第二十五話 雷公ユリウス
「迷った……」
グエンと城の散策を始めること、僅か数分。
「ここ、どこだろう」
私たちは完全に逸れてしまった。
「えっと、あの角を曲がるまでは一緒にいたはずで、こっちに来てから急にいなくなって……」
……わからない。逸れようもないこの見通しのいい回廊で、なぜ私たちは逸れてしまったのだろうか。
こういうときはその場から離れないほうがいいんだっけ。出来るだけ色んなところから見える位置にいた方が見つけてもらいやすいような気もするけど、迷いどころだ。
「おや、随分珍しいお客さんだね」
迷子になってしまった不安とどうすればいいのかわからない不安で頭を抱えていると、柔和な声が背後からかけられた。
あれ、この城には誰もいないって聞いたのに。
少し警戒しながら声の主の方へ振り返ると、燃えるように輝く金の髪の美しい男性が驚いたように私を見つめていた。
「騎士を招待したと思ったら、可憐な乙女まで来てくれたなんて光栄だよ」
この国で、この街で、何よりこの城に入れる人間でこの髪を持つ人なんて限られている。
「旅路は順調かな?まあ聞くまでもないか。我が領へようこそ、白百合の乙女」
すらりと伸びた長躯に中性的な美しい容貌。政をさせれば宰相要らず、筆を取らせれば文豪泣かせ、空を見れば大地を潤すと言われた稀代の天才。
豊沃の公爵家当主、雷公ユリウス。
「……公爵閣下、この度はご招待に預かり光栄です」
「いいよいいよ、そんなに畏まらなくて。公爵家とそちらの侯爵家は昔から縁がある。僕のことはユリウスと呼んでおくれよ」
「そのようなことは」
「なんで?あの騎士のことは随分と親しげに呼んでたのに」
部屋の中以外でグエンと親しげに話した覚えはない。一体どこから見られていたのだろうか。
涼しげな目もとがニンマリと歪んで、思わず後退りしてしまう。
公爵は食えない人だと聞いていたけれど、まさかこんなところで会うことになるなんて。
「いいよ、言わなくて。大体わかってるし僕はそういう野暮なことはしない主義だ。僕たちの乙女が選んだ男がまさか騎士だとは思わなかったけどね」
「あの、彼は何も知らないんです。彼を見かけても私のことは何も言わないでください」
「言わないよ、儀式が成功してくれないと僕も困るからね」
公爵が管理している城だとは聞いていたけれど、本人がいるのは誤算だった。
今更グエンが私の正体を知って態度を変えるとは思えないけど、できるなら私はただの私のままでこの旅を終えたい。
公爵は言わないと言ってくれているけど、公爵のことをあまり知らない以上信用はできなかった。
「こんなところで立ち話をするのもなんだし、ここを案内してあげよう。ここの植物園は格別だよ、なんてったって僕の三人目の妻が手塩にかけた育てた子達だからね」
「……ユリウス様にご歓待いただくなど畏れ多いことです」
「堅苦しいねぇ。ま、いいや。ついておいで」
くるりと踵を返して歩き始めた公爵のあとに渋々続く。
食えないというか自由気儘というか……年頃の貴族の娘としてはあまり既婚者の男性と二人きりになりたくはないんだけど、この人はそんなことこれっぽっちも考えてはいないのだろう。
「あの、私彼を探さないと」
「大丈夫、ちゃんとまた会えるから」
はぐらかされながら思ったより早い歩調を追いかける。
グエンはいつも私に合わせてくれていたのだろう。ユリウス様の歩くスピードは踵の高い靴だったら追いつけないだろうな。
「妻にバレたら怒られるから内緒だよ。あの娘は悋気深くてね」
「えっ」
「嘘だよ、冗談。悋気どころか人に見せびらかしてくれと五月蝿いくらいだから」
かくいう僕は妻達とここでデートするのが好きでね、と返事に困ることを言われて口を閉ざす。こういうのは返事をせず黙って笑っているのが賢い対応というものだ。
「ここだよ。僕達は夕焼けの泉って呼んでる」
回廊を少し離れた中庭のさらに奥、岩に囲まれた入り口を抜けた先。
しっとりと湿った柔らかな土を踏むと、柔らかな花の匂いを風が運んできた。
夕焼けの泉。
その名に相応しく、花の色が反射して赤く染まった泉の周りには美しい花々が咲き誇っていた。
