50話 天使に思えて
「拓実、また……明日ね」
「あっ、もう家か……また明日な」
雫の声で我に返り、顔を上げると既に家の前まで辿り着いていたことに気が付いた。
「あの、た、拓実!」
「ん、どうした雫?」
「そ、その……私でよかったら……何でも言ってね。力にはなれないかもしれないけど、話だけならいくらでも聞く、から」
珍しく声を張り上げ、雫は心配そうに俺を見つめる。
雫にアリアのことは一切話していないが、俺の言動から何かしらあったことを察して気を掛けてくれているのだろう。
「おう、ありがとな」
「う、うん……」
俺は精一杯の笑顔を浮かべ振り返ることなく玄関のドアに手を掛けた。
素っ気ない返事と作り笑いは、雫の不安を更に募らせてしまったかもしれないが、そこに神経を使うことすら今の俺にはままならなかった。
靴を脱ぎ捨て脇目を振らずベッドに制服のままダイブすると、雫に対して取った粗末な行動の後悔が押し寄せる。が、過去は二度と戻ってくることはない。雫のこと然り、アリアのこと然り、だ。
あの後、とても授業に出られる状態にないセインとエマは、担任である岡本先生を経由して早退させてもらった。元々不審者に攫われたとされていたため、その辺の対応は準備していたらしく中々スムーズに早退させてもらうことが出来た。
セインはともかく、エマが早退することに若干の疑問はあったに違いないが二人のいたたまれない状態を察してかそこは特に突っ込まれることはなかった。
二人が帰ると俺は教室へ戻り授業を受けたがノートも取らず終始上の空で、どんな内容だったかも思い出せないでいる。
先生は立ち直るまで無理して来なくていいと話し、ついでにカウンセリングなどのパンフレットも二人に渡していた。
折角クラスに馴染めてきたところではあるがこればかりは仕方のないことだ。
付き合いの浅い俺でさえ、心が抉られるような気持ちでいるのだ、二人の心中は想像を絶するものに違いない。
あの時、アリアの言うことをおとなしく聞いてさえいればアリアは――
どれくらい、そうしていただろうか。俺は朦朧とした意識の中で自分への罵倒を繰り返すことで、なんとか心のバランスを保っていた。
こういう時、なにかれ構わずモノに当たったりだとかするものと思っていたが、不思議とそういった気持ちは湧かないでいた。
そんな俺の霞む意識は、頭部への不意な攻撃により明瞭となった。
「……なんだよ」
重苦しい声と共に顔を上げると、
「お兄ちゃんにお客さんだよ」
「……いないって言ってくれ。今そんな気分じゃねえ」
「じゃあ自分で言ってきてよめんどくさい」
「俺が言ったら意味ねーだろ」
「あーもーいいから早く行って」
「そんな気分じゃねえって言ってんだろ! 勝手に部屋入ってくんな! 」
ああ、クソだな俺。妹に怒鳴るとか……。
こうなったらもう引っ込みは付かない。俺は布団にガバッと潜り、時が過ぎるのを待った。
だが、環は間髪入れることなく布団を引っぺがしにかかり、やがて俺の布団は一つ残らず床に落ちて行った。
この年で妹に力で負けるのも勿論情けないが、この状況は更に目も当てられないものである。俺は今まさに振りかぶっているであろう妹の手を受け入れるべく目をつぶり、覚悟を決める。
しかし、環から俺へと繰り出されたのは往復ビンタでも殴打でもなく頭を撫でる、というものだった。
「た、環?」
「お兄ちゃん。なにがあったか知らないけどさーそんなのらしくないよ。しゃきっとしなよしゃきっと! 今のままじゃ雫お姉ちゃんに愛想つかされちゃうよ」
いたずらっぽい環特有の笑顔は普段は生意気に感じてしまうが、今は一転して天使のように思えてしまう。
立ち直ったとはとても言えないが、少しばかり心が軽くなったように感じる。
「ほら、ぼーっとしてないで早く行って。ずっと待たせてるんだからっ」
「わ、わかったから押すなって」
されるがままに部屋の外へ追い出されると俺は玄関へと足を向けた。
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