第三十話 可惜夜
「ティーニャの秘密……?」
辺境伯の滞在する山小屋から薄暗い森の中に逃げて一息ついた頃、ティーニャに突然茂みの中へと誘われた。
秘密、その言葉に息が詰まりそうになる。
脳裏を過ぎるのはやはり乙女の儀式についてだ。そのことがティーニャ本人の口から聞けるなら、俺とティーニャが一緒に生きる道が拓けるかもしれない。
ここ数日それとなく祭り目当ての他の旅人に話を聞いたりもしてみたけど正直手詰まりでいた俺にとって、その言葉は願ってもみなかったことだった。
「よく見ていてくださいね」
ぷつりとシャツのボタンが外され、白い肩口が露わになる。華奢な鎖骨は木々の隙間から僅かに溢れた月の光を浴びて神秘的な様相を呈していた。
「本当は家族とかにしか見せちゃいけないんですけど……」
そのまま胸に手を当てたティーニャを固唾を飲んで見守っていると、次第に周りにキラキラと淡い光が集まってきた。
蛍のようでもあり、星屑のようでもあるそれはやがてティーニャの手のひらの中で一つの光となると、脈打ったような音と共に急激に暗くなった。
「これが、私の秘密です」
真剣な眼差しのティーニャの手のひらの中、そこにあったのは美しく輝く桃色のダイヤモンド⸺フェアリーダイヤだった。
「ティーニャ、これは」
見つけた、間違いない、これがレイモンドの言っていた宝石だ。
これさえ壊せば俺とティーニャは結ばれることができる。儀式も政治も関係ない、ただのグエンとティーニャとして生きることができるんだ。
けれど、そんな俺の淡い期待は次に続いたティーニャの言葉で淡く散ることになる。
「これは私の心です。情け、愛情、喜怒哀楽……感情とでも言いましょうか」
「心……」
アジトで辺境伯が言っていた言葉が思い出される。光輝の一族の祝福は他のそれに比べて粗末だと、何か秘密があるに違いないと語られていた。
その秘密が、宝石の心だというのか。
「人の持つ心そのものを宝石にしたもの……私たちの一族はこれを玉心の雫と呼んでいます」
「じゃあこれがティーニャの心?」
「そういうことになります」
ティーニャの小さな手のひらの中に収まった菫のように可憐な宝石、海のように透き通った見事な輝きのそれはティーニャにぴったりの美しさだった。
「これって盗まれたり壊れたりしたらどうなんの?」
小さな宝石を手渡しで手のひらに乗せられて心臓がバクバクと脈打つ。これを壊せば、これさえなくなれば⸺
けれど、現実はそんなに甘くはなかった。
「心が石の状態になると喜怒哀楽や愛を感じることはありません。この石は心そのものなので、この身体に戻ってくるまで私は心を失ったまま生きることになります」
その言葉を聞いて、宝石を握りしめていた手の力が一気に緩む。
心を失う、これを壊せばティーニャの心は壊れてしまう。
なんとなく察してはいたけど、やはりそうかと脱力した。
美しい心の宝石、ティーニャの心そのもの、それを壊すか……ティーニャの心を壊すか、命を奪うか。究極の選択だった。
「心を失うってどんな感覚なの?」
いつものような距離感でそう聞くと、ティーニャが反射的に半歩下がった。
……今のって避けられたんだよな。
感情のない瞳で目を逸らすティーニャに伸ばしかけた手を力無く脱力させる。
「ごめんなさい、今はその……そういう気分じゃなくて」
「……俺のこと、好きじゃないってこと?」
自分でも自分の感情の変化を受け入れきれないのか、ティーニャは何も言わずに頷いた。
いつもはキラキラと輝いている黒目がちな瞳、陽光を浴びれば俺の目とよく似た色になるそれには一切の光が入っていない。
こんなのティーニャじゃない。
ティーニャはこんな野宿でも興味深そうにするような子だ。澄ましても隠しきれない素直さは、なによりその表情によく現れていたというのに。
