第二十六話 侯爵家の秘宝

 食事をしたり湯浴みをしたりしているうちに日が暮れた。

 信じたくない事実に口数が少なくなった俺に気を遣っているのか、ティーニャも随分と言葉数が少なくなっていた。

 

 折角良い宿を見つけられたのに可哀想なことをしているのはわかっている。けれどもまさか、ティーニャが乙女だったなんて。


 


「ティーニャ、少しいい?」

 



 久々に身を清められたティーニャは丹念に髪を梳かしていた。

 血色の良い頬がふっくらと俺を見上げて、榛の瞳がくりくりと見つめてくれる。


 こんなにも愛しいのに彼女を殺せだなんて。


 


「どうかしたんですか?今日のグエン、少し変ですよ」

「……少し甘えたい気分なんだよ」


 


 そう言って柔らかな唇に己のそれを寄せる。優しく抱き締めると心地よく瞳を細めるティーニャが可愛くて、愛しくて、もしかしてさっきのはただの俺の勘違いだったんじゃないかという気さえしてきた。


 


「ティーニャ、好きだよ。ティーニャのことだけが世界で一番好きだ」

 



 堰を切ったように溢れ出した感情が言葉になって止め処なくこぼれ落ちる。

 

 細い腰を抱き寄せて、何度も何度も唇を重ねた。こんなに執拗にキスをするなんてまるで獣みたいだなと思って、侯爵家の令嬢に手を出しているのなら似たようなものかと自嘲した。


 


「ティーニャ、好きだよ」

 



 愛しい、可愛い、何度も抱き締めてその形を確かめる。


 揺蕩うように目を潤ませるその姿の仕草一つさえ見落としたくなくて、じっとりと睨めつけるように目に焼き付けた。


 


「グエン、大好き」


 


 夢でも見ているかのようにティーニャは囁いて、俺の背に回した細い腕に力を込める。


 このままずっとこうしていられたら。夢のような心地に本気でそう思って、胸の苦しさで現実に引き戻された。


 


「ティーニャ……」


 


 熱く息を吐けば、それにつられたのかティーニャも深く息を吐いてぼんやりと俺を見上げた。


 僅かにその瞳を、桃色に染めながら。


 


「グエン」


 


 もっと、と請われるままに瞳を開けたまま影を重ねる。目と鼻の先に見える瞳は俺のことが好きだと言わんばかりにどんどん色を変えて、美しいフェアリーダイヤを現しつつあった。


 


「私たちはずっと一緒です」


 


 ああ、そうだ。絶対に離れない、離さない。今までに見たどんな宝石よりも美しい瞳はまさに侯爵家の秘宝に相応しく、俺の心を奪って虜にした。


 ティーニャ、君が誰でも俺は君を愛してる。他の誰にも殺させない。恐ろしい思いをさせて他の誰かにティーニャの命を奪われるくらいなら、俺がこの手で。



 

「……ティーニャ、いい?」

「ダメです……なんて、言うわけないでしょう」

「だよね、ごめん」



 

 キラキラと淡く輝く桃色の瞳は俺には眩しすぎて、それなのに目が離せない。


 こんな男でごめん。役目を捨てることもティーニャを今ここで手にかけることもできない中途半端な男に愛されて、ティーニャも可哀想に。


 


「もう、謝らないでください。ほら、グエン」



 

 その手が誘うままに、もう一度キスを落とす。


 豊沃の夜空にさえ彼女の姿を見られるのが嫌で、俺は静かにカーテンを閉めたのだった。




 


 ***



 



 草木も眠る夜遅く。すっかり目が冴えてしまった俺は、すやすやと眠るティーニャをぼんやり眺めながらこれまでのことを思い返していた。



 思えば最初から怪しいところはあった。そもそも貴族の令嬢がお忍びで旅をすることはあっても、一人の護衛もつけないなんてあり得ない。


 俺が都で見たティーニャの弟もおそらくティーニャの身を守るために人目を避けて路地裏にいたんだろう。


 


「んん……」


 


 彼女を見るたびに色んな感情が込み上げてきて、ティーニャに湧き上がる愛しさが今はこんなにも苦しい。


 よりによってどうしてティーニャが乙女なんだ。

 運命を恨んでも仕方ないとは分かっていても、余りにも残酷な真実にこの世の全てが憎らしく見えた。


 攫うか?どこかに閉じ込めて儀式を中止させるか?




