第三章 豊沃の平野

第十九話 葡萄酒の誘惑

 馬車に乗って4日目、私たちは葡萄畑で有名なとある村に泊まることになった。


 


「見てみんな!やっぱり都から来る人は都会的ねぇ」

「線の細い美少年と雄々しい男前……選べないわ」



 

 酒場の若い女性のグエンへの黄色い声がよく聞こえる。さっきまで人探しのために村を隅々まで歩いていたから色々と目立ってしまったのだろう。


 


 村唯一の食堂、というか酒場。

 朝晩の寒暖差が激しいこの村ではワイン作りが盛んで、村の人々はみな水代わりにワインを飲んでいると聞く。


 その噂通り村の人は男女問わず大人はワインを、子供は葡萄ジュースを飲むのが習慣なようで、私たちも一杯ずつワインを頼んだ。



 

「みんな意外と性別には気づかないもんなんだね」

「初見で見抜いたどっかの誰かさんが目敏いだけですよ」

「ごめんって」



 

 女性たちがサービスしてくれたらしいチーズをつまみながらワインに口をつける。成人してから何度か家でも飲んだことはあるけど、父や姉の好むワインはかなり渋くて私の口には合わなかった。


 さて、このワインはどうだろうか。


 


「……うん、飲みやすい」


 


 赤ワインなのに甘口で渋みが抑えられているおかげで、お酒に慣れていない私でもそこまで抵抗なく飲める。喉を通る熱さは度数通りの威力だけど、まるでデザートみたいな口当たりは今まで飲んだ中で一番私の口に合っていた。



 

 ワインは値段よりも好みって言うけど、本当にその通りなんだな。


 


「肉食っていい?絶対合うよコレ」

「どうぞ。僕も食べたい」

「すんませーん、この歓喜鶏とマロンのソテー一つ」

「はいよ!」


 


 先に頼んでおいたピクルスを頬張りながら、食堂の中をぐるりと見渡す。


 ほんのりと明るい店内にアルコールの匂い、畑仕事を終えた男性たちの大きな笑い声や女性たちの喋り声が酒場独特の雰囲気を出していた。


 


「あんまり飲み過ぎたらすぐに酔うから気をつけなよ」

「は〜い」


 


 誰かがお金を払ったのか、アコーディオンの音も聞こえてきた。自分がそんなにお酒に強いわけじゃないのは知ってるから、飲むのはこの一杯だけにしておこう。




 そう思ってちまちま肉を啄ばみ野菜を突き、グエンと楽しく話すこと1時間。


 


「だから言ったのに」


 


 私はすっかり酔い潰れていた。


 


「らって〜、たのしかったんれすもん」

「ああいう飲みやすいやつに限って度数えげつないもんなの、ほら帰るよ」



 

 困ったように私を担ごうとするグエンには悪いけど、もう脚に力が入らないから立つこともできない。


 本当に楽しかったのだ。こんな場所に来るのなんて初めてだし、音楽も初めて聞くものばっかりで……



 

「らっこ」

「ラッコ?」



 

 都にもそりゃ初めて見るものは沢山あった。でもやっぱり住んでいた街だと思うと他の街よりは気分も落ち着いていたし、そこまで興奮することはなかったのだ。


 やっぱり街の外に出るのは楽しい。グエンもいるし、新しいことばっかだし、生きてるって感じがする。



 

「兄ちゃん!弟くんは抱っこしてくれって甘えてんだよ!」

「ガキ酔わせたんだからちゃんと寝かしつけてやれよ!ガハハハ!!」

「ああ、抱っこね……」



 

 もう周りのおじさん達が何を言っているのかも分からない、眠くて眠くてしょうがなかった。


 困った顔のグエンが私の脇に手を入れて、ふっと身体が持ち上がる。


 


「げぇん……」

「誰だよそれ」



 

 あったかい身体に抱き上げられている。ああ、これグエンの肩だ。



 

「ほら、宿に戻るよ」




 ゆらゆらと身体が揺れて心地よい。酒場を出ると一気に田舎特有の静寂が訪れて、湿った冷たい空気が熱った頬を冷やしてくれた。


 


