今日も彼は無表情

石花うめ

今日も彼は無表情

「きゃああああああああ! うわああああああああああ!」


 体が吹き飛ぶほどの風を受け、セイラは叫んだ。

 左右に揺られ、また急降下。手足に力が入り、思わずギュッと目をつぶる。


 彼も楽しんでくれてるといいんだけどな。

 片方の目を薄っすら開け、隣に座るレオの顔をこっそり覗き見る。


 レオは、相変わらずの無表情だ。今日は特に表情が硬く、まるで鉄仮面そのものだ。

 少しがっかりしたのと同時に再び急降下が始まり、セイラはまた「きゃああ!」と叫んだ。



「ジェットコースター楽しかったね」


 セイラは好意的な反応を期待した。しかし彼は相変わらずの無表情で、


「楽しかったが、戦闘機と比べれば幾分か迫力には欠ける」

「そっか、そうだよね」


 セイラは肩を落とした。

 一緒に居られて嬉しいはずなのに、悲しい気持ちになってしまう。


 セイラとレオが付き合い始めたのは、今から8年も前のことだ。

 当時は二人とも、まだ学生だった。付き合って3年が経つとき、学校を卒業するタイミングでレオは徴兵されることになった。当時のセイラはこの世の終わりのように泣き崩れ、「行かないで」と、レオを必死に止めようとした。だが、レオは行ってしまった。

 レオがいない5年間、セイラはずっと彼の帰りを待ち続けた。半年に一回ほど届く手紙が唯一、彼の生存を確認する手段だった。丁寧な、だけど誇張の無い文字で書かれた「軍の戦闘機の操縦士に選抜された。いつ戻れるか分からない」という手紙を見たとき、セイラは絶望のあまりこの世を去る選択肢も考えてしまった。しかし、自分がレオの帰る場所になるんだ、という強い意志で踏みとどまった。

 その後レオは無事帰還し、二人は再び付き合い始めた。


 だが、レオが笑顔を見せてくれたことは、帰還してから一度もない。

 元々そこまで喜怒哀楽の激しい人ではないものの、以前はまだ会話中に自然と微笑むことがあったのに。


「次はあっちのアトラクションに乗らない? ぐるぐる空中を回るの!」


 セイラはレオの手を引く。遊園地でデートをしようと提案したのもセイラだった。レオに少しでも楽しい気持ちになってほしい。そして彼の笑顔を見たい。日程を決めてチケットを取るのも、全部セイラがやった。


 それなのにレオは、無表情のまま。レオが悪いわけじゃないことはセイラだって分かっている。戦いのために感情を押し殺してきたのだ。命の危機を何度も乗り越えてきたことを、彼の腕や額にある深い切り傷が物語っている。

 だが、自分だけ張り切って空回ってしまっているのが惨めに思えてきて、セイラは涙が出そうになる。本当はもっと、楽しい一日になるはずだったのに。


「ちょっと悪い、」

 ふいに、レオがセイラの手をほどいた。


「どうしたの?」

「次のやつに乗る前に、トイレに行ってくる」

「あ、うん……」


 レオはセイラから遠く離れていく。その背中を見ながらセイラは重いため息をついた。ショルダーバッグから化粧用の手鏡を取り出し、自分の顔を確認する。幸い、涙はまだ眼の表面にとどまっていて、マスカラは落ちていない。指で頬を押し上げ、笑顔の練習をする。今日は自分も上手く笑えていない気がしている。

 手鏡を戻し、自分に頑張れと気合いを入れた。それにしても、レオがなかなか戻ってこない。


「トイレ並んでるのかな」


 その時、


「お姉ちゃん、友達とはぐれちゃったの?」


 声を掛けられた。低くて落ち着きのあるレオの声とは対極の、高くて頭の悪そうな声。その主はセイラの知らない男だった。しかも、その男の両隣にも同じような長い金髪の男が二人いて、セイラを見ながら気持ちの悪い笑みを浮かべている。