「グエン……いやジャック、いるか」


 


 そんな不穏なことを考えているときにふと遠くから聞こえた声。……レイモンドだ。


 ティーニャを起こさないように腕を抜いて起き上がると、サンルームに男の影が見えた。


 


「お前、一体どうやって……」


 


 音を立てないように慌てて窓辺に寄る。間違いない、レイモンドだ。



 

「話は後だ、見つかるとまずい。中に入れてくれ」



 

 中に、と言っても部屋にはティーニャがいる。今は眠っていて瞳は見えないとはいえ、彼女を仲間に見られるのは避けたい。

 



「……俺も眠いから、そこで手短に言って」

「はぁ……分かった。要件は二つ。まず乙女を殺す以外の方法が見つかった、かもしれない」


 


 願ってもみなかった情報に思わず目を見開く。ティーニャを殺さずに儀式を阻止できるなら、俺の今の悩みはすべて解決する。


 


「古い書物に乙女が儀式をしている場面を描いたものがあった。乙女が宝石に口付けをしている場面だ。その宝石が何なのかはまだ分からないが儀式の鍵であることに間違いはない」



 

 その言葉にティーニャが俺に宝石を渡すときにキスをしていたのを思い出す。そのときは特に何も思わなかったけど、もしかすると何か意味のある行為なのかもしれない。



 

「つまりそれを壊すことができれば」

「あぁ、儀式は成立しない……まぁ念には念を入れて乙女も殺しておけというのが辺境伯の指示だが」


 


 今までは信頼していた辺境伯の指示に、下手に殺しをして侯爵家を敵に回すのはどうか、なんて自分に都合のいい反論を考えてしまう。


 自分も今まで革命の動乱に紛れてティーニャと結婚しようと乙女の暗殺を企んでいたのに、ティーニャがそうだと分かると考えがまるで変わったのだ。



 

「で、あと一つは?」

「さっさと乙女を見つけろ、だそうだ」

「なんだ、そんなことか」

「そんなことではない。乙女が見つからないことには取っ捕まえて宝石の正体を吐かせることもできないんだぞ」


 


 取っ捕まえる?

 とんでもないことを言うな。ティーニャを男だらけのアジトになんて連れて行ってみろ、変な目で見られるに決まってる。


 


「兎に角さっさと乙女を殺せ」

「はいはい」


 

 

 のらりくらりとした俺の態度に怪訝な顔をするレイモンドは、溜め息を吐いて俺に何かを投げ渡した。



 

「これは……」

「辺境伯から直々にプレゼントだ」

 



 真っ黒な鋼に金の装飾が施された悪趣味な短剣。嫌な予感に顔を上げると、無言でレイモンドが頷いた。



 

「こんな物騒なプレゼントは生まれて初めてだよ」

「期待されてるんだ。表面には古代から使われている猛毒が塗られている。痛みもなく、苦しみもなく、本人は殺されたことに気づくこともなく死に至る。優しいお前には必要だろう」

「……お気遣いどうも」

「礼はいい。まったく、次からは忍び込みやすい宿に泊まってくれ」


 


 そう言って姿を消したレイモンドを見届けてサンルームの窓を閉める。


 もしティーニャの正体に気づいた別の暗殺者が来たら厄介だし。



 ベッドに戻るとティーニャは相変わらず安らかな寝息を立てていて、その姿に思わずふっと頬が緩んだ。


 


