第9話


         ※


 取り敢えず走った。無我夢中……ではなかったかもしれないが、走れるだけ走った。伴走者が黒木で、白亜は後方警戒にあたっている。

 

(おい、もっと速く走れねえのかよ!)


 いや、だったらあんたも走ってみろよと言ってやりたい。白亜も黒木も、ふわふわ楽そうに浮いているし、壁をすり抜けてやって来ることもある。

 きちんと足があるのは確認済みだから、いわゆる『ただの幽霊』ではないのだろう。だったらもっと生者に施しをくれてもいいんじゃないか。


 そんなことを内心愚痴りながらも、意外と早く帰宅できたな、というのが正直なところ。実際は、黒木が風圧を調整して、僕の背中を押してくれていたようなのだが。


「えっと、鍵、鍵……」

(ったく、まどろっこしいな!)


 そう言うと、黒木はうちの玄関扉に正拳突きを見舞った。と見せかけて、その腕はするり、と扉の向こう側へとすり抜けた。二、三秒後、がちゃり、と音がして、向こう側から開錠される。


「おお、お見事」

(馬鹿言ってんじゃねえ。ほら、さっさと入れ。先客がいるようだしな)

「先客……?」


 僕が玄関扉のノブに手をかけ、引き開けた瞬間のこと。


「うわっ! ととと……。って、樹凛?」


 樹凛が、オリンピック短距離走選手もびっくりの速度で突っ込んできた。やや俯き、僕の首にぶら下がるような格好で停止する。僕はひとたまりもなく仰向けに押し倒された。


 なんだなんだ、何なんだ?

 僕が戸惑っている間に、樹凛は僕の胸倉を引っ掴み、ぶんぶん振り回した。後頭部を強打せずに済んだのは奇跡である。


「ぐえっ! き、樹凛、ぐるじ……」

(樹凛さん、落ち着いて! このままでは碧さんが……)

「碧くん……碧くん……!」

(はいはい、バカップルは頭冷やして、きちんとお話ししましょうねっと)


 するとどこから持ってきたのか、黒木がバケツに入れた冷水を容赦なく僕たちに浴びせかけた。


「うわっ!」

「きゃっ!」

(ちょっと黒木! いくらなんでも乱暴です!)

(あぁん? 乱暴? 乱暴ってのはな、こういうモノを言うんだ、よッ!)


 僕が樹凛の肩を撫でていると、何の前触れもなく白亜と黒木が天使対決が行われていた。

 慌てて仲裁しようとしたが、とてもできない。あまりに激しいぶつかり合いだ。

 こうなったら……!


「こっちだ、樹凛! 立って! 逃げるんだよ!」


 僕は魔弾の掃射音や、硬質な物体が激突する玄関前からの離脱を決定。道路を挟んだ反対側の材木置き場に逃げようとした。

 しかし、困った。樹凛が動こうとしないのだ。その場でうずくまり、うわごと――家族一人一人の名前を口にしながら、瞬きすらできずに体育座り。


 この現象が何なのか、僕は知っている。心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDだ。

 症状の現れ方は人それぞれだが、まさか今、ここでその発作が起きてしまうとは。

 

「くそっ!」


 僕は樹凛の左側にしゃがみ込んだ。屈みこみ、彼女の左腕を自分の右肩にかける。

 そのまま僕が立とうとすると、思わぬ重量に後方にぶっ倒れそうになった。脱力しきった人間は重い、というのは本当だった。

 仕方ない、自分の右腕を樹凛の腰元に回し、どうにか立ち上がらせた。


 もちろん、今のは『人体が重い』という話であって、『菱川樹凛が重い』などという失礼な発言意図はないものとする。


 結局、僕と樹凛の脱出は失敗に終わる。極めて局地的な竜巻に呑み込まれたのだ。

 自分が声を上げているのかいないのか。樹凛を守れているのかいないのか。いやいや、このままでは自分は死んでしまうのではないか。


「樹凛、君だけは……!」


 僕は樹凛の頭部を胸に抱くようにして、一瞬の空中停止から落下体勢に入るまで、腕の力を弱めようとはしなかった。


         ※


 次に目覚めた時、僕は自分の家にいることをすぐに悟った。畳の匂いだ。

 室内はやや暗く、窓を見れば、橙色を中心に見事なグラデーションを成している。


 寝返りを打つと、そこではある人物が落涙しながら僕の頭を抱きしめるところだった。


「き、樹凛……」

「馬鹿じゃないの、あんた!」

「え……?」

「どうしてあたしのことなんか守ろうとするの? 自分のことも考えて!」

「ん……」

「碧くんはあたしとは違う! 才能があるの! だから、お願いだからあたしのことなんて……」


 そこまで語り、樹凛は言葉を中断した。やっぱり樹凛だって、暴力を振るいたくはないのだ。僕は不器用に、彼女の背中を擦ってやった。

 それより、僕に与えられた『才能』とはなんだ? まったく見当がつかない。身に覚えもない。


 確かにうちの学校には、いろんな才能を有する若者たちが集結している。一般生徒とは一段階上の、いわば高次元の授業を受講する生徒たちだ。

 だからこそ、分からない。僕に才能がある? それはどんな? いつどこで発現するんだ?


