第3話
ある日、事件が起こった。
滅多にないクレームがこの日、珍しくきてしまった。
「ここは全部二五二円って聞いてるぞ! どうして五二五円なんだ!」
老人が店内で怒鳴る声がした。
千奈津はバックヤードにいたのだが、扉の隙間から怒声が聞こえ、様子を窺うため隙間から覗き見る。
白髪交じりの頭で腰は少し曲がっている。
客層は主に若い女性だが、稀に男性も訪れる。
老人が来店することは滅多になく、あっても孫と一緒に買い物に来るくらいだ。
恐らくあの老人は、孫への贈り物でも買いに来たのだろう。
「な、ん、で、五二五円なんだ!」
値段に憤慨しているらしい。
価格設定はニコニコショップの「ニコニコ」から「二五二円」「五二五円」「二五二五円」と三パターンになっている。
怒鳴られているのは波瀬であり、千奈津は波瀬がどうするのか傍観する。
「その商品は五二五円で間違いありません」
「だからどうしてなんだ!」
「どうしてと言われましても……」
「店長を呼べ! お前じゃ話にならん!」
この店には店長なんて存在しない。その肩書を持っている人がいるのかもしれないが、会ったことはないし聞いたこともない。
マネージャーが不定期にやってくるくらいで、普段はアルバイトしかいない。
店長を呼べと言われても店長はいないし、責任者はマネージャーになるがどこの店舗にいるのか分からないので、呼んだとしてもすぐに来ることはできないだろう。
クレームがあった際にどうするか、というマニュアルはない。あるのかもしれないが、教わっていない。謝ればそれでいいと認識しているが、マネージャーに連絡するなり本部に一報入れるなりすべきなのだろうか。千奈津は対応の仕方が分からなかった。
そもそもクレームは滅多にないので、クレーム対応をしたことがない。今日はとても珍しく、運が悪かった。
「店長はいません」
「じゃあ責任者を呼べ!」
「責任者……」
責任者、と聞いてマネージャーを思い出したのだろう。
「いいですけど、時間がかかるかもしれません」
「はぁ?」
「電話してみないと、今どこにいるのか分かりませんし」
「そんなわけないだろ! 早く責任者を出せ!」
ガミガミ叫ぶ老人に負け、波瀬は電話をかけた。
相手はマネージャーだ。「あ、もしもし」という声から始まり、クレーム客がいるという旨を最低限のオブラートで包み伝えると、「え! そんな!」と波瀬の焦る声がした。
千奈津は自分が出ていくべきか悩んだが、出ていったら波瀬は千奈津に押し付けてバックヤードへと身を隠すだろう。想像できる。
千奈津はこのまま見守る選択をした。
「今日は出張のようでして、難しいみたいです」
「知るか! とにかく五二五円なんてワシは聞いてない!」
それからも二人は言い合っていたが、クレームが入ってからニ十分が経過すると、千奈津は再度、出ていくべきか悩んだ。
今日は平日なので客は少ない。あの老人が怒鳴り始めてから客は一人も来ていないので、千奈津が出ていってもクレーム対応以外することはない。
どうしたものか、と頭の中でぐるぐる考えていると、「どうしたの?」と耳元で声がした。
「うわっ」
「何を見てるの?」
振り向くと如月の顔がそこにあった。
思わず仰け反ってしまう。
如月が扉を開けようとするので千奈津は慌てて止めた。
「ま、待って」
「何?」
「いや、今クレーマーが来ててさ。もう十五分以上留まってるの」
壁にかけられている時計を確認すると、長針は十二を過ぎていた。
如月の出勤時間だ。
「ふうん。あ、波瀬さんが対応してるんだ」
扉の隙間から如月が確認する。
「波瀬さん、マネージャーに電話したんだけど、今日は出張だから行けないって言われたみたいなんだよね」
「うーん、まあ早く帰ってもらいたいね」
今日の十七時から一時的に商品の値下げが始まる。それまでにはあのクレーマーをどうにかしないと、邪魔になる。
波瀬の声がうんざりしたものに変わり、老人に対しての話し方に雑さが見えてくると如月は扉に手をかけて店内へ進んで行った。
千奈津は後を追おうかと思ったが、三人もクレーマーの元へ行かなくてもいいかと思いその場で見守り続ける。
「せ、先輩」
先程まで溜息を吐きそうなくらいうんざりしていたのに、如月が来たと分かると泣きそうな声と表情で如月を歓迎した。
変わり身の早さはさすがだ、と千奈津は感心する。
「だーかーらー、これが五二五円はおかしいって話じゃ!」
商品を叩きながら激怒する老人に如月は頭を下げることなく、自分たちに値段設定の権利がないことを説明する。
老人はそれでも引かないので、如月はカウンターの引き出しから紙を取り出した。
「本日は責任者がおりませんので、値段についてのことでしたら、こちらの本部までお電話をお願いいたします」
「ワシに電話しろってことか!?」
「本部でしたら社員がいますので、お話が早いと思います」
「お前は何だ、社員じゃないのか?」
「僕たちはアルバイトです」
「ふん、バイトしかおらんのかここは。ワシは今すぐこれを買いたいのに」
「値札は五二五円ですので、僕たちはそれで売るしかないんですよ」
如月は本部に電話を入れるよう何度も言う。
老人は紙を見つめた後、店を出てすぐ横にある椅子に腰かけ、携帯を取り出した。
「先輩、ありがとうございました」
ぐす、と鼻をすする音がする。
波瀬の横顔を見ると、どうやら涙を流しているようだった。
嘘だろう。
面倒くさそうな、うんざりしてそうな態度と声だったじゃないか。
千奈津その豹変ぶり驚いた。
涙まで出すとは思っていなかったので、まじまじと波瀬を見てしまう。
「波瀬さん、今日はもう帰っていいよ」
「で、でも」
「いいから。結構大変だったでしょ、斉藤くんに代わってもらうから、今日はゆっくり休んで。お疲れ様」
如月にそう言われると波瀬は頷き、バックヤードへとやってきた。
千奈津は一瞬で作業に戻り、何も見なかった、聞こえなかった振りをする。
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