W 筋の通し方
約一節ぶりに帰ってきた故郷の空は、海以外の三方を分厚い入道雲に囲われていた。
人質を保護したものの、彼らを解放しなければ、今度は〈
それがエンプレスシティだった。
目立つことを避けて、夜に入港した。セキュリティの甘い貧民街の港は灯りに乏しく、港周辺でも夜の海は、まるで魂が吸い込まれそうなほど黒々としていた。
エンプレスシティは何も変わっていなかった。
あの日からすべてが変わってしまったウォードを置いて、
そんな感慨を抱いて、ウォードは勝手知ったる貧民街の街路を歩く。富と貧に土地を隔てる壁に仕切られた空は狭く暗い。月のない晩だった。
ヒューにもクロエにも止められた。街を堂々と歩くのは危険だ。指名手配まではされていないとはいえ、警察はウォードの行方を追っているだろう。
それでも行かなければならない場所があった。これだけ暗ければ顔なんて見えないだろうという打算もあった。それでも頭に乗せたバケットハットを、手で引っぱってさらに深くかぶり、ウォードは足早に進む。
医院を一目見たいという思いには意識して
目的の住居は貧民街の中ではまだ家と呼べる形をしていた。長屋と呼べる形態だ。一つの細長い建物の中を薄いベニヤ板で仕切って、数戸が暮らしている。
その一番手前の部屋の玄関戸の隙間から、薄く頼りない明かりが一筋漏れている。
「ごめんください」
ウォードは声のボリュームを絞って、家人に
「はい」
すぐに
戸を薄く開けた男性はウォードを見て、目を見開き、息を呑んだ。
騒がれるならそれまでだと、覚悟を決めてここまで来た。
しかし、その男性は、アリスの父親は、ぐっと口を引き結び、戸を大きく開いてウォードを室内へと促した。
「どうぞ」
ウォードは目礼をして部屋に入った。
入ってすぐ目に入る位置に、貧民街で見るには上等なベッドが、部屋の面積の大部分を占めて置かれている。その上で身を起こしている女性がウォードを見て、アリスの父親と同じ反応をした。
「ご無沙汰しております。お加減はいかがですか?」
ウォードが声を掛けると、その女性は、アリスの母親は、込み上げるものを抑えるように口を押さえて、声を詰まらせた。
「っ、おかげさまで……」
「そうですか」
ウォードはそこでようやく帽子を被ったままなのに思い当たって、バケットを頭から取り去った。こもっていた熱が発散されるが、大気は蒸し暑かった。それでも、手と足の先は不思議なほど冷えていた。
「まずは謝罪をさせてください」
機械的な声にならないよう努めるのに、口から出て行く声はうわべだけをなぞるように平面的だった。声の震えを抑えようとすればするほど、のっぺりとしてしまう。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げる。そこでとうとう、込み上げてくるものを呑み下せなくなった。
顔があげられない。あげるべきでもない。
「……誰が、殺したんですか」
しばらくの沈黙の後、父親の方が尋ねてきた。
「報道は事実ではありません」
ウォードは頭を下げたまま声だけを絞り出す。
「ヒューが、ブラックパンサーがやったんじゃない。トリニティ・アイズです」
母親が泣き崩れるように悲痛な呻きを漏らした。
ウォードは唇をきつく結んでから、意を決して顔を上げる。
「何があったか、すべてご説明いたします」
それはウォードにとっても身を切るような行為だった。
ウォードが語り終えても、アリスの両親はしばらく言葉を発しなかった。
告げられた事実を噛みしめているのかもしれない。夫婦ともに唇をぎゅっと引き結び、斜め下方に視線を落としている。
冷静な人たちだった。一人娘の死を改めて認識させられているというのに、取り乱すこともない。
「それで先生は……」
父親の方がおもむろに口を開いた。
「復讐などを考えておられるのですか」
「……やれるだけのことはするつもりです」
取り繕う台詞は出てこなかった。視界の隅で母親が首を横にふっている。
「やめてください……」
「そうです。おやめください。相手はトリニティ・アイズだ」
「相手が何者かは関係なく、こちらの気が済むかどうかです」
ウォードの答えにアリスの両親はため息を落とした。
「先生。月並みな言葉になってしまうかもしれんが、あの子はそんなことを望まない」
父親は必死にウォードを説得しようとしてくれている。
「復讐なんか望んじゃいないだとか、綺麗事を言っているんじゃない。あの子はあんたが傷つくことを望んじゃいない」
いつの間にか父親の言葉からは丁寧さが消えて、より親密度が増していた。胸にぐっと刺さるものがあって、ウォードは息を止めて感情の奔流をやり過ごさねばならなかった。
この人たちは、自分の娘を守れなかった男に、情を抱いてくれている。心配して、身を案じてくれている。
「肝に命じます」
それだけしか言えなかった。〈トリニティアイズ〉への執着を捨てると明言して安心させてあげることは簡単だったが、ウォードはこういうときに器用に嘘がつける男ではなかった。
アリスの両親は落胆したのか、揃って視線を床に落とした。説得は無駄だと思われたのかもしれない。
「先生。一つたしかなことはね」
母親が沈黙の中にするりと言葉を落とした。
「あの子は、アリスは、貴方と一緒にいられて、世界で一番の幸せ者になれたってこと」
そこまで言って、母親は瞳を潤ませた。父親が言葉を引き取って続ける。
「本当にそうだ。大袈裟に言っているんじゃないですよ。本当に世界で一番の幸せ者だった。こんな家に生まれてしまったからねぇ。不幸ならいっぱい背負わせてしまったが」
「ああ。もっと長く、幸せを味わっていてほしかった」
ウォードは唇を噛んでその光景を眺めていた。いつしか目の端からしずくがこぼれて、頬に煌めく軌跡を描いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます