H 掃除はサボりたい

 がしがしとデッキブラシを動かすと、足元にたまった水がみるみるうちに黒く染まっていった。

 それで木板が綺麗になるかというと、そんなこともなく、板は黒いままだ。

 少し擦ったくらいでは、元の姿を取り戻してくれない。元の色がどんななのかも知らないが。


 ヒューは額に浮いた汗を手の甲で拭った。


 太陽は東の空で燦々と輝き、遠く周囲を囲んだ水平線には白い波が浮いては消える。

 北の空にある橙色の〈永久星エクス〉を背景に、ウミネコが旋回しながらにゃあにゃあ鳴いている。

 さあっと渡っていく風に一瞬だけ全身が冷やされた。

 ヒューは大きく息を吸った。

 擦られて水に溶けだした正体の分からない汚れの臭いが鼻腔に思い切り侵入してきて、むせそうになった。


「これさ、終わり見えないよね」


 がしがしとリズミカルにデッキブラシを操りながら、ヴィックが愚痴をこぼした。


「汚すぎてどうしようもない。なんでこうなるまで放っといたんだよ」


「あいつらが掃除しそうな人種に見えるか?」


「見えない」


 そう言って笑ったヴィックは、なんだかんだ楽しんでいるように見えた。


 海賊船の航行中、ヒューはこの汚い船を掃除することになった。

 医者であるウォードは病人やら怪我人やらの治療に当たっているというが、ヒューたちにはすることがない。

 そうしたところ、クロエが言い出した。だったら掃除をしようと。


 なんでオレが海賊船の掃除なんかしなきゃならないんだと思ったが、キャプテンのディランが、それはいいとってもいい是非とも頼むと命令してきた。

 船に乗せてもらっている以上、逃げることはできず、しかもこちらが言い出した形になったのだから、引き受けざるを得なかった。


 そうしてヒューは朝からヴィックと一緒に甲板を磨く羽目に陥っている。

 男は甲板、女は船内。そんな役割分担を決めたのは海賊たちだ。

 子供みたいに他人の言うことに従うのは癪だったが、ヴィックとエルバとクロエが張り切って作業を始めた。

 それに押される形で、渋々ヒューもデッキブラシを握っている。


「これ、ディランの頭で擦った方がよく落ちるんじゃないかな」


 忙しなく体を動かしながらヴィックがそんな軽口を叩いた。


「本人の前で言えるか?」


「言えないよ。なんかあの人怖いし」


「一応、海賊の頭だからな」


 デッキブラシの柄に顎を載せながらヒューはサボっている。

 そうして何が入っているか分からない樽の陰にイソギンチャクが生えているのを見つけてしまった。


 やってられるか、こんなこと。

 デッキブラシをその辺に立てかけて、くるりと背中を向ける。


「ヒュー、どこ行くの?サボるなよ」


「暑いし、なんか飲み物取ってくる」


 後ろから掛かった声に、足も止めずに適当な返事をする。


「おれの分も取って来てよ」


 少年の声に軽く手を挙げて答える。

 帰ってくることがあったらな。心の中だけで付け加えた。


 太陽の下から船内に入っても、期待したほど涼しくはなかった。

 むしろ風がなくて湿度が高い分、より不快かもしれない。


「だからさ、俺と一緒に遊ぼうよ。そっちの方が楽しいよ?」


 男の猫撫で声がヒューの不快感に拍車をかけた。

 廊下の突き当たりで誰かが男に言い寄られているようだ。


「ごめんなさい。掃除しなきゃならないので」


 クロエだった。


「そんな真面目なこと言わなくても。ちょっとくらい遊んだってバレないよ」


 クロエに絡んでいるのはネコのビーティの男だった。

 ネコのビーティが猫撫で声を駆使してナンパしていることにヒューは滑稽さを感じる。


「わたし、戻らないと」


「固いことは言いっこなし。ちょっとお喋りするだけでいいから」


 ネコのビーティはクロエの手首を掴んで無理やりどこかへ連れて行こうとする。


 ヒューは大股で進んでずかずかと二人の間に割って入った。


「ちょっと待った」


 ヒューはネコ男の腕、クロエの手首を掴んでいない方の腕を、爪を立てる勢いでがしっと掴んだ。

 男が目を剥いて睨みつけてくる。


「なんだ、お前」


「楽しいお喋りならオレも交ぜてくれよ」


「お前、ブラックパンサーか」


