第2話【第一章】

【第一章】


 多くの日本人にとって、春という季節は特別なものらしい。

 出会いもあれば別れもある、とか、新生活の始まり、とか、なかなかにポジティヴな字面があちこちから視野に飛び込んでくる。


 目の覚めるような配色のポスター、大袈裟な衣類のテレビCM、花々の写真集を宣伝する電柱のビラ。果ては、早々に芸能人の不倫を訴えて追いかける雑誌の山。春とは関係なくないな、これは。


 とにかく、皆浮かれ過ぎなのだ。少なくとも僕、葉桜碧にしてみれば。

 中学校から高校へと生活場所が変わり、自分の社会的立場も変わる。

 僕はあまり頓着せずに、淡々と日々を送るだけなのだけれど。


 その点、うちの高校が中学校からエスカレーター式なのは有難い。僕の通っている県立高校は、中学校入学から高校卒業までの六年間が完全エスカレーター式である。よっぽどの不祥事を起こさなければ、そこそこ優秀な進路を選ぶことができる。


 学籍が管理されるということは、自分がその学校にいなければならないということ。しかも、中学校の部となる後半三年間には落第制度が存在する。流石にその時期は、皆ピリピリし始めるけれど。


         ※


 三年前、中学校に入学する頃の話だと思う。

 特別な才能を持ち合わせた生徒ばかりを進学させる中学校の部。僕の場合は勉強特化型で、運動がからっきしできないでいるのをカバーしていた。

 その勉強にしたって、どうせ上には上がいる。僕程度の実力では、特別に得意だと か、有利だとか、そんなことはなかった。


 そして高校入学を明日に控えた昨日のこと。僕の頭の中では、そんな厭世的でお疲れ気味な思考がぐるんぐるんと回っていた。

 言い過ぎかもしれないが、単純に試験、それに続く試験、さらに科される試験といった物事に、どこか飽きてしまっていたのかもしれない。


 時刻は午前六時。だんだんと明るくなっていく時間帯。大空が優しい、赤みがかった色合いとなり、真っ白な線を挟んで、向かいにはまだ夜の残滓がある。


 今僕が住んでいるこの平屋建ての家は、両親が結婚の時に購入したものだ。

 そして今は、屋内にいるのは僕だけ。何故か? そこには、いわゆる『大人の事情』というものが絡んでいる。


「……あんまり考えたくはない、かな」


 目覚めた直後のしゃがれた声で、僕は呟いた。


 気を取り直して。

 僕は両頬を叩いて、眠気の残滓を振り払った。次に向かうのは自分の机のノートパソコンだ。春休みの宿題の出来を確認する。

 ふむ。悪くないな。

 ふっと息をついて、僕はデータをUSBメモリに移した。鞄の小ポケットに入れておく。


 それから間もなく、僕はスポーツウェアに身を包んでいた。

 散歩による健康効果も馬鹿にはならないと聞く。今日は五分咲きくらいの桜の花を愛でながら、川沿いを歩いていくことにしよう。


 穏やかな陽光に照らされた、煉瓦が敷き詰められた土手の上。背の低い草花に覆われた斜面が、きらきらと輝いている。雲一つない晴天だ。


「午前六時半、か」


 ちょうどいいかな。いつも通り、一人で歩いて行こう。

 などと思ったのも束の間。


「碧くん、おはよー」

「……」

「あれ? あーおーいーくん?」

「……」

「ちょっとシカト? 碧くんってばあ!」

「うん……あ、え?」


 陽光から目を逸らし、声のした方へ振り返る。そこには一人の女子が立っていた。

 少し長めで茶色味がかったボブヘアー。顔に占める面積のやたらと大きい瞳。いくらでも顔芸ができるんじゃないかと思うような、しかし整った口元。

 間違いない。彼女は僕の幼馴染、菱川樹凛だ。


「ああ、樹凛か。どうかしたの?」


 僕が尋ねると、ブチッ、と確かに音がした。


「こら! まずはちゃんと相手の目を見て挨拶しなさい!」

「どうして?」

「どうしてって……。それが人間ってもんでしょうが!」

「ふうん?」

「かはぁ……」


 樹凛はがっくりと項垂れた。何をそんなに悩んでいるのか。

 恐らくその疑問が僕の顔に出たのだろう、樹凛は腰に手を当て、ずいっと顔を近づけてきた。


「いい? 人間っていうのは社会性の中で生きる動物なの。お互い、情報交換や意思の伝達ができないと、それは社会の構造に決定的な弱点をもたらすことになる。だからせめて挨拶くらいはしなさい!」


 挨拶されて気分を悪くする人間なんていないんだから。

 樹凛はそう言ったが、今の僕には何が何だか……といった状況。

 世の中、不可解なことばかりだ。


 考えても分からないことは、頭の外に捨て置く。

 ひとまず、無言で首肯しておくか。


「はあ……。あんたがどのくらい理解しているのか、今世紀最大の謎だわね」

「ふむ」


 僕が再び顎に手を遣ろうとすると、突然その手を樹凛に掴まれた。


「わっ! ちょっと!?」

「ちょうどよかった、あたし、ランニングの途中だったの。付き合ってよ」

「えっ、えぇえ~?」

「変な顔してないで、走るよ! ほら!」


 時間的にも場所的にも、彼女にここまで振り回されるとは思っていなかった。

 まったく、家族ぐるみの付き合いがあったとはいえ、家の合鍵を渡しておくべきではなかったな。


         ※


 一時間後、公園のベンチにて。


「はあ、ひい、ふう……」

「どうしたの、碧くん? 体調でも悪い?」

「いや……。僕が悪いんじゃなくて、樹凛がフィジカル強すぎるんだよ……」


 上半身を曲げ、荒い呼吸を繰り返す僕。

 対する樹凛は、運動部のキャプテンみたいな雰囲気でじっと僕を見下ろしている。


「あんたにあたしの度胸の三十パーセントでもあれば、いじめられっ子になんてならないかもしれないのに」


 ううむ、手厳しい一言だな。

 まあ、学校の外で会う機会も多くはないし、少し話でもしておくか。

 それから僕は、樹凛を相手に非必修科目である古代日本人と宗教の関連話を繰り出し、わけ分からんとまで言わせてやった。


 トラブルが発生したのは、次の瞬間のことである。

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