第17話

「え」


 自分だけが時間の流れに通り残されたかのように、侵入者は動きを止めた。

 壁掛け時計の秒針の音が、停止した時間に楔を打っていく。

 それから分針が動くこと二回。なんの前触れもなく、侵入者――母はすっと腰を上げた。


「碧、もう寝たんじゃなかったの?」

「あんまりゴソゴソ音がするもんだから、何事かと思って」

「ああ、そう」


 母は一気に警戒を解いたらしい。はあっ、と乱暴な溜息をついて、こちらに会話の糸口があると示してきた。


『碧くんのお母様は立派な方ね。弁護士さんだなんて』――よく友人の保護者が口にしていた言葉だ。だが、実際はこの通り。様々な書類やパソコンのデータを、死に物狂いで漁っている。知的な感じは見受けられない。


「何をしてるの?」

「……」

「母さん?」

「あんたには関係ないわ」


 ぐっと腰を伸ばしつつ、母は言った。ゆっくりと振り返る。確かに実母だ。

 そんな母だが、なんのための資料を探しているのか? おおよその見当はつくが、今の僕には、その『見当がつく』という事実が虚しかった。


「最近、父さんと話はしたの?」


 そう尋ねると、母は持っていたファイルを床に叩きつけた。勢いよく振り返る。

 呼吸は荒く、とても落ち着いているようには見えない。こういうのを『修羅場』というのだろうか?


 母にとってはそうなのだろう。だが、僕には特にコメントするような事柄はない。会話のボールは、今は母の手中にある。

 それにしても、この数年で随分痩せたな――。

 僕は過去を思い描きながら、無感動な目で母を見返した。


「やめて頂戴! あの人と似たような目で私を見ないで!」


 そこまで憎いのか、僕の父のことを。もしかしたら僕のことも。

 

 母の言動からして、昔の資料を漁るのに勝手に上がり込んでいた、ということだろう。

 やっとの思いで呼吸をする母を見つめる。正直、今自分の眼前にいる女性を母親だと認めたくはない。だが、僕は自分の目を逸らさずに、注意力を注ぎ続けた。


 一瞬、ある考えが浮かんだ。こんなに恨みの念に駆られるのであれば、この母こそ殺してしまうべきではないか。


 だが、そんな考えはすぐさま霧散した。

 母を殺したところで、何かが上手くいくわけではない。それに殺人を犯したら、僕に余計な前科が貼りついてしまう。


「分かった。僕は近所のコンビニにでも行くよ。家中好きにしてくれて構わない。どこでも自由に探していいよ。僕は今着替えてくるから」


 短い吐息を残し、僕は身を翻した。


         ※


 着替えを終えて玄関に出ると、ちょうど母が自室から出てくるところだった。

 不自然なほどに大きなボストンバッグを両手で持っている。


 確かにこのくらいの大きさは必要なんだろうな。自分の担当した民事訴訟や刑事事件の全容を記したファイルを放り出して家を出ることはできないだろうから。


 そして、母の様子を一目見た時から、僕には母が何を運び出すつもりなのか、見当がついていた。科学者としての父の行った実験に関する資料だ。


「母さん、車で来たんだろう? 荷物を車に運ぶなら手伝うけど」

「ひっ!」


 母は露骨にびびってみせた。いや、本当にびびっていたのかもしれないけれど。

 でも、いくらなんでも酷いだろう。相手はあんたの一人息子だぞ。たとえ縁を切りたくても、そう簡単にできることではあるまい。

 まあ、僕とてこの人を選んで生まれてきたわけではないけれど。


「父さんの行った動物実験、違法すれすれだったってことは僕も知ってる。それを調べ直して再審にこぎつけるつもりなんでしょう、母さん?」

「……」

「ほら、バッグのファスナーが開きかかってる。紙媒体の資料がほとんどなんでしょ? また散らばったら大変だ。ほら」


 僕はバッグに手を伸ばしかけたけれど、母はそれを明確に拒絶した。

 それを見て、僕は思わず吹き出してしまった。


 だって、母の立場と行動があまりに矛盾していたから。

 近世人類は司法によって自らの言動を制限し、機械文明を築いてきた。それが人間の人間たる根拠だった。

 それなのに、その根拠を司る司法の場に立つ母が、こんなに大胆に隙を見せるなんて。やっぱり可笑しいだろう。


「お、覚えてなさいよ、碧! あんたなんか、すぐにこの世界から抹消できるんだから!」

「いいよ、別に。僕を抹消したとしても、どうせ『法的に』って意味でしょう? もし母さんが本気で僕を殺すつもりだったのなら、どうしてさっき、僕が着替えてるところを襲わなかったんだい?」