「これに懲りたらあんまり外で飲まないこと。危ないからね」

「はぁ〜い!」

「飲みきれないときは俺に頂戴。飲めそうなら飲んだげるから」

「はぁ〜い!」


 


 くふくふと笑いながら挙手をすると、呆れたように口元だけグエンが笑う。



 楽しいなぁ、ご飯も美味しかったしお酒も甘かったしグエンもいるし。

 

 大きな体の安定感とリズミカルな揺れにすっかり安心しきってしまった私は、その体温を感じながら心地の良い微睡に身を任せたのだった。





 ***



 


「はい、到着」



 

 どさりとベッドにティーニャを落とす。その衝撃で目を覚ましたらしいティーニャは、まだまだ重い瞼をぱちぱちとゆっくり動かすと起き上がって礼を言ってきた。


 


「ありがとうございました」


 


 編み込んだ髪を解きながらティーニャが頭を下げる。

 少し寝たのと時間が経ったのでアルコールもちょっとは抜けたのか、酒場にいたときよりかは随分呂律が回るようになっていた。



 

「眠いでしょ、今日はもうこのまま寝な」



 

 ぱちぱちとゆっくり瞬く榛の瞳はすっかりとろんとしている。目を閉じさせたら3秒経たずに眠りに落ちそうだ。


 もう寝ようねと肩を押せば、ふにゃふにゃの身体は呆気なくベッドに沈み込んだ。



 

「はい、おやすみティーニャ」


 


 冷えないように毛布をかけてやる。

 酒に強いとは思ってなかったけど、想像以上に弱かった。今度からはあまり飲まないようにさせないと、俺が心配で酔えなくなってしまう。


 さて、俺も寝支度をしようか。

 結構飲んだし水でも飲もうかなと水差しを取ろうとして、ツンと袖が突っ張った。


 


「ティーニャ?」

「やです」

「なにが」

「いっちゃヤです」


 


 そう言うなり、むすりと頬を膨らませるティーニャ。もしかして甘えているのだろうか。昨日も結構積極的だったし、本来の彼女は甘えん坊なのかもしれない。


 

 

「ティーニャ、手放して」

「やだ」

「俺と一緒がいいの?」


 


 わざと意地悪を言えばこくんという頷きと共に袖を引く力が強くなる。


 可愛い。嬉しい。ティーニャの気持ちを疑っていたわけじゃあないけれども、本当に俺のことが好きなんだなと実感できて思わず鼻の下が伸びてしまう。


 


「グエンは私に触られるの、いやですか?」

「ンっ……い、嫌じゃないよ。意地悪言ってごめんね」

 


 

 危ない、あんまりやり過ぎると今度はときめきで死にそうになる。ニヤけないように歯を食いしばってベッドの上に腰を下ろせば、嬉しそうにくふくふとティーニャが笑みをこぼした。


 


「嬉しいの?」

「はい。私、いますっごく幸せです」

 



 よかった、酔ってる中でそう言ってもらえるってことはきっとこれもティーニャの本音なんだろう。


 心の底からの言葉に多幸感がじんわりと広がって、酔いとはまた違うふわふわとした心地に目尻が下がる。

 そんな俺を見て、ティーニャはぽつぽつと独り言のように本心を語り始めた。


 


「ふふ、本当に夢みたい……グエン、これ夢じゃないですよねぇ」

「夢だったとしても正夢だよ。覚めてもまた会いにいくから」

「よかったぁ。私、ずっと屋敷の中しか知らなかったから、初めて好きって思った人に好きって言ってもらえて、沢山のものを見て……グエンと出会えて初めて生きてるってこういうことなんだってわかった気がするんです」


 


 だからそれが二度も味わえるなら夢でもいいかもしれませんねとティーニャはコロコロ笑って、ふと言葉を止めて俺の顔を覗き込んできた。


 


「ふふふ、グエン真っ赤」

「……悪い?」


 


 こんな甘い空気になって照れない方がおかしいだろ。

 自分でも恋愛でこんな風になるとは思ってなかったけど、まさかこんなに弱くなるとは。


 これが謂わゆる惚れた方が負けってやつか。それなら諦めるしかない。


 