「でも、またこの石を私に戻せば全ては元通りになります。ここには私の心の全てが詰まっているので」
その言葉に改めて手中のティーニャの玉心の雫を見つめる。
きっとこの石がティーニャそのものだ。
壊すなら今しかない。ダイヤモンドというのは硬く傷のつきにくいイメージがあるが、叩けば簡単に割れてしまう。
今ここでこの辺りの石で殴れば、ティーニャの心は簡単に砕けるだろう。
そうするべきだ。ティーニャからの気持ちがなくなっても、俺がティーニャを大事に思う気持ちは変わらない。
今ここでフェアリーダイヤを叩き割って、明日その辺のメンパーにでもそれを渡して俺たちは国境を越えよう。それが一番良い方法だ。
「……じゃあこれ、返すよ」
でも、俺はできなかった。
「もういいんですか?」
「うん、落としたら怖いからね」
小さな手にフェアリーダイヤを握らせる。
できない、できるわけがない。
「さっきも言ったでしょ。俺は、ティーニャに何か起こるのが一番怖い。これはちゃんとティーニャの中にしまっておいて」
「……分かりました」
その言葉と同時に再び淡く光る宝石が鎖骨の真下あたりに入っていく。瞳を閉じてそれを受け入れるティーニャを祈るような気持ちで見守ると、真っ白だった頬にさっと血色が通った。
そして、いつもの輝く榛色の瞳がゆっくりと開かれる。
「ティーニャ……?」
俺を認識して、ティーニャの目が僅かに桃色に染まって潤んだように細められる。
ティーニャだ、俺のティーニャだ。
「ごめんなさいグエン、試すようなことをして」
「ううん、教えてくれて嬉しかった」
俺に向かって伸びる手をグッと引き寄せて思い切り抱き締める。それに応えるように懸命に背に腕を回して力を込めるティーニャからは、俺への気持ちがひしひしと伝わってきた。
「グエン、愛してます」
その言葉になぜか俺は、ティーニャが俺の正体に気づいているんじゃないかと思った。
馬鹿な夢想だと思われるかもしれないけど、それくらいティーニャの言葉は俺の全てを包み込んでいる気がしたんだ。
「愛してるよ、ティーニャ」
それなら俺も覚悟を決めるしかない。
ふんわりと柔らかな首筋に鼻を埋めて、切なさに眉間に皺が寄る。
ティーニャ、好きだよ。世界でただ一人、ティーニャが好きだ。
「俺たちはずっと一緒だ。この旅が終わったら、前にティーニャが言ってた西の方に旅に出よう。そうしてずっと二人で旅を続けるんだ」
うっとりと桃色に染まった目を閉じて、ティーニャも俺の胸に顔を埋める。
ティーニャ、約束する。死ぬ時も絶対に一人にはしない。怖い思いも絶対にさせない。ベッドの中で微睡むみたいに、抱き合ってあたたかな愛の中で二人で死のう。
「嬉しい……グエンと一緒ならきっとどこでも楽しいですね」
「勿論、一人で豪勢に暮らすよりもティーニャとこうして野宿する方がいいに決まってる」
だからティーニャ、俺と一緒に死んで。
心を失ったまま二人異国で身を隠して生きるんじゃなく、俺たちのまま、エグランティーノとグエナエルのままで死んでやろう。
だってどちらにせよ本当のティーニャは、あの儀式で生贄になって死ぬんだから。
「私、グエンに出会えて本当に良かったです」
「俺も、ティーニャに会うために生まれてきたんだと思う」
柔らかく小さな、あたたかい身体を何度も抱き締めて互いを確かめ合う。
寝る時でさえ離れたくなくて、一つの狭い寝袋に無理やり二人で入って「明日は全身筋肉痛かも」なんて顔を見合わせて笑った。
今が一生続けばいいのに、なんて陳腐なことを本気で願いながら互いの身体に手を回す。
「おやすみティーニャ」
「おやすみなさいグエン」
それは、上弦の月が美しく輝く夜のことだった。
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