 ナンパだ。セイラは「すみません」と言って逃げようとしたが、レオが戻ってきた時に自分がこの場所に居なかったらはぐれてしまうと思って、つい留まってしまった。


「この後ひま? 俺たちと遊ばない?」

「すみません」


 男たちはセイラが立ち去らないのをいいことに、じりじりと距離を詰めてくる。

 怖い、逃げなきゃ、でも。

 セイラは俯いた。体が動かない。ごめんなさい、すみません、と呪文のようにつぶやく。立ち去ってくれるのを願う。

 男の手がセイラの肩に伸びる。

 もう嫌、やめて。


 セイラが目をつぶった。

 その時。

 鈍い音と複数の呻き声が聞こえた。そして辺りが静まり返った。


 セイラは恐る恐る目を開ける。


「悪い。待たせた」


 低くて落ち着いた声。彼の足元では、さっきの男たちが粗大ごみと化していた。

 顔を上げたセイラの目の前には、見慣れた大きな背中があった。


「レオ!」

 セイラは思わずその背中に抱き着く。


「もう! どこ行ってたの! 私、怖くて──」


 思わず涙が溢れてしまい、それを見られたくなくて、さらに強くレオの背中にしがみつく。


 レオは一言、「悪い」と言った。

 答えになっていない。だが、今のセイラにはその一言だけで十分だった。


 胴に回っているセイラの腕を、レオはいとも簡単に解きながら、


「行きたいアトラクションがある」


 そう言って彼女の手を握った。傷だらけの手で、ありえないほど優しく。

 そしてやや速足で歩き出す。


 先を歩くレオの背中を見ながら、セイラは懐かしい気持ちになった。


 学生時代にも、今と全く同じことが起きた。

 小柄で可愛らしいセイラは、よく男子に言い寄られていた。相手を傷つけてしまうかもしれないと思って強く断れないセイラは、男子が立ち去ってくれることを願って曖昧な返事を繰り返していた。

 ある時、それが原因で、男子に暴力を振るわれそうになったことがある。「どうしていつまで経ってもデートしてくれないんだ。俺たち付き合ってるだろ!」と言われて。もちろん付き合ってなどいない。セイラの曖昧な返事が、その男子を勘違いさせてしまったのだ。

 セイラは必死に弁明したが、男子の怒りは収まない。最終的に彼はセイラに手を挙げようとした。そこに現れたのがレオだ。当時、二人はただのクラスメイトで、お互いに顔と名前を知っているだけの関係だった。