「俺だって似たようなもんだよ。自由気ままに生きてきて、大抵のことは知ってる気になってた。でも本当は人を好きになるってことがどういうことかもわかってなかった」

「どうでしたか?人を好きになるって」

「飛び抜けて幸せだけど、それと同じくらい不安になるね。今までの自分がどれだけ冷静だったのかって思うくらい振れ幅が大きくなっちゃってさ。俺ってこんなにカッコ悪いやつだったんだなって思い知ったよ」


 


 ティーニャに出会って、今まで感じたことのない感情が目まぐるしく俺の心を掻き立てた。


 彼女の輝く瞳、その手の伸びる先、笑顔の一つ一つが気になって仕方なくて、その向こう側にいるのができるだけ自分でいてほしい。

 まだ芽生えたばかりの独占欲とも言える感情がこれ以上肥大したら一体俺はどうなるのか、少しだけ恐ろしかった。


 


「グエン大好き」


 


 あたたかい蝋燭の光だけが照らす部屋の中に、甘すぎるお菓子のような声が広がる。

 疑う余地もない幸せそうな瞳に吸い寄せられそうになって、ハッと己を律した。


 ダメだ、このままだと我慢できないかもしれない。



 

「そろそろ寝ようか、もう遅いし」

「やです」

「ヤダじゃない」



 

 慌てて立ちあがろうとしても、柔らかい手でぎゅっと掴まれてしまえば魔法にでもかけられたみたいに身体が動かなくなる。その上すりすりと腕に擦り寄られて俺はもう限界だった。


 か、可愛い。可愛いけど可愛いのがダメだ。流石にこんなにすぐ手を出す男にはなりたくない。


 ギュッとしがみつく小さな手を引き剥がそうとするけど、あんまり強くすると折れてしまいそうで力を込められない。


 


「なんでダメなんですか?」

「……チューしたくなっちゃうから」


 


 もうプライドなんてない。兎に角こんな流れで手を出したくなくて必死だった。


 なのにティーニャはまた俺の気も知らないでぽやんと笑ってこう言ったのだ。


 


「チュー、してもいいですよ」


 


 ダメに決まってんだろ!このお馬鹿!


 もう何の拷問か分からなかった。戦場でもこんなに息を潜めたことなんてない。普通に息をしたら変質者みたいな呼吸になるのが分かってたから、必死で堪えた。



 

「あのね、ファーストキスって知ってる?」

「はい、知ってますよ」

「じゃあ俺が我慢したい理由もわかる?」

 



 頼む、わかってくれ。俺は意外とロマンチストなんだよ。いや、今だってそんなに悪いシチュエーションではないんだけど、好きな子とのファーストキスだから。


 大事にしたいんだよ、わかってくれるだろティーニャ。


 そう思ってティーニャの返事を待つも、返ってきたのは俺の気なんて一つも知らないものだった。



 

「グエン、だいすき」


 


 誘うように瞳が閉じられる。

 もうダメだ。耐えきれない。こんなに何回も誘惑されて俺はよくやったよ、限界まで頑張った。


 桜桃色の唇から目が離せない。ベッドに体重を乗せてティーニャを抱き寄せれば、小さな手がそっと己の胸板に添えられた。


 


「本当に、いいんだね」


 


 白桃のような頬に手を滑らせて柔らかな髪を耳にかけてやる。

 


 そうして誘われるままに身を屈めて唇に吸い寄せられた、はずだった。



 

「ぐぅ」


 


 俺に抱きついたままずるずると崩れ落ちていくティーニャに急激に現実に引き戻される。


 寝るの?そんなお決まりの展開本当にあんの?飲み過ぎだろ、これで明日全部忘れられてたら本気で困るんだけど。



 とはいえ折角の初めてのキスを意識のない状態で済ませる訳にもいかない。



 

「はぁ……呑気なお嬢さんだよ」


 


 ぐでんぐでんの身体をベッドに寝かせてやって、ぬるい水瓶の水をグラスいっぱいに注ぐ。




 色々な熱で昂った身体に、硬水の苦味が突き刺さように染み渡った。

 

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