第4話

「重森さん、今まで何してたんですか」


 涙はどこへ逃げたのか、波瀬の顔は濡れていないし瞳も潤んでいなかった。

 作業中の千奈津を一瞥する。


「十七時からの準備をしてたけど」

「はぁ、お気楽でいいですね」


 傍観していたので否定できない。

 波瀬の睨みを「何かあったの?」という意味を込めて目を瞬かせて無視をする。

 千奈津に「ふん」と鼻を鳴らすとロッカーを開け、着替えると鞄を持って颯爽と出ていった。

 あの涙は女の嘘だろうか。

 真偽は分からないが、千奈津はきっとそうだと思っている。


 扉を開けて店に出ると、如月がカウンターでスマホをいじっていた。

 客はおらず、椅子に座っているはずの老人を確認するため足を動かしてみたが、そこには誰もいなかった。


「あの人なら帰ったよ」


 千奈津は不思議に思いながら如月の隣に立つと、如月は携帯をポケットに入れて教えてくれた。


「え、そうなの?」

「話し声は聞こえなかったから、本部の人と会話したのか分からないけど」

「そうなんだ。波瀬さん、災難だったね」

「引き当てるタイプなのかな」

「私は助けるべきか悩んだよ」

「あれくらいなら態々出て来なくていいよ。波瀬さん一人で対応できるでしょ。俺がいなくてもどうにかできたよ」

「そうかな」

「時間が経てばそのうちどっか行くから、あぁいう人って」

「詳しいね」

「前のバイト先ではクレームよくあったからね」


 そういえば、如月は以前居酒屋でバイトをしていたと話していたことがある。

 居酒屋で働こうと思ったことはないので、どんなクレームがあるのか千奈津には想像できないがきっと酷いのだろう。


「俺と千奈津ちゃんの二人体制でもよかったけど、波瀬さん帰らせたから一応斉藤くんを呼んだ」

「斎藤くん、来てくれるんだ」

「今日は講義が午前だけだったみたい」


 千奈津は斉藤が「まあ、別にいいですけど」と気の抜けた声で言う姿を脳裏に浮かべた。


「さっきの話、斉藤くんにしてみようっと」

「如月くんが本部にクレーマーを押し付けようとした、って話?」


 千奈津が意地悪く言うと、如月は声を出して笑った。


「だって俺たちに言われても、はいはいって聞くことしかできないからさ。怒りは本部にぶつけてほしいよねー」

「はいはいって言う時間も無駄だしね」

「気楽にバイトしたいからさ、クレーム対応は俺の仕事じゃないし」


 お気楽でいいですね、と波瀬に言われて否定できない千奈津だったが、如月も否定できないらしい。

 あの老人が本部にクレームを入れたところで、その内容は本部から千奈津たちの元へは降りてこないだろう。

 本部も気楽にやりたいらしく、新商品は発売日の三日前に届くし、前日の夕方に届いたこともあった。アルバイトが足りなくて誰も出勤できない日があれば「じゃあ休店日でいいよ」で片付く。

 居酒屋からここへ渡って来た如月は、当初目玉が飛び出るくらい驚いていた。

 波瀬のお気楽発言は、千奈津と如月だけでなく会社も否定できないものだった。


 十七時になる十分前にバックヤードから商品を店に出す。

 十分前だからもう並べていいだろう。

 千奈津は赤い字の「値下げ」を立て、人気が無くて余った商品を置いた。

 学校帰りの中学生がちらほらと見受けられる。

 このショッピングモールは近くに学校がいくつかあり、学生にとって学校帰りに足を運びやすい。

 制服を着た幼い顔立ちの子たちがちらちらと値下げを気にしながら通り過ぎる。

 千奈津は、自分がいるから物色しにくいのだと察し、如月の隣へ戻った。


「あれ、斉藤くん」

「お疲れ様です」


 如月が呼んだアルバイトの斉藤がいた。

 前髪は長く目にかかっており、それが暗い印象を与える。

 襟足も長く、音楽バンドで活動してそうな見た目だ。

 如月と並ぶと陰と陽の差が際立つ。


「あの女、泣いて帰ったらしいじゃないですか」


 鼻で笑う斉藤に如月は苦笑する。


「あの女って。波瀬さんでしょ」

「嫌いなんですよ、あいつ」


 顔を顰める斉藤は、心の底から波瀬を嫌っている。


「僕のこと好きじゃないのに好きみたいなオーラ出してくるんですよ。耐えられないです」

「本当は斉藤くんのこと好きかもしれないじゃない」

「絶対違いますよ。誰でもいいから男に好意を持たれたいんですよ。僕と如月さんに対する態度が全然違うので、分かりやすいです」


 両腕を擦りながら、何かを思い出しているのだろう。

 うげー、と口元を歪めている。


「どうせ泣いて帰ったって言っても、嘘泣きでしょう。如月さんに慰めてもらいたかったんですよ」

「斉藤くんは素直だねー」

「僕より経験値が高い如月さんは絶対分かってますよね。あれが嘘泣きってことくらい」


 如月は何も言わず、にこにこ笑うだけだ。

 斉藤と千奈津は、それを肯定と受け取った。


「あの女、クビにできません? どうせ今日もクソみたいな仕事しかしてないでしょ」

「波瀬さんに厳しいねー」

「あいつこの前、閉店してないのに掃除させようとしたんですよ」


 千奈津には身に覚えのあるエピソードだった。


「ここに塵が落ちてるから、掃除お願いしてもいい? って。駄目に決まってんだろ、閉店してからにしろ」

「溜まってるねー、斉藤くん」

「溜まりまくりですよ。客がいないんだから閉店なんか関係なく掃除しろって言うんですよ、こーんな小さい塵のために。確かに客はいなくて暇でしたけど、掃除するよりSNS見てる方がいいんで」


 暇なときはスマホを見ても問題ない。

 監視カメラはあるので社員が見張っている可能性もあるが、意外とカウンターの端は死角になっているので好き放題である。


「へえ、そんなクレームがあったんですね」


 如月は、波瀬が帰ることになった原因のクレームについて話した。

 ニコニコショップで働き始めて、クレームを目の当たりにしたことがない斉藤は興味深そうにしていた。


「そこで助けに入らない重森さんはさすがですね」

「言い方」

「そんなに爺が怒鳴ってたなら、重森さんにも聞こえてたんじゃないですか?」


 鋭い。

 千奈津は視線を逸らすことによって回答を回避した。


「重森さんって割と悪い人ですよね」


 斉藤はくくっと笑った。



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