 助けてくれてありがとう、とお礼を言ったセイラに対してレオは、

「嫌なら嫌と言え」

 と言った。

「きちんと本音を伝えろ。でないと、ああいう輩にいつまでも付きまとわれるぞ」


 それからというもの、なかなか自分の気持ちを他人に伝えられないセイラを、レオはことあるごとに守ってくれた。

 そうしているうちに少しずつ二人の仲も深まっていった。


 告白したのはセイラからだった。

 言いたいことを言えなかったセイラは、初めて自分の素直な気持ちを伝えることが出来た。これでダメなら仕方ないと腹を括っていたが、レオは首を縦に振ってくれたのだ。

「ありがとう。これからもよろしく」

 そう言って手を差し出した彼は、穏やかに微笑んでいた。


 セイラはレオのおかげで以前より自分の気持ちに正直に生きられるようになった。自分の思ったことを言葉にして伝えられるようになった。

 それなのに、今度はレオが自分の気持ちを押し殺して生きるようになってしまったなんて……。


「着いたぞ」


 レオがセイラを連れてきたのは、観覧車だった。


「これって……」

「いいから早く乗るぞ。もうすぐ閉園時間だ」


 そういえば、空はすっかり暗くなっている。賑やかなライトアップで満たされた園内では寂しさを感じることはないが、お客さんの数はずいぶん減った。

 それにしても、ジェットコースターでも楽しそうな様子を見せなかった彼が、どうして観覧車に乗ろうなどと言い出したのだろうか。

 疑問に思いつつもセイラは手を引かれ、レオと一緒に観覧車に乗り込んだ。


 向かい合って座ったが、やはりレオは無表情だ。私と目を合わせず、ただ、じっと座っている。


「さっきは、ありがとう。助けてくれて」

「ああ」


 レオは窓の外を見ている。


「……今日は、楽しんでくれた?」

「楽しかった」


 レオは淡々と答える。

 天に昇っていく観覧車に対して、セイラの気持ちは地に沈んでいくようだ。


「本当に楽しかった、の?」


 その問いの意味を分かりかねたのか、レオはセイラの方を向いて首を傾げた。


「レオが戻ってきてから、分からなくなったの、私。レオが本当に私のこと好きで、私と一緒にいるのが楽しいのか」

 声が震える。

「レオの本心を教えてよ」

 その震えを隠すために張り上げた声は、狭い箱の中でキンと響いた。


 レオはセイラの隣に移動してきて、肩を抱いた。


「なに?」と、怪訝な顔をするセイラ。

 だがレオは変わらぬ表情のまま、窓の外を指さした。


「俺の気持ちだ」

「これって──」


 セイラの眼下に広がるのは、ライトアップされた遊園地。

 まさに光の海。だが、所々に光の消えている場所がある。よく見ると、光のある場所が文字になっているではないか。


『結婚してくれ』


 たしかに、そう書かれている。その上空にはジェット機が数機飛んでいて、カラフルなスパンコールを降らせている。


 釘付けになっているセイラの耳に、レオの声が届く。


「楽しいに決まってる。俺は元から感情が顔に出にくい方だが、それでも、好きな人といれば頬だって緩む。今日だって、ずっと楽しかった」


 それなら、どうして。


「この計画が、バレるわけにはいかなかった。セイラがチケットを予約してくれた後に考えたものだから、計画に穴があるかもしれない。悟られないように、ずっと我慢していた。緊張が伝わっていないか、不安だった」


 だから、今日はずっと、いつにも増して無表情だったのか。


「不快な思いをさせたなら、申し訳ない」


「ううん、そんなこと……、って、──ほんとだよ! 私、てっきりレオは楽しんでくれてないのかと思って。私だけ空回ってるのかと思って。レオがトイレから戻って来ない間、私、ずっと寂しくて……」


「その時間は、このイルミネーションの打ち合わせをしていた。それに、徴兵時代のパイロット仲間がジェットを飛ばす準備も必要だ。だから、途中で時間を取らせてもらった」


「全部、このために?」


「ああ」


 沈んでいたセイラの心がふわふわと舞い始める。結局全部自分の早とちりだった。一人で考えて、暗い気持ちになっていたのが馬鹿みたいだ。


 ありがとうを言おうとしてセイラが振り向くと、レオが小さな箱を手に持っていた。大きな手で苦戦しつつもそれを開き、セイラの目を真っ直ぐ見つめた。


「改めて、俺の口から言わせてくれ」


 セイラは静かにうなずく。


「セイラ、お前は優しい。今日だって、俺のために遊園地に誘ってくれたんだろう」

「うん」


「優しいから、自分のことを犠牲にしてまで他人の気持ちを考えるよな。俺はそんなお前を放っておけなかった。だからあの時、助けた。守ってやらなきゃいけないと思ってた」

「うん」


「でも戦場に行き、お前と離れて分かった。守られているのは俺の方だって。どんな地獄のような場所にいても、お前のことを考えるだけで俺は、必ず生きて帰ろうと思えた。5年も独りにさせてしまったのに、お前は俺のことを待ち続けてくれた。お前の優しさに俺は救われてたんだ」

「うん」


「独りにさせてしまった分、これからずっと、もっと近くでお前を幸せにしたい。だから、結婚してくれ」


 レオが頭を下げる。


 二人だけの甘い空間に一瞬の静寂が訪れる。


 セイラはそれを断ち切るように、

「私だけを幸せにするんじゃなくて、二人で一緒に幸せになるんでしょ。それが夫婦なんだから」


「じゃあ、」

 レオは顔を上げる。セイラは彼の目を真っ直ぐ見つめる。


「よろしく、お願いします」


 唇が動くのと同時に、これまで胸に秘めていた感情が全て形を失い、涙となって溢れ出した。セイラはまるで子供のように「レオおお!」と泣き叫びながら、顔をぐちゃぐちゃにして喜びを爆発させた。


 涙でぼやける視界に映ったレオは、この世で最も幸せそうな笑顔をしていた。



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