第19話【第四章】

【第四章】


 僕は朝の家事を済ませ、さっさと家を出た。

 そういえば、樹凛はどうしたのだろう? 白亜や黒木と一緒に事の行く末を見守るつもりなのだろうか? 僕のことを心配しながら?

 いや、それはないな。

 黒木には悪いことをしてしまったし、何より女性に暴力を振るう男は最低だ。当事者ではないにせよ、樹凛は僕を簡単には許してくれないだろう。


「……」


 無言で玄関わきの棚から傘を取り、僕は梅雨を先取りしたかのような天気の下に歩み出た。念のため、レインコートも羽織っていくことにする。

 

 灰色の雲がどっかりと居座り、じめじめした空気を展開させる。こんな中でも、西浦はいつものトンネルで駄弁っているだろうか? 僕の方はこれだけ集中力を上げてきたのに、敵の本命がいないのではどうにもならない。


 僕は初めて西浦がいてくれることを願った。

 僕に対して、死ぬまで謝罪し続けてくれるように祈った。


 もし西浦が僕への謝罪を拒否したら、その先は? 決まっている。嬲り殺しにするだけだ。

 では、僕が逮捕されたら。そしてもし、死刑にでもなったら。上等だ。天国でも地獄でも逝ってやる。

 神様にとっても、僕は貴重なサンプルたりうるはずだ。何の問答もなく地獄へ放り捨てるには惜しい人材と言える。そう思うのは自画自賛だろうか?

 まあいいだろう、そのくらい自意識が過剰になってしまったとしても。


「だって僕は、現役の人殺しだもんな」


 今朝起きてから、僕はようやく顔の筋肉がストレスから解放されるのを感じた。

 僕は現役の人殺し。そのワードが頭の中で反響する。たった今、自分で口にした言葉だ。心の中で再度思い返す。同時に唇の端がつり上がる。

 そうか。やはり僕は、何らかの破壊衝動に駆られているのだ。対象は何でもいいが、どうせなら憎らしいやつを痛めつけてやりたい。


 そう考えているうちに、僕は西浦一党のたむろしているトンネル前に来ていた。

 ――いた。西浦だ。トンネルの壁面に身体を預け、スマホをいじっている。

 

 その時、僕ははっとした。

 僕の足は、正確に西浦のいるところへ僕を運んできていた。


 無事西浦の居場所まで来たのはいいが、逆に言えば、連中もまた僕の姿を捕捉しているかもしれない。そんなところに、無意識のまま来てしまうとは。

 トンネルの場所を、頭で忘れても足は覚えていたということか。

 僕は素早く伊達眼鏡を外し、放り捨てる。それから傘を閉じ、持ち手を握り締めた。


「あぁん? おい、てめぇ何者だ?」


 両手をズボンのポケットに突っ込んだ雑魚が、睨みを利かせてくる。

 確か名前は何と言ったかな。とにかく下っ端だ。


「やめとけ。怪我したくなければ、さっさと消えてくれ。僕だって無益な殺生はしたくない」


 僕を見た下っ端は、ふと足を止めた。雨粒のせいでよく見えないが、一瞬で顔色を悪くした様子。

 無理もない。僕のような右目が赤いオッドアイの人間なんて、そうそう出会うことはないだろうから。

 ああ、この下っ端の名前、思い出したぞ。


「なあ小林、お前だって、こんなことをやりたくて中学に進学したんじゃないだろう?」

「お、お前、俺の名前を……?」

「ああ。僕を餌食にしようとしているのに、先輩の悪党共にパシリにされて、その現場に立ち会えない。気の毒なやつだ」

「お、おお……お前なんかに何が分かる!」

「分かるさ」


 僕は閉じた傘を握ったまま、両腕を広げた。分かりやすい挑発だ。


「てっ、てめぇえ!」


 動かずにはいられなかったんだろうな、小林は勢いよく駆け出した。

 右腕を振りかぶり、僕をぶん殴ろうとしている。やれやれ。


 何故僕が呆れてしまったのか。それは、小林の鉄拳があまりにも貧弱だったからだ。

 自分が真っ先に敵(僕)に向かわなければならないが、今の僕には謎の自信がみなぎっている。その二つの事柄に戸惑ったのだろう、最初の一歩を踏み出した直後、小林はバランスを崩し、その場でぶっ倒れた。