「いいところだろう。昔はここで結婚式をしていたらしくてね、それもこの城の目玉として売り出そうかと考えてるんだ」
「結婚式……」
これだけ美しいところであれば、ここで式を挙げたいと思う人は大勢いるだろう。
この泉の両端に参列者の席を設えて、あの花の前に親族席を作って、あのアーチの下で永遠を誓えたら……
「随分切ない顔をするね」
「気のせいです」
切なくなんてない。グエンとここでそう出来たら幸せだろうなと夢想しただけで、私は、別に……
「わかるよ、身分違いって苦しいよね。僕たちが本気で愛し合っていても周りはそう思ってはくれない。相手が僕たちを誑かしたなんて誤解を受けようものなら、僕らの想いはかえって相手を傷つけてしまう」
まるで私の心を見透かしたかのようなことを言われてぎくりとする。
私の気持ちはグエンを傷つけるだけなのかもしれない。それならいっそ傷つける前に終わらせたほうが、お互いに幸せなのだろうか。
答えの出ない疑問に眉を下げていると、ユリウス様が私の前に立った。
「でももし僕が傷つけられる側だとしたら……ただでは傷つけられない。乙女もそうだろう?」
もし私が平民でグエンが貴族だったら。確かに私はどれだけ周りに何を言われてもグエンへの気持ちを捨てることはしないだろう。
「僕は好きな女のためならなんでもできる。天地をひっくり返すことも、不可能を可能にすることも。彼もきっと同じことを思っているんじゃないかな」
好きな人が私のせいで傷つくのには耐えられないけど、好きな人のために傷つくのなら私は喜んで耐えられる。自分の立場で置き換えてみれば、グエンの幸せのために離れるなんて私の傲慢な自己満足でしかないのだ。
最初は何のために声をかけられたのかわからなかったけど、もしかするとユリウス様は私を励まそうとしてくれているのかもしれない。
「身分が違うなら成り上がってみせる。環境が違うなら周囲を変えてみせる。それでも許されないなら……許されるように世界を変えるまでだ」
「随分と熱烈なんですね」
「他人事みたいに言うんだね。人間っていうのはそういうものだ。自分の望みが叶わないなら他者を犠牲にしてでも叶えてみせる」
茶化すようにそう答えると、突然社交界の花形と評判の顔が真剣な色を帯びた。
「乙女、君の誠実な騎士もそういう人間だよ」
「……え?」
グエンが、自分の望みのために他者を犠牲にする?
そんなことはあり得ない。だってグエンは優しいし正義感が強い。面倒見だって良いし、理不尽なことは絶対にしない。
反論しようと口を開く私を手で制して、先程までとは打って変わった硬い声色で密やかにユリウス様は呟く。
「今晩は窓際で眠らないほうがいい。この辺りは虫が多いからね」
「それはどういう」
「話は終わりだよ。乙女、このまま真っ直ぐ進みなさい。僕との逢瀬は彼には秘密だよ」
トン、と背中を押されて渋々言われた方向に進む。入ってきた場所とは違う植物園のような道を抜ければ、回廊の一部に出ることができた。
「あの、ここって……あれ、いない」
振り返ると既に公爵の姿はなく、泉は緑の陰に隠れて見えなくなっていた。
まるで蜃気楼のような人だな、と草むらを眺めていると、遠くから足音が聞こえてきた。
「あ、グエン。ごめんなさい逸れてしまって」
回廊の奥からグエンの姿が見えた。よかった、公爵の言う通りちゃんと合流できた。
「合流できてよかったです」
ホッとしたように笑う私を認めると、グエンは少し目を見開いて足を止めた。
どうしたんだろう。いつもよりも少し顔色が悪い気がするけど、そんなに心配させてしまったのだろうか。
声をかけても一言も発しないグエンに不安が募る。
「グエン?どうかしましたか?」
悲しい目で私を見下ろすグエンはいつもの姿と変わりないはずなのに、その感情が読めなくてどこか恐ろしい。
不意に公爵が言っていた言葉が頭をよぎる。
グエン、あなたは誰?あなたは私の知ってる優しくて頼りになって正義感の強いグエンじゃないの?
「ティーニャ……」
もしそうじゃないのなら、教えてほしい。どんなあなたでも私はあなたを受け入れたいから。
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