第20話
※
砂塵が舞い散る向こう。そこに見えたのは、小柄な人影だった。
問題は、それが僕の見知った姿だったこと。
「……まさか、樹凛……?」
先ほど僕は、別れの挨拶もなく地上界に戻ってきた。僕を追って来てくれたのだろうか。だとしたら心強いが、どうしてこんな破壊的な着地をしたのだろう?
幼馴染で、外向的で、それでいて他人に気遣いの出来る、自慢の友人。
その繋がりの強さや話術の巧みさから、僕を連れ戻しに行くよう強要されたのか? いや、だったらどうしてこちらに見向きもしないんだ?
ふと思うところがあった。僕の心や魂が、彼女に大いに支えられてきたということ。ここでいなくなられては困る。しかし。
しかし、僕がその名を呼び終える前に、樹凛は本性を露わにした。
「あらあら、どうしたんですか、西浦くん! 駄弁ってる間に取り巻きたちが逃げ出しちゃって、独りぼっちになっちゃったんですかあ? それはそれは残念ですねえ、あんたみたいなクズ一匹を、あたしが相手しなくちゃならないなんて! あたしの実力も見くびられたものです。そう思いませんか、西浦くんっ!!」
「ぎゃあああっ!」
僕は今まで生きてきて、初めて人間の、本当の悲鳴というものを聞いた。
同時にパキッ、という音がする。骨でも折れたのか。
そんな西浦に対して、樹凛が行ったこと。それこそが、暴力の嵐だった。
横たわっていた西浦を容赦なく踏みつける。
襟首を掴んで引っ張り上げて反対側へ投げ飛ばす。
それに合わせて、落下してくる西浦の腹部にアッパーカットを見舞う。
やめろ。やめてくれ、樹凛。君は僕の憎しみに操られているんだ。君は関係ない。君まで『暴力者』のレッテルを貼られる道理はない。
「やめるんだ樹凛! いったいどうしたんだ!?」
「碧くん! あなたの! 憎しみを! あたしが! 終わらせる!」
言葉の端々に息を吸い、鉄拳を西浦の腹部に叩き込みながら、樹凛は言った。
だんだんと西浦の呻き声が小さくなっていく。このままでは――。
「このままじゃ君は人殺しになるぞ!!」
絶叫していた。すると樹凛は、ズタボロになった西浦をぽいっと投げ捨てた。
ひょいひょいと瓦礫を避けて、額の汗を拭いながら近づいてくる樹凛。
その動作は、いつもの樹凛だった。違うのは、両手の拳の皮がめくれていることと、彼女もまたオッドアイのように、片目を輝かせている、ということ。
樹凛の左目は青色だった。
生温い雨に打たれながらも、彼女は気にしない。満面の笑みで、ただし左目にだけは人間のものとは思えない煌めきを讃えていて。
「あたしがずっと碧くんのことを守ってあげる。あたし、強いでしょう? だからあなたは心配しないで。ね? 碧くん」
薄い笑みを浮かべ、こちらに手を差し伸べる樹凛。
対する僕は、今頃になってようやく恐怖を感じ始めた。
『先生』と戦っている間は、怒りこそすれ恐怖に呑まれはしなかった。
だが、今はどうだ? 西浦という邪魔者を排除し、目的が達せられたというのに、僕は戦々恐々としている。最も信頼のおける幼馴染を目の前にして。
樹凛の左目はどんどん明度を増していく。直視するのが難しいほどだ。
西浦と戦っている時よりも、僕に友好的な樹凛のそばにいる時の方が恐怖を覚える。何故だ? 何故、僕はこんな気持ちになっているんだ?
