第三十一話 貴族と平民

 街道に馬車が走る音で目が覚めると、案の定全身がバキバキになっていた。




「ん……」


 


 腕の中のティーニャは安心しきった顔ですやすやと眠っていて、俺のシャツをギュッと握って胸に顔を擦り付けている。


 このまま寝かせてあげたいけど、そろそろ出発した方がいい。


 辺境伯は間違いなく馬車移動だ。彼らが起きるよりも先に行動して、途中の街道と細い獣道の分岐点で獣道に入ろう。このまま馬鹿正直に街道を進んだとして、どこかで俺とティーニャが辺境伯と鉢合わせるのは避けられない。

 



「ティーニャ、起きて。朝だよ」

「ふ、ぁ……」



 

 もぞもぞ動くティーニャを起こして、顔にかかった髪を耳にかけてやる。


 この心地良い幸せな時間をもう少し楽しんでいたいけどそうもいかない。


 


「ティーニャ、ここを少し進んだ先に獣道があるんだ。人が漸く歩けるような悪路だけど、頑張って進めば街道をまっすぐに進むよりもずっと早く渓谷に抜けることができる」

「ん……じゃあ早く準備しますね」

「うん」



 

 眠い目を擦って起き上がったティーニャを見つめて、俺も支度を始める。


 出発前に軽くキスを交わしてティーニャに帽子をかぶせれば、まるで昨夜の幻想的な風景が嘘かのようにいつも通りのティーニャの笑顔がパッと綻んだ。


 


「今日も頑張りましょう!」





 ***


 



 黙々と山道を進むのは思った以上に辛い。

 時折ティーニャの様子を見て休憩を取るとはいえ昨夜の件で周囲を警戒してしまい中々心は休まらないし、舗装されていない道は疲労も溜まりやすい。



 

「一旦お昼にしよう。急がなくてもほら、見てよこの看板」


 


 ここを管理する光輝の侯爵家が設置したであろう木製の看板。渓谷までの距離と時間を示したそれは、ここから街までの距離を示していた。


 この調子でいけば、余裕を持って渓谷に辿り着けるだろう。


 


「そうですね……少し、休みましょうか」


 


 そう言って岩の上に腰を下ろしたティーニャは少しホッとした顔をしていた。


 


「グエンは下に沢山ご兄弟がいるんですよね。みなさんまだ幼いんですか?」

「いや、もう結構大きくなったと思うよ。下はまだ九つだけど他はみんなティーニャと一緒ぐらいか少し下くらいかな」



 

 ちびちびと水を飲みながらチーズを齧る。これまでお互いの身の上話を敢えて聞いてはこなかった俺たちがこんな話をするのは初めてのことで、久々に故郷の家族の顔を思い出した。


 貧しいくせに夫婦仲だけは良くて子沢山だった両親、早々に結婚して家を出た兄貴、都会に出稼ぎに出たらしいすぐ下の妹、そして故郷に残る記憶の中の幼い双子と三つ子の弟妹。



 

「懐かしいな、みんなもう数年会ってないから兄貴はともかく他は会っても気がつかないかもしれないね」

「どうでしょう。私も離れたところに住んでる妹がいますが、大きくなっても以外と分かるものですよ」

「そういえば前に言ってたね」

「ええ、母と遠い別荘で暮らしてるんです」



 

 懐かしむように目を細めるティーニャは妹の顔を思い出しているのだろうか。


 俺も兄弟が沢山いてティーニャも同じ、そうなれば自然と話題は家族の話ばかりになっていった。



 

「親ってなんであんな末っ子に甘いんだろうね。本当に俺に接するときと同じ人間?って思うよ」

「分かります。妹が壁に落書きしても『あら、将来は画家かしら!』って親馬鹿全開で……私が子供のときに同じことしたら怒られたのに」

「孫みたいなもんなのかもね」



 

 未だにそのときのことを根に持っているティーニャは相当それが腹立たしかったようで、母親の真似をしながらプスプスと怒っている。ティーニャの母親はそういう喋り方をするんだな。やっぱり御三家なだけあって上品そうだ。



 

「弟と一緒にあんまりだ!って訴えてもイマイチ響かなくて……まぁ兄も姉も同じような顔をしてたので、多分みんな思ってるんですけど」

「誰かが代わりに叱ったりしないの?」

「嫌ですよ。だって可愛いんですもん。嫌われたくない」



 

 分かる、なんだかんだ言って下の兄弟は可愛い。そりゃ我儘で腹立つときもあるけど、それはお互い様だろう。同じことをしても上の兄弟がやれば横暴、下の兄弟がやれば我儘ってわけだ。


 いなくなればいいなんて思うこともあるけど、いてよかったと思うときもある。ティーニャと弟とみたいに親に言えないことも言い合えるし、兄弟ってのは意外と親よりも家族らしい家族なのかもしれない。



 

「……グエンは、家族に会いたいとは思わないんですか」

「そりゃ会いたいよ。でも軍を辞めて今更帰りづらいし……」



 

 今生の別れの覚悟は既に出来ている。最初は革命を失敗した場合に備えてだったけど、今はもう俺は自分の人生の終着点を自分で決めてしまったのだ。



 

「ティーニャは?家族が恋しくならない?」

「うーん、意外と平気です。だって離れてても何があっても私がみんなのことを家族だと思っていることに変わりはないので……みんなもそう思ってると思います」



 

 そうか、家族が恋しいと思う気持ちも心を失えばなくなってしまう。


 ティーニャは恐らく昔からずっとそのことを考えて生きてきたのかもしれない。出会ったときのティーニャが素直に自分の感情を出すことに抵抗があったのも、そういう環境下にいたのなら納得だった。



 

「この旅が終わったら家族には会わないの?」

「会いますよ。でも両親と兄と妹は来ません」

「へぇ、お姉さんと弟くんだけって危なくない?」

「まさか、むしろ十分すぎます」


 


 ティーニャの心がなくなるというのに殆どの家族は来ないのか、薄情な奴らだ。


 当初から敵視していた一族だったけど、ティーニャの心を犠牲にするのが当然のような振る舞いに印象は最悪だった。



 家族の心が犠牲になるっていうのに、俺らから命を狙われているという情報も知っているはずなのに、最低限の人員しか派遣しないだなんてあんまりだろう。



 

「……グエン、怖い顔してますよ」

「嘘、ごめん」

「私なら平気です。家族の気持ちだって分かっているつもりですし……それにグエンが心配してくれてるだけで私には十分ですから」


 


 そう言われてしまえばそれ以上は何も言えなかった。俺は噂程度にしか知らないけどティーニャにとっては実の家族だし、家族の悪口を言われていい気はしないだろうから。


 


「さ、そろそろ行きましょう」

「……そうだね」


 


 あんまり休憩すると動きたくなくなっちゃうので、とティーニャが立ち上がる。確かにあまり長居をして、他の旅人と鉢合わせても少し気まずい。


 


「でもこうして周りに人がいない方が気を遣わなくていいですね」

「二人きりで嬉しいってこと?」

「そういうことです」


 


 最初なら顔を真っ赤にしたであろう揶揄いを、今のティーニャはその通りだと素直に認められる。


 ティーニャは心が無くなってもいいように本音を見て見ぬふりして生きてきたのだろうけど、俺は今の素のティーニャの方が好きだ。勿論、すぐに赤面していた頃のティーニャも今思えばすごく可愛いんだけど。



 

「俺も嬉しいよ。キスしたいと思ったらできるし」

「ふふ、でも私に気を遣って昼間は我慢してくれてますよね」

「俺のためでもあるんだよ。夜に目標があった方が昼間頑張れるし」

「もう」



 

 少し恥じらったような声を背後に聞きながら、俺たちはまた歩き始めた。



 看板の文字通りなら、俺とティーニャが過ごせる時間はあと僅かしかない。どうせならティーニャの家族を責めるようなモヤモヤとした気持ちを抱えて過ごすんじゃなく、限られた幸せを全身で感じながら過ごしたかった。




 道を照らす木漏れ日が美しくて、思わず目を細める。




 それにさえ感動してしまう自分は、いつの間にか随分とティーニャに感化されてしまったのかもしれない。

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