「ぶぐっ!」


 水溜りから立ち上がる小林。思ったよりも重傷だったらしい。鼻から結構な勢いで鮮血を垂れ流している。


「ほら、どいたどいた。先輩方のために場所を空けるんだ」


 小林に向かい、やや速度を緩めながら声をかける。だが、小林は無惨にも突き飛ばされてしまった。もちろん僕に、ではない。西浦のボディガードにだ。

 西浦本人も、ようやくこちらに顔を向けた。やや驚いたように両眉を上げたものの、それはすぐに醜悪な笑みに変わっていく。


 身体の正面を僕に向けた西浦。闘牛士の活躍を観客席で見つめるような、凶暴なオーラを放っている。


「先生、頼むぜ。おい碧! 今日は運が悪かったな! ボディガードを頼むのは初めてだが、小林みてえなチキンとは全然違う! よろしくお願い致しまっせ、先生!」


 先生とやらは振り返らず、頷くこともなしに僕の前に立った。トンネルを出て、その全貌が明らかになる。

 ……子供、なのか? 背丈は僕と同じくらいしかない。キャップ帽を目深に被り、ジャンパーで衣服が濡れるのを防いでいる。


 僕が本当に驚いたのは、彼がキャップ帽を投げ捨て、顔を明かした時のことだった。

 ――まさか、自分以外のオッドアイの人間と遭遇する日が来ようとは。

 先生の左目は、やや青みを帯びたエメラルドの光沢を放っている。しかし、それを美しいと感じる前に、僕は咄嗟に横っ飛びしていた。


 僕が立っていた場所を一瞬で駆け抜けた先生は、そのまま直進。いつの間にか引いていた右腕を勢いよく突き出していた。

 綺麗に整えられた右手は、一見それが武器であるとは思えないだろう。


 だがそれは、オッドアイでない一般人の考えだ。まるで超低空を滑空するように、接近してくる先生。僕にははっきりと感じられた。先生の手が、恐ろしい斬れ味を有していることが。


 遠距離武器がないと、相手にするのは危険すぎる人物だ。まずは回避行動に専念し、策を考えつかなければ。さもなければ、こちらの動きを読まれて手刀を打ち込まれる。


 今や、このトンネルの内部は一種の闘技場の様相を呈してきていた。不良共が罵声やら歓声やらを上げ、目をギラギラさせながら、僕と先生の一挙手一投足に注目している。

 ふと思った。今の西浦はまったくの無防備だ。先生に背を向ける覚悟さえあれば、殴るなり蹴るなりして負傷させるのは容易なことではあるまいか。


 そうだ。そもそもこの戦いは、西浦を倒すためのものだったのだ。敵の選んだファイターの相手をしている義務はどこにもない。

 僕は踵に力を込めて、両手を交差させながら動きを止めた。先生もまた、自分を落ち着けるように長い深呼吸をした。


 一瞬の静寂。

 先に動いたのは先生だった。駆け出すと同時にしゃがみ込み、スライディングの要領で突っ込んでくる。足技も使えたのか。

 

 だが、それはもうどうでもいい。ここで重要なのは、自分と西浦の位置関係。先生は単に邪魔なだけだ。

 僕はあらかじめボタンを外しておいたレインコートを、勢いよく先生に向けて投げつけた。一時的な目くらましにはなっただろう。いや、目くらましになっていなくても、僕の行動は変わらなかったと思う。


 先生を無視して、僕は軽く跳躍し、西浦の頭部に回し蹴りを見舞った。数人巻き込んだようだったが、関係ない。トンネルの壁面に、赤黒い液体がぱしゃり、と浴びせかけられる。

 手加減はしたから、死にはしないだろう。だが、小柄な僕が放ったとはいえ、まともに回し蹴りに見舞われたのだ。意識の混濁くらいはしているかもしれない。


 頭を抱えて倒れ込んだ西浦に、今度はローキック。腹部に爪先を思いっきり蹴り込む。


「見たか、西浦! 僕だってやられてばかりじゃないんだ! 今度またふざけた真似をしても、どうせお前の敗北だ! 今お前を苛んでいる頭と腹の痛みが、なによりの証拠だ! そして西浦の取り巻き共! 僕はお前らのことも許さない! 顔は覚えたからな、ボスの仇を討ちたいならいつでもかかってこい。命の保証はしないけどな!」


 十六年間生きてきて、これほどの爽快感に得られたのは初めてのことだった。

 僕は見せつけるように、その場にいた全員にガンを飛ばした。誰もが慌てて逃げ出すのに大した時間はかからなかった。


 残されたのは、僕と西浦、それに緑色のオッドアイを有する先生。

 僕は、横たわって血反吐をぶちまける西浦から目を離し、先生に目を合わせた。

 まだやる気なのかと、視線だけで尋ねてみる。しかし先生は、サングラスを装着して自らのオッドアイを隠した。

 戦意を喪失したのだろう。


「さて、と」


 僕は振り返り、倒れたままの西浦をじっと見下ろした。もう一、二回くらいなら蹴っ飛ばしてもよかろう。今まで僕がされてきたことを思えば。


 恐る恐る、首を僅かに上げる西浦。目には涙を浮かべているが、ただ涙腺が弱いだけなのだろうと思い込むことにする。

 さて、次は顎にでも一発蹴り込んでおくか。


 暴力を振るうのがこれほど爽快なものだとは、まったく以て思いもしなかった。

 しかしそんな愉悦に浸っていられたのも一瞬のこと。


 このトンネルが、唐突に崩壊を始めたのだ。


「くっ!」


 僕は慌ててバックステップでトンネル内部から退避。砂塵に塗れながら距離を取った。

 ああ、まだまだ西浦をいたぶってやりたかったのに。死んでしまったのだろうか? いやそれよりも、どうしてトンネルが突然崩落したんだ?


 凄まじい奇声を耳に捻じ込まれ、僕は再びトンネルのあった方を見つめた。


「……冗談、だろ……?」

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