあげずにすんだのが奇跡だった。恐さのあまり声も出なかったというだけのことかもしれない。

 ――それだけはいや! そんな恐いことできない。

 心のなかで悲鳴ひめいをあげた。

 誰かに助けてほしかった。いつもはあんなに邪魔じゃまくさかったおとなたちがひどく恋しかった。

 もし、誰かおとながやってきて『子供たちがこんなところでなにをしてるんだ! さっさと帰れ』と言ってくれたら。

 そうしたら堂々と帰れるのに。

 ――だいたい、みんなはなにをしてるのよ⁉ あたしたちがここにいるってこと、親にも言ってないの? 親に言っていれば捜しにくるはずなのに。捜しにきてくれれば帰れるのに。気がきかないんだから! 

 『仲間がどこにいるか、決しておとなには言わないこと』

 というちかいを作ったのは自分だということも忘れてみんなに腹を立てるエルだった。

 「おい……」

 ふいにニーニョが言った。いきなりの声にエルは飛びあがるところだった。必死に平静へいせいを装って答える。

 「な、なによ……」

 「お前、バカだよな」

 「な、なにがよ」

 「のこのこ、こんな所までついてきてさ。おれがなんでこんなことをもちかけたと思ってるんだ?」

 そう言ってエルを見る顔には不気味な笑みが浮いていた。

 内心ないしんの恐怖をエルは必死に押し隠した。

 「と、どういうことよ?」

 「最初からお前を連れてくるのが目的だったってことさ。なぜって……おれはとっくに邪眼じゃがんのバロアにかれているからだよ!」

 「うそ!」

 「うそなもんか! おれは前に一度、ひとりで岩屋いわやに行ったんだ。そこで邪眼じゃがんのバロアにとっかれたんだ。そして、命令されたんだ。復活のためのにえを連れてこいってな。つまり、お前をさ!」

 「うそ、絶対うそ!」

 「うそじゃない! ほら、聞こえるだろ。さっきからずっとささやいてる。『心臓を返せ、心臓を返せ』ってな」

 「うそよ!」

 「本当さ。そうでなかったらなんでこんなことに誘ったりするもんか。邪眼じゃがんのバロアさまはお前を食ってお目覚めになるんだ。そして、今度こそドルイム・ナ・テインの地を支配するんだ。お前はそのためのにえなんだよ。

 恐いぞ、苦しいぞ。邪眼じゃがんのバロアさまの大きな牙でくだかれて血だらけになって食い尽くされるんだ。そして、おれはバロアさまのもとでゾディアックのまちを支配するんだ。バロアさまがそう約束してくれたからな。『自分に協力するなら人間の王にしてやる』ってな」

 「うそ……」

 「本当さ。でも、まあ、おれだって聖なるミレシア家の人間だ。かれたからって完全に支配されてるわけじゃない。人間の心は残ってる。そこでだ。お前が逃げ帰るなら見逃してやってもいい。どうだ? 悪い話じゃないだろ? 恐くて逃げ帰るわけじゃない。邪眼じゃがんのバロア復活を防ぐために帰るんだ。それだって立派な英雄さ。さっさと帰れ!」

 「うそよ! あんたが邪眼じゃがんのバロアにとっかれてるなんて、ありえないわ!」

 「うそじゃない! 何度、言ったらわかる⁉」

 「いいえ。絶対、うそ。だって……」

 「だって、なんだよ?」

 「かれてるのはあたしの方だもの!」

 「うそつけ!」

 「本当よ! このあたしが岩屋いわやにぐらい行ったことないと思ってるの? あたしこそ、前にひとりで岩屋いわやに行ったのよ。そして、秘密の入り口を見付けてなかに入った。入ったそこは大きなきれいな部屋だった。

 そして、そのなかで眠っていたのよ、邪眼じゃがんのバロア、いえ、バロアさまがね。そこであたしはバロアさまに魂を奪われ、しもべとなった。あたしこそあんたをにえとして連れてきたのよ!」

 「うそだ! 邪眼じゃがんのバロアはおれだ!」

 「あたしよ!」

 「牙だらけの口で食っちまうぞ!」

 「邪眼じゃがんで石にしてやる!」

 ふたりは叫んだ。にらみ合った。そのまましばらく黙ってにらみつづけていた。

 ふいにふたりの表情がくずれた。どちらからともなく涙があふれだした。口からかすかな泣き声がもれた。

 限界だった。

 ふたりはせきを切ったように泣きはじめた。夜の丘の林のなかで――。

 ふたりの子供はワアワア泣きつづけた。

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