第15話


         ※


 神様との会談の後、僕と樹凛はのっそりと歩いて玉座の間を出た。

 考えることがいっぱいだった。そしてそれらはどれ一つとして、看過できない問題に直結していた。


 僕たちが任された仕事は、大雑把に分けて二つ。

 一つは、雲の上から地上を見下ろして、自殺未遂に陥る寸前の人間を引き留めること。具体的には、思念や心の声といった形で自殺寸前の魂を落ち着かせる。


 もう一つは、いざ命を絶ってしまった人が出た時、昇ってくる魂を捕まえ、元の身体に再度宿してやること。これには制限時間があり、身体の状態が酷い人ほど手遅れになりやすい。


『手遅れ』とは、出血多量や薬剤の過剰摂取で急激に身体が弱ってしまい、魂をその身体に戻してやることができなくなる境界のことだ。


「これは……」

「凄いな……」


 つい言葉を零す僕と樹凛。もしかしたら、エベレストの頂上から地平線を見渡す登山家と似たような気分なのかもしれない。

 一つ違いがあるとすれば、僕たちは何の苦労もなくここにやって来てしまった、ということだろうか。


(さあ皆さん、今日もお仕事を頑張って参りましょう!)

(サボってもいいけど、その分昼飯がチープになるから気をつけろよなー)


 はっとした。この二人の声は……!


「白亜、黒木!」

(あら、碧さん! お元気そうですね!)

「ええ、まあ……」


 確かに元気ではあるんだよな。現実世界での僕たちの身体には『魂もどき』が宿っていて、いつもの僕たちと同じ行動を取るようにシミュレートした言動を取っている。

 つまり、放っておいても自分の身体を危険から遠ざけたり、食事を摂ったりしてくれるのだ。アクションゲームでサポートキャラが、操作しなくても敵を迎撃してくれるのに似ている。


(おいお~い、樹凛も碧と仲良くやってるか?)

「え、ええ、碧くんから学べることは多いです」


 黒木に奇妙な絡み方をされながら、微かに頬を染める樹凛。


「そう言えば、白亜の負傷は大丈夫? っていうか、僕たちがここに連れてこられてからどれくらいの時間が経ったんですか?」

(三日くらいですわ。地上でも天国でも、時間は同じ比率で分配されていますの)


 ほう、そいつは初耳だな。


「あたしたちってあとどのくらいの間、天国にいればいいんですか?」

(そうだなあ。多く見積もって、あと一週間くらいじゃねえか? その間に、ここでこの作業に携わってる次期天使候補の連中に、いろいろ教えてやってほしい)


 魂もどきがまともに稼働しているのは確認済みである。魂と身体が別な場所にあったとしても、違和感は生じないだろう。それに、インストラクターのような立場としては、長くいればいるだけ天使候補たちにも多くを教えることができる。


 白亜や黒木と再度挨拶を交わし、僕たちは次の作業に移った。

 この領域、通称・黄泉がえりの間には、水面に大きな花が浮いている。タンポポに似た形状で、しなりやすく頑丈だ。乗ることのできる花びらの半径はざっと二メートル。ジャンプして飛び乗ることができる。

 万が一落下しても、今の僕たちに物理感覚はないので、霊体である誰かに助けてもらえる。

 

 さて、それが僕たちの仕事の内容とどう関わってくるのか?

 このタンポポ雲、すなわちジャンプ用の足場だが、そこから腕を伸ばして風船のように昇ってくる魂を手中に収めることも可能なのだ。

 地上界から昇ってくる風船状の魂を受けとめたり、声をかけて誘導したりして、自殺を思いとどまらせることもできる。


「まさか、死んでからもこんなに多くの人……っていうか天使? にお世話になってたんだなあ……」


 口をついて出た言葉に、樹凛が反応する。


「碧くん、この仕事は向いてるんじゃない?」

「へ? そりゃまた何故に?」

「ああ、えっとね、碧くんを馬鹿にするつもりはないんだけど……。ここには、あなたを傷つけようとする存在がいないでしょう? 西浦みたいに」


 僕の全身が、微かに硬直した。それから一瞬の間を置いて、今度はぞわり、と全身の毛穴が鳥肌状態になった。


 地上界にいる時に魔眼を使っていたら、もしかしたら喧嘩でも勝てたかもしれない。いじめられっ子にされることもなかったかもしれない。

 魂もどきに具体的な性格や感情はない。少なくとも、表面的なリアクションを取る以外では。


 だけど――、そう、だけど、それを良しとできない自分もいる。逃げるつもりなのかと。

 雲を透かして眼下に目を凝らすと、西浦は他校の一年生に恐喝をしているところだった。

 それを冷静に観察し、僕はぎゅっと拳を握り締める。

 ――西浦剛、貴様は必ず地獄に叩き落としてやる。


 そこで、僕は大きな違和感を覚えた。

 待てよ、今僕は何を考えていたんだ? 西浦剛に対して恨みを募らせ、暴力を振るってやろうとでも思っているのか? 挙句、殺してやろうとでも?


 自問は続く。

 では、どうやって殺すのか? 刑事ドラマのように、毒を飲ませたり、時間差で殺害することでアリバイを作ったりするのか? では、その後の行動は?


「面倒だな、まったく」

「えっ? 碧くん、どうかしたの?」


 不安、というより興味本位で、樹凛は僕の顔を覗き込んでくる。そして、はっとして目を見開いた。


「碧くん、その目……!」


 ん? 僕の目? ああ、赤く光っているのか。知らないうちにね。


「樹凛、君はここに残って天使たちの言う通りにするんだ。僕は地上界に戻る」

「も、戻るって、どうやって……?」

「分からない。でも、戻れる気がするんだ。白亜と黒木にもよろしく――」


 と言いかけて、僕はさっと顔を上げた。ぎゅっと目を細めると、猛スピードで迫ってくる黒い影がある。


(碧いいいいいいいい!!)


 黒木か。僕が危険な思考に走っているのを察して、止めにでも来たのだろうか?

 ふん、止めたければ止めてみろ。

 そう胸中で呟いて、僕は思いっきりタンポポの足場を蹴った。


 僕に迎撃されると思わなかったのか、黒木は空中で急停止をかける。

 背部に手を伸ばし、目にもとまらぬ速さで愛用の鎌を取り出す。

 鎌がぎらり、とその刀身を陽光に晒す。


 この流れ、黒木には何の落ち度もない。ただ、僕の方が早かった。


(ぐはっ!?)


 僕が空中で突き出した左足が、黒木の腹部にめり込んだ。

 振り抜かれたバットに弾き飛ばされるボールのように、黒木は面白いように吹っ飛んだ。彼女の下に向かおうとしているのは白亜だろうか? まあ、今の僕の蹴りを見れば、不用意に僕に接近してくることはあるまい。


 がっくりとタンポポの上にへたり込んでしまった樹凛。彼女に向かって一瞥をくれてから、何もない空間を足裏で勢いよく蹴りつけ、僕は地上へと一直線に舞い降りた。


         ※


「……ふう」


 僕はふわり、と夜の公園へと降り立った。砂塵が舞い、子供が昼間に作ったのであろう砂の城が僅かに削れていく。

 ブランコが微かに振れ、アスレチックやベンチは我関せずとばかりに風を受け、電灯がしばしの間点滅した。


 ふと、気づいたことがある。身体の感覚が、僅かばかり天国にいた時と違うのだ。

 

「魂もどき、か」


 どうやら僕の落着地点を割り出し、魂として存在している僕の近くで待機していてくれたようだ。精神と肉体を兼ね備えた、一人の人間、一個の生命として。

 服装はゆとりのあるホームウェア。流石にこの時間に制服姿ではないか。


「さて、と」


 深呼吸をしながら、僕は自分の居場所が天国ではなく地上界なのだと、繰り返し言い聞かせた。

 天国で黒木を圧倒できたとはいえ、地上界と天国とでは、身のこなしに違いが出るかもしれない。戦闘中に気づくようでは遅すぎる。


 そう考えた僕は、しばらくラジオ体操やら軽い筋トレやらに取り組んだ。

 自分の身体が天国にいる時と同様であることを確かめた。結果良好。


「今日はここまでだな……」


 僕は軽く息を切らしながら、振り返って家路についた。


         ※


 家の玄関前に立った時、僕は再び違和感を覚えた。

 玄関の照明が点いていて、しかし見慣れない車が車庫に入っている。


「誰だ……? 父さん? 父さん、いるのかい?」


 玄関ドアのノブを握る。引いてみると、あっさりと引き開けられた。

 やっぱり誰かがいるのだ。


 自宅の匂いが懐かしいものだと思いつつ、僕は返事のない家屋の中へ、一歩一歩入っていった。

 リビングから、お笑い番組のざわざわという笑い声が聞こえてくる。

 廊下を挟んだ反対側は、母の、いや、『母だった人』の部屋になっていて、人の気配があった。それはもちろん、母の気配だったが、様子がおかしい。


「母さん? 母さん!」


 まずは何があったのかを把握しなければ。僕は扉を大きめにノックしながら、少し声を荒げて言葉を押し出した。


「母さん、僕だ、碧だよ。こんな時間に何してるの?」

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