「ん……グエン?」

「ごめん、水を取りに行ってた」


 


 あたたかいベッドに寝そべり、もう一度ティーニャを抱き締める。


 あたたかい、生きている。ティーニャを殺すなんてとんでもない。やっと見つけた、俺が一生を賭けてもいいと思える相手なのに。


 ティーニャに俺の正体がバレないうちになんとしてでも宝石を壊して、ティーニャと共にどこか遠い国へ逃げよう。それが一番現実的な方法だった。



 でも、もし宝石を壊すことができないままに儀式が始まってしまったら。


 


「おやすみ」


 



 ティーニャを殺すのは、俺であるべきだ。






 ***


 



「おはようティーニャ」

「おはようございます」


 


 翌朝、目を覚ますと昨晩と違っていつもと同じ笑顔のグエンが私に水をくれた。


 こくこくと水を飲み干してグエンにグラスを返す。いつも通りの笑顔、いつも通りの私たちの関係。



 けれど私とグエンが共に笑い合える未来は存在しないのだと、私は知ってしまった。


 


「あとであの植物園見てもいい?昨日は気づかなくてさ」

「あ……勿論。あそこ、昔は結婚式場だったみたいですよ。昨日管理の人が教えてくれたんです」

「お、いいじゃん」


 


 いつもと変わらない穏やかな声にいつもと同じように返す。いつも通り、それがやけに切なくて悲しくて胸を締め付けた。



 昨晩グエンが誰かと話していた内容。

 グエンがベッドを離れる瞬間の揺れで目が覚めた私は、その全てを知ってしまったのだ。



 彼が過激派の一員であること。私の始末を任された暗殺者であること。探していたのは妹ではなく私だということ。私たち一族の秘密に、その一派が気付きつつあるということ。



 私を始末しなければ革命は失敗、しくじったグエンは反逆罪で死罪になることは間違いない。


 私を殺すことができれば革命は成功、功労者のグエンはおそらく今以上の身分を与えられて栄誉ある人生を送ることになるだろう。

 


 私達が本来の私達のままで一緒にいられる未来は、どちらにせよ絶対に来ることはない。


 


「グエン」

 



 愛しげに私を見下ろすグエンに声をかける。


 


「なに?」

 



 シャツの襟刳を掴んで頬に唇を重ねる。


 

 

「え、いいの?」

「ふふ、もっとしてあげましょうか」

「喜んで」


 


 分かりやすく喜ぶグエンに思わず素の笑みが溢れてしまう。


 不思議なことに私は、グエンが私の命を狙う暗殺者だと分かっていてもグエンの気持ちを疑うことはなかった。


 愚かだと言われてもいい。

 儀式が成功してもしなくてもこの気持ちがやがて消えてしまうなら、せめて幸せな思い違いをしたままで終わらせたかった。


 甘えるように抱きつくと、昨晩とは違って割れ物のように優しく抱き締められる。



 

「グエン、大好き」


 


 私はこの儀式のために生きてきた。グエンのために殺されてあげるつもりは毛頭ない。私は儀式を成功させる。

 でも、もしその後で反逆者と通じた罪で私もグエンと共に火炙りになるとしても、私はグエンと一緒にいる。


 心がある限り、私は自分に素直に生きたいから。



 

「グエンがいいって言ってくれるなら何度でもしますよ」

「え、それって今だけ?それともずっと?」



 

 小さな熱の燻る唇にキスをする。



 私は死なない。家族のためにも国のためにも儀式を成功させて自分の使命を全うする。心を失うまでグエンへの気持ちに素直に生きて、許される全てをグエンに捧げる。



 

「グエンが望むなら、なんでもしてあげます」

 



 儀式を止める以外なら、私はあなたのためならなんでもできる。


 グエン、残念だけど私はあなたに殺されてあげることはできないし、あなたに心を捧げることもできない。でもあなたの旅についていくことはできる。


 


 それがたとえ、死出の旅だったとしても。

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