 いきなり邪魔してきた相手の正体に気付いたネコ男は、嘲るように笑ってみせた。


「お前なんてお呼びじゃないんだよ」


 しっしっと男は猫を追い払うように、口で言った。


「そりゃあ、残念だな」


 ヒューは男の腕を握る手に力を込めた。


「痛い!いた、いたたたたたい!」


 男が悲鳴をあげて身をよじる。

 ヒューは逃がすまじとさらに手に力を込める。


 ぎりぎりぎりぎり。指が毛深い腕にめり込み、爪がずぶずぶ刺さっていく。


 ネコ男はついにクロエの手首を離し、ヒューの腕をバシバシ叩いた。


「分かった!今日のところはこれで引く!だから放せ!」


「そうか」


 あっさりとヒューは男を解放した。

 男は涙目になりながら、すたこらさっさと退散していく。


「ヒュー、ありがとう」


 感謝の言葉を受けて、ヒューはクロエに目を落とした。


「クロエ。お前は美人なんだから、こんなところで一人になるな」


「水を汲みに行かなきゃならなくて」


 クロエはバケツを持っていた。

 困ったように微笑む姿が、男の敏感な部分を刺激する。


 潤んだように澄んだ瞳。薔薇の花のような唇。

 うっすらと桃色がかった頬についた黒い汚れすら、何とも言えず可愛らしい。


「汚れてるぞ」


 ヒューは指の腹でクロエの頬を拭った。

 もしもジャガーの姿だったら舐め取ることが出来たのにと、少しだけ惜しい気がした。


 クロエの頬はさらに汚れてしまった。


「悪い。もっと汚しちまった」


 ヒューは自分の手を裏返して掌を見る。指先は十か所とも満遍なく黒い。


「ううん。大丈夫。これからもっと汚れるだろうし」


 ふるふると首を横に振ったクロエは、上目遣いでおずおずとした笑みを差し出してくる。


 こういう仕草を無自覚にやるものだから、いい女というのは本当に恐ろしい。


 心の額縁に収めるように、ヒューはじっとクロエの表情を眺め続ける。


「あ、えっと。わたし、水、汲みにいかなきゃ」


「オレもついてくわ」


 暇だし。と心の中だけで付け加える。


 ヒューはクロエのバケツを持ってやるようなことはしなかった。

 レディファーストの精神は結構だが、必要以上に男が女に気を遣う必要もないだろう。

 もちろん、その逆も然りだ。

 それに、バケツはまだ空だし軽いだろう。


 もう何度か行き来しているのだろうか。

 クロエは迷うこともなく黒ずんだ廊下を進んでいった。

 海賊たちの下卑た声があちこちから聞こえてくる。

 そんな中でクロエの姿だけが清浄なものに見えてくる。


「あの、ね。ちょっと、聞いてもいいかな」


 心なしか体を斜めに傾けて、遠慮がちにクロエが口を開いた。


「何?」


「本当に、トリニティ・アイズを、その、倒すというか、その……、壊滅、させるの?」


 クロエはどう言うか迷いながらも、最終的には壊滅という表現を使った。


「そうらしいな」


 ヒューは当事者であるにも関わらず、第三者であるかのようなずるい言い方をしていた。


「……できると思う?」


「無理だろうな」


 即答した。あれだけ巨大な組織を壊滅させることなどできないだろう。


 クロエは口を閉ざして俯いてしまった。

 心中では様々な思いが飛び交っているに違いない。


 クロエがようやく声を発したのは水場についてからだ。

 汚いホースから放出される水を見つめながら、水音にかき消されそうな声量で決然とした調子でこぼした。


「みんなに死んでほしくない。怪我もしてほしくない」


「その、みんなってのには、オレも入ってるのか?

 そう言ってもらえるのは、ありがたいけどな」


 もう止められねぇよ。


 口にせずとも、届いただろう。


「怪我しないようにせいぜい気を付けるよ」


 そう付け加えると、クロエは嬉しくも楽しくもなさそうに笑った。

 今にも泣きだしそうに、口元だけを持ち上げた。


 女にそんな顔をさせる男は、駄目な男なのだろう。

 これまで女のそんな顔を幾度も見たことのあるヒューはそう思いながら笑い返した。

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