「それは、その……あんたなんか……ああ、あぁあああぁあ!!」


 なんだその奇声は。不気味ではあるが、かといって僕にとっては脅威ではない。

 そのままスライドドアに体当たりするようにして、母はマンションを出ていった。

 

「ふう……」


 僕はがっくりと肩を落とし、額の汗を腕で拭った。地下駐車場から、車が勢いよく発車する音が、反響して聞こえてくる。


「いったい何をやってるんだろうな」


 父も母も、この僕も。


         ※


 汗だくになってしまったのが気持ち悪くて、僕はすぐさま洗面用具を手に、風呂場に向かった。冷水浴でもしようと思ったが、浴槽に水を入れるのが面倒だ。水温を下げたシャワーで済ませてしまおう。


 今日何度目か分からないが、とにかく僕は溜息をついた。

 溜息をつくと幸せが逃げる、なんて言葉がある。だが僕はそれよりも、溜息をついた方が頭の回転効率がよくなる、という学説を信用している。なんかもう、どっちでもいいけど。

 

 しかしなあ。

 さっきは気にしないつもりだったけれど、やっぱり肉親との関係が崩れていく現実に直面してしまった、というのはなかなかに衝撃的だった……らしい。

『らしい』と言わざるを得ないのは、今の僕には断定する力がないから、ということ。つまりは弱いということだ。高校生にもなって、何をビビっているのやら。


「畜生が」


 そう言い捨てて、僕はシャワーを止めて顔を上げた。ぐいっと前髪から指を通し、オールバックのように髪を掻き上げる。そして、ようやく気づいた。


 左目のコンタクトレンズが、いつの間にか外れていたのだ。

 これでは母が驚いたのも無理はない。左目が赤く輝くオッドアイ。自分の子供がこんな顔をしていたら、果たしてその誕生を素直に喜べるだろうか? 大いに疑問ではある。


 少なくとも弟が――省吾が生きていてくれれば、家のことをいろいろ任せられたのに。

 いや、これ以上は考えるまい。故人に対して家に関する責任転嫁をするなど、馬鹿らしいにもほどがある。まあでも、過去に思いを馳せるくらいだったら罰は当たるまい。

 そう信じて、僕は実弟・葉桜省吾のことを思い出していた。


         ※


 四年前、ある雨の日のこと。

 放課後の路上で、僕はいじめに遭っていた。僕が小学六年生の時の話だ。

 

 昇降口を出て、学校の先生の視界から逃れた瞬間、傘を奪われた。

 初めに傘を手離した時、何が起こったのか分からず、振り返った時に泥団子をぶつけられた。


 僕をいじめていたのは、同級生や上級生ばかりではなかった。下級生もまた、上級生に混じって泥団子を投げつけてくる。要するに、僕の容姿や言動が奇妙に映った、ということだ。

 抵抗することをとっくに諦めていた僕は、どんどん道路の端に追い詰められていく。そうしたら今度は直接的に、殴る蹴るの暴力に晒されていく。


 何の武道の経験もない僕は、この一対多の戦いでは一方的にやられていくばかりだった。

 しかし――。


「兄ちゃんをいじめるな、馬鹿ーーーーーーーっ!!」


 猛烈な勢いで、人影が一つ飛び込んできた。

 半袖短パンでボブヘアー。小柄な僕と比べても、一回り小さな体躯。それが、自分の傘を投げ捨ててまでして、喚き散らしながら突っ込んでくる。


 いじめっ子連中が危機感を覚えた頃には、既に連中は人影の攻撃範囲に飛び込んでしまっていた。


「遅い!」


 人影は奇襲からの飛び蹴りで、いじめっ子の一人をダウンさせた。


「なんだ、このガキ!」

「ぐふっ!」


 激昂したいじめっ子が、人影に威勢のいいパンチを見舞う。だが人影はそれを正面から受けて、同時に相手の腕を掴み込み、思いっきり噛みついた。


「うわっ! いてぇ!」


 そうこうしている間に、先生方がやって来て皆を校内へ連行した。

 半ば引き摺られそうになりながらも、小柄な人影、葉桜省吾は涼しい顔だ。


「ざまあみろ、悪党共! お前が兄ちゃんをいじめるからだ、馬鹿め! そのまま地獄へ連れて行かれちまえばいいんだ!」


 兄としては、しっかり注意すべきだったのかもしれない。だが、そんな道徳的な行動よりも、僕は省吾のことが誇らしかった。

 僕にはない、『理不尽に立ち向かう心』を持っていたからだ。力がなければ生きてはいけない。

 正直、僕には弟が眩しかった。そして力を有する弟が羨ましかった。

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