 それを尋ねるべく、僕は布団から上半身を起こし、樹凛を一瞥した。

 しかし、この部屋にいる人物は、僕と樹凛だけではなかった。


(ああ、碧さん! 意識が戻られたのですね!)

(あー……。元気そう、だな)

「白亜……、黒木……」

(早速ですが横になってくださいませ、記憶に傷害がないかどうか、確認させていただきます)


 僕は白亜に言われるがままに、ぱったりと横になった。その時、一瞬黒木と目が合ったが、彼はさも気不味そうに顔を顰めただけ。しかしながら、僕に敵意はないようだ。


(おでこに載せるタオル、取り換えてくるぜ)

(ありがとうございます、黒木)


 それからしばし、僕は人間と天使による治療と観察の世話になった。


         ※


 同日深夜。

 

(碧さん! 碧さん!)

「ん……。ど、どうしたの、白亜……?」


 僕は一気に脳みそを覚醒させた。現在時刻は、午前一時四十七分。


「なんですか? 敵ですか?」


 掛け布団を蹴っ飛ばし、がばっと床の上に立ち上がる。


(ちょっ、碧さん! どうか落ち着いてくださいますよう! 敵襲ではございません!)

「武器! 何か武器になりそうなものは――って、え?」

(大丈夫です、何も異常事態は発生してはおりませんよ)

「……へ? は、はあ」


 本当に冷や冷やした。今度こそ僕も戦わなければならないものと覚悟した。

 でも、そんな事態に陥ることはなかった。


 だったら、どうして白亜は僕を起こそうとしたのか。

 ここは僕の方が素直に従うべきなのだろう。それは分かる。

 が、理由もなく動けと言われても釈然としない。理由を説明してほしいのだ。無論、正しい情報として。それなのに異常なし、と?


「どういうこと? 今日一日だけでもいろいろありすぎて……。僕だって休みたいんだ、なんでもないのに起こすなんて――」

(なんでもない? ご冗談を。碧さん、あなただって感じておられるはずですわ。ご自分の左胸に手を当ててごらんなさい)


 左胸? 心臓の話か。

 僕はさっと右手を左胸に当ててみた。そして――ぞっとした。


「……!」

(お分かりでしょう? ご自分の心臓が、狂ったように脈打っているのが)


 白亜の言葉を理解する前に、強烈な吐き気が襲ってきた。駄目だ、トイレには行き着けない。


「うっ!」


 すかさず白亜が皿状の円盤を投擲し、吐瀉物の落下を阻止。皿は外側から畳み込まれる格好で、吐瀉物諸共圧縮されていく。そしてポン、という気の抜ける音を伴い、煙になって消え去った。


(大丈夫ですか、碧さん)

「うっく……」

(もうお察しなのでは? あなたがどれほど酷い悪夢にうなされていたか)


 僕は胸元に手を当てて、自分の脳や内臓、骨や筋肉が隅々まで落ち着いてくるのを待った。流石にこれ以上、白亜の能力に頼るのは格好が悪すぎる。


「白亜も見たの? 僕の夢を?」

(はい。断片的に、ではありますが)


 僕はパジャマの襟元を押さえ、ぎゅっと目を閉じた。同時に、こんなに寝汗をかいていたのかと我ながら驚いた。


(ああ、お待ちを。今の状態の碧さんが、起床直後に夢の内容を繰り返されるのは賢明ではございません)

「それは、どうして……?」

(危険だからです)


 バッサリと回答する白亜。ぽかんと目を丸くする僕。


(先ほどのご様子から、碧様のご覧になっていた夢は、ただの悪夢と呼ぶにはあまりに危険すぎましたわ。なんとかお布団に金縛りをかけて、押さえつけましたが)


 室内をご覧くださいませ。

 その一言に、僕は数回瞬きをして、蛍光灯をぱちりと点けた。


「え……?」


 何これ。台風一過というやつか? それともゴミ屋敷? 分からない。分からないからこそ怖くなる。


「白亜、これってまさか……?」

(はい。碧さんが睡眠中に、勝手に動き出して暴れ回ったのです。その椅子も硝子も襖も、碧さん、あなたご自身が破壊なさったものです)


 僕は信じられない気持ちと背徳感、それに一抹の爽快感を得て、唯一無事だった枕元にへたり込んだ。

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