いや、これは恐怖じゃないな。落胆だ。
いつも親切で、優しくて、落ち着きがある。加えて、互いに友人関係を結ぶことができている。そんな樹凛が、暴力という手段に訴えてしまった。
そうか。僕の心の中で眠っていた暴力への憧れが霧散した今、暴力は僕にとっては望まざるものへと変貌してしまったのだ。鞘に収まった、とでもいうべきか。
だからこそ、同じことを樹凛にはしてほしくなかったのだ。
どう足掻いたところで、元凶はこの僕。それは分かっている。でも、他者を半殺しにするような樹凛の姿は見たくなかった。
西浦はどうでもいい。だが樹凛のことは、僕の胃袋の底にずっしりと重石のように存在している。
「一回家に帰って着替えてから学校へ行きましょう。ひとまず碧くんの家まで人払いの魔法はかけておいたから、このままあたしがあなたを護衛します。よろしい?」
僕だって、なんとか五体満足でこの場を離れたい。そのために最善を尽くすつもりだ。だから僕は、ぶんぶんと頭を縦に振りまくった。
帰宅する道すがら、僕は自分の目がどうかしてしまったのかと思った。あらゆる物体が、泉のような色の輝きを有しているように見えてならない。
「ああ、そうか」
樹凛のオッドアイは右目が黄色だった。今はその影響下にあるから、あらゆる物体が黄色に輝いて見えるのだな。
そんな風に自問自答を続ける。当事者として、我ながらまったく呑気なものだと思う。だが、そうでもしなければやっていられないのだ。
いつまたどんな戦闘に巻き込まれるか、分かったものではないのだから。
僕はそっと、幼馴染の横顔を見つめた。
「どうかした? 碧くん」
「い、いや……。その、意外と僕って樹凛のこと知らなかったな、と思って」
「そうかな? 中学校に入るまで、ずっと一緒に遊んでたじゃん」
「それはそうなんだけど。でも、その頃って男子は男子、女子は女子で都合っていうか、上手く同性の友人と付き合っていくのに神経使うじゃない?」
「ふーん、まあね」
ちらりとこちらに一瞥をくれる樹凛。
「……何?」
「いや、碧くんもちゃんと考えて生きてるんだなあと思って」
「別にそんな『考え』なんていうほど大したものじゃないよ。偶然、他人と共同で作業するのに抵抗がなくなってきてね」
こういうのを、折り合いをつける、というのだろうか。
すると樹凛は両腕を後頭部で交差させながら、小さく呟いた。
「折り合い、ね」
「……」
「あたしも結構努力はしたんだよ? 最初は友達を作るところから。本当は彼氏が欲しかったんだけど、まずは友達。でないと、無駄に皆を驚かせちゃうから」
ふむ、そういうものなのか。
「ねえ」
樹凛が一歩先に出て、すっと振り返った。彼女の眼前には、眉間に皺を寄せながら事態の把握に努める僕。
何事かと思って足を止めると、ふっと、この雨模様を切り裂き、温かな感触に包まれた。といっても、樹凛が風になってしまったわけではない。
もっとダイレクトに。
もっと分かりやすく。
僕は樹凛にキスをされたのだ。
普段の僕なら、驚きのあまり後方にぶっ飛ぶところだろう。だが、今の僕は違う。樹凛がどんな思いで僕を見てくれていたのか、それこそ天使たちとの会話のように、『心の声』で伝わってきたような気がしたのだ。
ぼんやりしている僕に向かい、樹凛は少し視線を下げて黙り込んでいる。
今、会話のボールを手にしているのは僕の方だ。しかし上手い言葉を紡ぐことができない。
「いっ、いきなりだったよね! ごめん、碧くん……」
嬉しいんだか悲しいんだか悔しいんだか、樹凛の顔には実に多くのデータが乗っかっている。そんな彼女を前に何か言えることがあるとすれば――。
「僕も嬉しいよ、樹凛。ありがとう」
ゆっくりと発音に注意しつつ、今度は僕が一歩前へ。そしてすっと腕を上げて、樹凛を抱きしめた。
何が起こっているのやら、僕だって分かりやしない。それこそ、神のみぞ知るといったところか。
抱きしめた樹凛は、何かを喋ったようだが、僕の学ランに吸い込まれて上手く聞こえない。
辛うじて聞き取れた部分を繋げてみると――。
「樹凛、君も自分の話がしたいんだね? 僕に分かってほしいんだね?」
樹凛は完全に戦闘体勢を解いている。
「もうじき僕の家に着く。きっと白亜や黒木もいるはずだ。ゆっくり、ゆっくり話をしよう」
ぽん、と樹凛の頭に手を載せる。樹凛はそれを、振り払おうとはしなかった。
もっとも、ぼくの学ランは泥と雨と涙と鼻水で酷いことになってはいたのだが。
玄関ドアから入って、以前の畳の間へと樹凛を誘導する。
それから自分一人でキッチンに行き、冷蔵庫を開けた。
「麦茶でいいかい?」
「ひ、ひゃ、ひゃいっ!」
おいおい、もうテンパらなくてもよかろうに。
取り敢えず、麦茶を注いだグラス二つ、それに一・五リットルの市販の麦茶の特大ボトルを載せたお盆を持って、僕は畳の間に戻ってきた。
「聞くよ樹凛。君の身に何があったのか」
樹凛は申し訳なさそうに正座をしながら深々と頭を下げ、麦茶を一気飲みしてから語り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます