第10話


         ※


 どうやら僕は、またしても気を失ってしまったらしい。

 毎度のごとく漂ってくる畳の匂い。この部屋にいると、どこか落ち着かない気分になる。両親と暮らしていた高級マンションには和室がなかったから、だろうか。


「ふう……」

(あっ! 碧さん、お目覚めになりましたわね!)

「うん、最近やたらとこんなシーンが多い気がするけどね……。白亜、怪我は?」

(完治済みです。これでも我々は、天国からの指示に基づいて戦っておりますゆえ、負傷の治癒には長けております。それに比べて、現代社会の歪みの修正というのは、なかなか厄介なものなのでございますわ)

「そっか……。そうだよね。人間ってわがままだから」


 僕は軽い口調でそう言って頬を掻いた。

 しかし、白亜はいつもの笑顔を見せてくれはしない。


(その件なのですが……。実は我々、日本天国支部は、現在存続が危ぶまれておりまして)

「え?」


 存続が危ぶまれる、って、何故だろう?

 治安がいいからもう見張る必要がない、ということだろうか。


(残念ですが、その逆でございますわ)

「あ、僕の頭の中覗いたの?」

(恐れながら。しかし碧さん、あなた様のお考えは若干、いや、だいぶ平和主義に傾倒してしまっている、ということは申し上げませんと)


 そう言いながら、白亜は正座したままするすると近づいてきた。


(先ほどの巨人を駆逐した直後、神様から命令が下りました。わたくしと黒木を天国に引き戻すと)

「えっ……」


 天使二人を、早々に帰らせてしまうのか?

 僕が真っ先に胸に抱いたのは、寂寥感だった。命の恩人としての二人に、もう会えなくなってしまう。


 だからこそ、次の白亜の言葉は胸に突き刺さった。


(日本は救いようのなかった愚かな国家として、サンプルにされます。新たに発足する天使育成計画における学習のために。最終選考では、実際に地球の数ヶ所に人員を配置して実習を行います)


 愚か。サンプル。実習。これらの言葉が、脳みその表面を出入りしている。

 日本は愚かだから、サンプルとして、天使の実習に使われる。

 言葉を無理やりくっつけて、辛うじて大枠は捉えられたと思う。


「じゃあ、もう誰も来てくれないのか? 本業の天使がいないと、やっぱり治安とかモラルの問題が――」

(……申し訳ございません、こればかりはわたくしや黒木の権限ではどうにもできないのです)


 僕は前のめりになっていた上半身を戻した。


(世界中に派遣された天使、計五六〇名は、次の神様のご指示に従って、この国から天国へと帰還致します。心苦しい限りですが)


 五六〇人。そのうち何人が日本にいるのか分からない。だが、むしろそれだけの人数で人間社会の維持を手伝ってくれていたというのは驚きでもあった。


 考えてみれば。

 人間社会のトラブルを、人間の上位互換みたいな天使たちに手伝ってもらっていたなんて、僕たちは恥ずべきなのではないだろうか。


 僕はふーーーっ、と長い溜息をついて、片手を自分の額に押し当てた。そうでもしないと、身体の震えが収まらない。

 僕が次の言葉を発するまで、白亜は黙って待っていてくれた。

 

「時間を貰えないかな。取り敢えず、今日は普通に学校に通ってみるよ」

(かしこまりましたわ。では、朝食を)

「うん、ありがとう」


 時間が欲しい、などと、よくもまあ言えたものである。何の力もないくせに。


「……馬鹿だな、僕も」


 かくしてできたオムライスとオニオンスープ。それが『美味しい』ことは分かる。しかしながら、実感は湧かない。


 ふと玄関を見ると、破損個所の修繕や、巨人の死体の抹消などが丁寧に為されていた。

 昨日の戦闘が遠い昔のことのように思われる。


「行ってきます」

(はい。お気をつけて)


 正座して優しく手を振ってくれた白亜。僕はまだ家族仲が良かった頃の母のことを思い出してしまった。

 落涙する前に鞄を背負い直し、さっさと歩き出す。それはよかった。そうでなければ、白亜に自分の無様な泣き顔を晒していたかもしれない。

 もちろん、白亜に察せられている可能性は極めて高いのだけれど。


         ※


 いつもの通学路を歩いて行けるのは、今の僕には有難い限りだった。行き慣れない道を通っていたら、次々に溢れ出す涙のせいで前方不注意となっていただろうから。


 とはいうものの、そう都合よくすべてが解決するはずがなかった。ショートカットしてやろうと思い、指定された通学路から少しばかり離れたトンネルの方へと足を向けた。


 そしてまさかの、最低最悪の相手に遭遇してしまった。


「おいおい碧、お前みてえな優等生様が、どうしてこんなところに来たんだ?」


 間違いない。西浦剛だ。僕の足は無意識に、次の一歩を踏み出すのを諦めた。


「お、おはよう、にし――」

「おはようございますってか? 冗談じゃねえぞ。俺の右腕、複雑骨折になっちまったじゃねえか!」


 ぎゃあぎゃあ騒ぎだす西浦。だが、本当の敵はこいつではなかった。

 僕が立っているのは、トンネルのちょうど中間地点。しまった!

 振り返ると、入り口を封鎖するかのように、いかにもな『不良』の連中が笑みを浮かべていた。高校生くらいだろうか。


「それに、こういう手段だってある」

「ッ!!」


 僕は自分の息が詰まるのを自覚した。と思ったら、いつの間にかトンネルの内壁に叩きつけられている。蹴り飛ばされたらしい。

 背中に広く痛みが走り、恐怖感も相まって、僕はその場に尻をついた。


「この兄さんたちはな、昨日俺が腕をやられた話をしたら、すぐに集まってくだすったんだ! てめえをボコるだけだったら、別に俺一人でも構いやしねえ。片腕が使えなくてもな。だが、やっぱこういう人との繋がり? 関係性っつーの? それがなきゃ、いざって時に本気を出せねえってもんだよなあ?」

「……ッ!」

「なっ、何だよ? ガン飛ばしてくんじゃねーよ!」


 右腕を庇うようにして引き下がる西浦。

 そうか。このメンバーの中で、西浦だけは僕の顔を見慣れているのだ。俯いたり、しょげたり、泣きそうになったり。

 

 だが、今の僕の顔はそのどれでもない。一言で言えば闘志、だろうか。

 絶対敵わないと思っていた西浦に向かって、反抗の意志を剥き出しにしている。


「俺が右腕使えねえからって、舐めんじゃ――」


 より一歩踏み出しながら、思いっきりローキックを仕掛けてくる西浦。しかしそこに、いつもの偉ぶった喜色の悪い笑みは見受けられない。顔面が僅かに痙攣している。


 それを滑稽だと言ってしまうのは簡単だが、今は自衛に全力を注ぐべきだ。

 西浦のフットワークからして、僕に蹴りを見舞う足は右側。つまり、左足だ。


 僕はさっと右腕を曲げた。L字を描くように肘を曲げ、防御しつつ、素早く西浦の左足を肘の裏で挟み込む。

 ずずん、という鈍い衝撃が、僕の右腕を痺れさせた。歯を食いしばり、これに耐える。

 

 意外だったのは、蹴った方である西浦が足を痛めているようだということ。

 僕も左腕の感覚が麻痺してしまったが、これくらいの負傷が何だというんだ。

 

 ――殺してやる。


 足を掴んでぴょこぴょこと跳ね回る西浦。手負いの獲物を狙う肉食獣の気持ちが、うっすらと理解できたような気がする。

 

 取り巻きたちが目を見開いているのにも構わず、僕は無造作に、西浦に中段蹴りを繰り出した。あの巨躯が見事に倒れ込み、呻き声を上げながらぶっ倒れる。


 すると突然、あたりに緊張感というか違和感というか、何かを信じられずにいるもどかしさが走った。と、いうのは後に『助っ人』から聞いた言葉。

 僕は何故か真っ赤になってしまった視界において、周囲を見渡す。攻撃態勢の取り方から、誰がどんな技を使うつもりなのかを推測。


 あとは、身体が自由に動いてくれた。格闘技に詳しくない僕は、自分で自分の取るべき行動がなんなのか、全身の反射神経に任せて動くことにする。

 ここにいる不良たちの間を、僕は踊るように立ち回り、一人一人を沈めていく。


 ――こいつらを仕留められるようになるのも、時間の問題だな。


 僕が、小柄なヤンキーの胸倉を掴んで持ち上げ、思いっきり遠くへぶん投げようとした時のこと。

 僕はさっと戦闘体勢を解除してしまった。かといって、油断したわけでも、拘束されたわけでもない。

 

 ぺたん、と脱力しきった僕の前に現れた『助っ人』。それは、二匹の猫だった。

 飼い猫なのだろう、首輪をつけられ、毛並みも綺麗だ。片方が真っ白、もう片方が真っ黒な体毛を有している。


 すると、猫は二匹揃って、招き猫のように肉球をくいくい、と上下させた。

 確かに、この場からはさっさと立ち去る方が賢明だろう。猫たちは、僕の前と後ろの両方から僕を挟み撃ちにするような形で、僕を自分たちの住まいへといざなった。

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