第25話


         ※


 食堂のハンバーグのカレーソース和えは、実に美味であった。このまま死ぬんじゃないかと思わされた。そこから脱出できたのは、一重に樹凛のお陰だ。


 いや、樹凛のお陰という表現はおかしい。樹凛に気を遣ってしまって、自分だけでも元気そうに振舞おうと、虚しい努力をしただけだ。

 しかし彼女はろくな料理を注文せず、俯いたまま、ごめんなさいと繰り返すばかり。


「お詫びの言葉は西浦にあげた方がいいんじゃないかな。僕は樹凛に攻撃されたわけじゃないし」

「……でも、謝ることをやめてはいけないと思う。今そばにいてくれるのが碧くんだから、あたしはあなたに謝ろうとしているの」

「君が僕に何をした? デコピンでも喰らわせたかい?」

「そりゃあ、碧くんに酷いことはしてないけど……。その……」


 樹凛はさっと唇を湿らせて、こう言った。


「あたしのこと、嫌いになったよね……?」

「えっ? そんなことないよ!」


 と言って、僕はすぐさま自分の愚鈍さを呪った。いや、樹凛のことを嫌いになったわけではないのだから、『そんなことはない』という言葉は虚偽ではないはずだ。

 それでも、僕は目の前で肩を震わせている幼馴染に対して、あまりに無神経だったことは事実だ。彼女はもっと、気の利いた言葉を望んでいるに違いない。


 そうはいっても、僕だって十分疲弊している。

 樹凛が超人的な力を発揮したあの時、彼女は天国から急降下してきてトンネルを破壊し、西浦を容赦なく痛めつけた。その光景が、僕にとって無害だったとはとても言えない。


 ハンバーグの最後の一口を咀嚼した僕は、正直に伝えた。


「樹凛、あの……。君は僕にとって大切な人なんだ。だから正直に言うけど、あの時の君は本当に怖かった」


 ふふっ、と弱々しい息をつきながら樹凛は俯いた。だが、僕が言いたいことはその次だ。


「樹凛、君はいつも僕を守ってくれたし、感謝してる。そして申し訳ないとも思っているんだ」

「碧くんが、あたしに?」


 首肯しながら、僕は次に発すべき言葉を模索した。


「これは僕の個人的な感覚なんだけど、地上界に戻ってきた君が振るった暴力は、それこそ情け容赦のない、徹底したものだった。だから怖くなったんだよ。樹凛が暴力の虜になってしまったら、って」

「虜? あたしが暴力に魅せられてしまったら、ってこと?」


 僕は樹凛の考えを肯定すべく、ゆっくりと頭を下げた。


「暴力を振るうのは簡単なんだと思う。世界中で戦争がなくならないことと関連があるのかもしれない。それは分かる。分かるんだけど……」


 僕はぎゅっと両手を握り締めた。これは他の誰でもない、樹凛に向けた言葉なのだ。万全の状態で聞いてもらわなければ。


「樹凛、君には暴力ってものに染まってほしくない。君はもっと高潔で、勇敢で、何より僕を……。僕なんかのことを好いてくれた。だからこそ、これ以上天国関連の事柄には首を突っ込むべきじゃない」

「でもあたしがいなかったら、誰があなたを守るっていうの?」


 僕は意表を突かれた。樹凛は自分ではなく、僕の心配をしてくれているのだ。

 でも、元々の脅威であった西浦が、二度といじめに手を染めることはあるまい。

『葉桜碧を誰から守るのか?』――それを考えると、地上界での樹凛の任務は遂行され、見事成功したと言えるだろう。


「僕は、大丈夫だよ」


 やや喉に引っ掛かるものを感じながら、僕はそう言った。しかし樹凛は気が晴れないのか、アイスコーヒーのグラスを両手で握り締め、氷をからんからん、と鳴らすばかり。


 かと思いきや、樹凛は口元に手を伸ばした。彼女も言葉選びに慎重なのだ。


「どうして僕たちは、天使や天国の勢力を一体化すべく、戦いに巻き込まれなければいけないのか――」


 そう僕が呟く間に、樹凛はじっと、僕の顔を覗き込んでいた。僕も樹凛の顔を見つめ返す。そこには、とても知的だけれど、無感情にも等しい瞳があった。


「あたしたちには関係のない戦いだよ、碧くん。まさか、天国と地上界の片方に肩入れするつもりなの?」

「……いや。逆だよ」

「逆、って?」

「僕はこの争いを止めたいんだ。確かに、天使や幽霊、神様の存在を疑う人は多いだろうけど、だからこそ、今までと同じくらいの距離感が保てるようにしたい。そうでなければ、どちらか一方がもう一方を絶滅させてしまうかもしれないし」


 僕がそう言い切ると、樹凛はすぐさま立ち上がった。何を言い出すのか? 自分にも戦わせろとでも言う気か?


「駄目だ。君はここに残るんだ、樹凛」

「えっ?」


 目を丸くした樹凛に向かい、ゆっくりと言葉を運ぶ。


「もし僕や西浦が戦いに巻き込まれてやられてしまったら、誰が地上界の人たちにこの事実を伝えるんだ?」

「そ、そんなこと、いくらでも証拠を残せば――」


 樹凛が本気で物事を考えてくれているのは嬉しい。だが、いくらなんでも天国の存在をひけらかすわけにはいかない。そうしたら、人間は天国を『敵』または『理想の住空間』とでも捉えかねない。


 天使に対する有効打を発見した今、略奪や領土争いに天国が巻き込まれるのは必至である。


「樹凛、君は天国の門を守るんだ。それも、できるだけ人間の目に触れないように」

「そっ、そんなこと突然言われても……」

「何度でも言うけど、僕は君に暴力を振るってほしくないんだ。たとえこれが、僕の馬鹿げた我儘でも、君が全力で立ち向かった結果が作戦の失敗だったとしても、僕は樹凛に後悔はしてほしくない」

「そっ、そんなの! それこそ碧くんの我儘じゃない!」

「だからそう言ったじゃないか!」


 僕はテーブルを思いっきり叩き、立ち上がって樹凛を睨みつけた。


「そう、全部が僕のエゴなんだ。でも、何かを平和裏に守ることができたら、それは価値ある行為なのかもしれない。だなんて、信じてる」


 樹凛はしばし目を細め、軽く口を開いた姿勢で僕を見つめていた。その顔色が、だんだん悪くなっていくのがよく分かる。

 彼女の顔色がちょうど真っ白になったところで、僕は予想を言ってみた。


「大丈夫だよ、僕は天使と違って魔法は使えない。僕が実際に人殺しになる確率は零だよ」


 樹凛はがっくりと脱力し、フォークをテーブルから落としてしまった。からん、からんと食堂に透明な音が響く。


「あたしよりも、戦うことを選んだのね」

「うん」


 樹凛は僕が焦り出すとでも思っていたのだろうか? 今度はナイフをテーブルから落とした。


「今回の戦いを、最初で最後にしたいんだ。地上界と天国との戦い。それぞれに属する人々が、互いに微妙に触れ合いながらも、独立を認め合っている世界。その線引きは、今日これから行われる」

「あたしは知らないよ、世界のことなんて!」

「よく聞くんだ!!」


 僕は再び声を荒げた。これは咄嗟に行ったことではない。僕だって本気なのだと樹凛に分かってもらえるように、怒鳴るタイミングはちゃんと考えていたつもり。


「暴力のない世界なんてものは、きっと存在しないんだ。僕らだって喧嘩やいじめに見舞われるし、外国の情勢不安定な国では、少年兵たちが銃を持たされて戦ってる。天国の治安は最高だけど、誰一人として同じ人格の天使がいる気配はない。そこには絶対に好き嫌いが現れるし、誰かが誰かを嫌っていれば、そこには心の戦いの火種がまかれることになる」

「そ、それは……」

「いつ自分たちの番が回ってくるかなんて、君は想像したことがあるかい、樹凛?」


 僕自身、自分で想像するようになったのは、昼食としてハンバーグにかじりついていた時のこと。それでいて幼馴染にこんな説教をしている。ハッタリじゃないか、こんな説教。

 しかし、そうはならなかった。そのくらい当たり前になってしまっているのだ。世界のどこかで誰かが傷つき、命を落としているということが。


 地上界と天国の繋がりは、予想以上に強かった。

 エネルギー源の採掘や輸送などは、天国でも地上界の技術を流用して行われている。

 逆に、神様や天使を信じればこそ勇気を出せる、という人もいる。

 早い話、地上界と天国は、交互に支え合いながら存在してきた。

 そこにこそ、平和があるはずなのだ。僕だってそんな世界で生活している。


「だから僕は、暴力を振るう最後の地球人になる。樹凛のことをずっと守るために」

「……まだ早いみたいだね、お礼を言うなら」

「ん?」

「いや、何でもないよ」


 結局その場で、僕は自分がとんでもないことを口にしていたと認識することはなかった。

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