第三十二話 黄昏れ
空が紫に染まり始めた、とある夕暮れ。
「順調にいけば、明日には渓谷に着きそうですね」
別れの時はもうすぐそこまで迫っていた。
「……そうだね。ティーニャは街に着いたらどうするの?」
グエンが私を騙そうとしているわけではないことは、あの石を見た反応で分かった。
それなら私がわざわざ態度を変える必要なんてどこにもない。
「家族が迎えに来てくれる予定なので落ち合う予定です」
「そっか、じゃあそこまで送って行くよ」
「ありがとうございます」
至って普通の返事をして、川沿いの湿った土を踏みしめる。
ここは獣道の少し下に位置する小川沿い。
飲み水を確保したかった私たちは、火を使っても人目につかない場所を探していた。
「このあたりなら大丈夫でしょうか」
辺境伯から逃げるように道を変えること数日。あれから怪しげな兵士や役人を見ることはなかったけど、それでも私たちの気は休まらなかった。
「うん、いいんじゃない?岩場の陰になってるし」
飲み水を確保するのにも場所を選ばなければいけない。グエンがいるからどうにかここまで生き延びれたけど、私一人だったらとっくに辺境伯の手のものに殺されていただろう。
グエンからお墨付きをもらって、少しだけホッと息を吐く。ずっと張り詰めていたものが緩んだからか、どっと疲れが出てきた気がする。
「少し顔を洗いたいですね……」
「俺も。やっぱり山道は疲れるね」
キョロキョロと周囲を見渡すと、岩場の陰になっている窪みの大きな水溜りのようなところに水が湧いているのが見えた。
ざくざくと歩みを進めて覗き込めば、まるで海のように碧く澄んだ湧き水が大きな天然の水瓶に湛えられていた。
「はぁ、気持ちいい」
鏡のように森を映す水面に手を浸すと波紋が小さく広がった。
よく冷えた湧き水は熱った手を程よく冷ましてくれて、暑さでぼーっとしていた頭も少し冴えた気がする。
このままここで顔も洗ってしまおうと顔を水面に近づけて、キラキラと水瓶の底で何かが反射して思わず目を瞑った。
……あれ、あそこにある石ってもしかして。
「ティーニャ?どうかした?」
「あ、いや……」
見間違いだろうか。水瓶の一番深い底の部分に桃色の宝石が埋め込まれている気がした。
そんなことがあるわけがない。でもこの目でもう一度確かめたくて、私は服が濡れるのにも構わずその石に手を伸ばした。
「ティーニャ!危ない!」
「わ、っ!!」
グエンの声よりも早く、引き潮のような強い力に吸い寄せられて体が水瓶の中に落ちた。
顔に水の圧力を感じて思わず目を瞑る。
まさかこんな歳で水瓶の中に落ちてしまうなんて、と恥ずかしさと焦りから慌てて手をついて起きあがろうとして、私の手は柔らかな草を掴んだ。
「……え?」
息ができる。それどころか濡れてない。さっきまで水に触れていたはずの手も、顔も、服も、全てさらりと乾燥していた。
一体どういうこと?事態が全く飲み込めない。
ベッドのように柔らかな地面から恐る恐る立ち上がって、私は目に飛び込んできた景色に息を呑んだ。
「嘘……」
パッチワークの田園風景がそよ風に揺れて、淡いピンクの夕暮れがオレンジと紫に色を変えながら太陽が沈んでいく。オパールの木には水晶の鳥が巣を作っていて、小鳥が囀るたびにポロポロと小さな結晶が巣から落ちていた。
ここはどこ?
水底に落ちて別の世界に来てしまったのだろうか。それともさっきまでいた山林の景色とはまた違うこの不思議な光景は、水瓶に落ちて気を失っている私が見ている幻なのだろうか。
「ティーニャ!」
「グエン……!!」
聞き慣れた声に振り返ると、グエンが空から架かる梯子から降りてきていた。
安堵のあまり駆け寄って、その胸に抱きつく。
「よかった、あそこに落ちた途端吸い込まれるみたいにして消えたから怖かったよ」
「ごめんなさい。急に水に引っ張られてしまって……気がついたらここに」
「……ここは?」
「わかりません。なんで空があるのかも、息ができるのかも」
「だよね」
ポンポンと軽く背を叩かれてその胸から離れる。
幸いなことに荷物は全部身につけているし、数日ならここでも生きていけるだろう。その間に出口を見つけて早く渓谷に向かわないと。
「あ〜〜、ちなみに出口はあれだよ。さっき何度か確かめたんだけど、あの梯子が水瓶に繋がってるみたい」
「よかった……!ここから出られなかったらどうしようかと」
「試しに登ってみな」
グエンの言う通りに梯子に足をかけて少しずつ天を目指す。雲で途切れているところまで登りきるのは大変そうだな、と数段登ったところで、突然景色がガラリと変わった。
「外だ……」
木々が生い茂る山の風景。少し冷たい土の匂い。
私は水瓶から顔を出す形で元の場所に戻ってきていた。
だとすればあと一段降りれば……
「おかえり。ね?帰れたでしょ」
また景色が変わってグエンの声が聞こえる。どこか懐かしい風が吹く夕暮れの丘に降り立てば、ほのかに甘い薔薇の匂いがどこからか香ってきていた。
「驚きました。こんなことがあり得るなんて」
「海底に王国があるとかなら御伽噺でもよく聞くけどね」
「うーん、ここは地底の世界になるんでしょうか、それとも水瓶の中の世界?」
「どっちもじゃない?とにかくここなら人も来なさそうだし、ゆっくり休めてちょうど良いね」
最初は驚いたけど、ここならグエンの言うように他の人が来ることもないだろう。あの水瓶のある場所自体が旧街道を逸れた獣道からまた随分と離れたところにあったことだし。
「見てよ、あの小鳥の巣。卵が宝石みたいになってる」
「不思議です。あれは本当に生きている鳥なんでしょうか」
それにこの場所は不思議なものだらけだ。もし他の人が来てしまったとしても、このオパールの木や宝石の卵に気を取られて私たちになんて気づきもしないだろう。
「取り敢えず水だけ外で汲んできて、ここでゆっくり休みながら焚き火でも起こそうか。俺、一回上に戻るね」
「ありがとうございます。気をつけてくださいね」
そう言い残して元の場所に戻っていくグエンを見送って、もう一度丘からこの一帯を見下ろす。
川は下流から上流に流れる。毛糸の麦穂が揺れる。小さな雲からは雨の代わりに花びらが舞い落ちていて、私を照らす夕陽は天鵞絨を照らしながらさようならと手を振っている。
「さようなら」
もしかしたらここは天馬が私たち乙女にくれた最後の安らぎの地なのかもしれない。
心を失うことへの私たちの恐れを和らげ一生分の驚きや喜びをもたらすために、あの水瓶はフェアリーダイヤのように輝いたのだろうか。
本当のところはわからないけれど、私はなんとなく自分の考えが当たっている気がした。
「綺麗ですね、とても」
白百合殿のように幸せのない結婚をして子をもうけた乙女、若くして自らこの世を去った乙女、かつての乙女たちに語りかけるように独り言つ。
彼女たちもこの景色を見て、私と同じことを感じながら、一時の平穏を民に与える代わりに自らの心を失う恐怖を慰めたのかもしれない。
「私ももうすぐそちら側になりますからね」
そうしてわたしはグエンが戻ってくるまで、東に夕陽の沈んでいくのを静かに見送ったのだった。
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