三章 海戦勃発

C 遭難生活①

 遭難生活、一日目。


 天気は晴れ。遠くの空に雲は出ているけど、日が陰ることはなかった。海鳥が何かの腸らしきものを上空で奪い合ってぎゃあぎゃあ騒いでいる。見たくもないものを見てしまったクロエは鳥の争いから積極的に目を逸らした。


 乗ってきた脱出艇の保存庫を探って、六人で約半節過ごせるだけの糧食があることを確認した。助けがくるのはいつになるか分からない。足りなくなるといけないから他の船の備蓄を見に行くべきと提案したのはウォードだった。


 探索に優れた感覚を持つビーティ二人と、行きたいと立候補したヴィックを捜索隊として派遣することになった。エルバも同行したがったのは、こんな状況になった責任を感じてのことだろう。だけどエルバ以外の全員が反対した。波に揉まれて溺れたダメージはまだ消えていないだろうから。


 そんなエルバを説き伏せて、なんとか休憩室に押し込む役目を果たしたクロエは、脱出艇の甲板を歩いていた。海鳥がやかましい空を意識的に視界から外して、甲板上の破壊の爪痕を避けながら、込み上げる不安を押し殺していた。


 わたしよりつらい思いをしている人がいるのに、弱った顔を見せるわけにはいかない。


 ウォードを捜索隊に加えないようにさりげなく誘導したのはヒューだった。


 ウォードの疲労は見るからに明らかだった。アリスを失って以来、目の下のクマが大きくなっていく。食事もあまり喉を通らないらしい。無理して食べているのが分かるだけに、見ていて痛々しいのだった。


 そんな相棒の気遣いをウォードも無駄にはしなかった。それでも眠る気はないらしい。


 ウォードは操舵室にいた。大きく破壊された室内で、なんとか形だけ残った操縦席に座っている。


 クロエが操舵室に入っても、気付いた様子はなかった。ぼんやりと操縦席に腰かけながら、指先でくるくると何かを回転させている。


「それは、アリスの?」


 後ろから声を掛けると、ウォードははっとしたように振り返った。クロエに目を留めて、次いで左指にはまった筒状の飾りに目を落とす。


「ああ、うん。そうだ。……アリスの、耳飾りだ」


 掌に耳飾りを収めて、ウォードは体のどこかが痛むみたいに顔を歪めた。ちょうどアリスの名前を口にした瞬間に、表情に陰が差した。


「見張りはわたしがしておくから、ウォードも休んだらどう?」


「いや、大丈夫」


 クロエの気遣いは即座に跳ね返された。分かってはいたが、見張りすらろくに出来ない役立たずだと思われていると思うと気が沈んだ。


 ウォードは生気のない顔に微笑を浮かべる。


「俺はそんなに酷い顔をしている?」


「うん、してる」


 クロエは正直に頷く。


「ヒューだって、ウォードを休ませようとしたんだと思う」


「ここに座ってるだけでも体は休める」


「ウォードがつらいのは体じゃないでしょう」


 図星を突いたらしく、ウォードはクロエから目を逸らした。


「……眠れないんだよ」


 ウォードは操縦席に正面を向いてしっかり座り直した。クロエの側からは背もたれに隠れて、卵色の後頭部しか見えなくなる。


「やっと眠れたと思ったら、夢をみる。暗い、本当に真っ暗な、何も見えないような暗闇にぽつりとアリスが立っている。なぜ、助けてくれなかったのか、どうして見捨てたのかと責められるんだ。いつもそこで目が覚める」


 きっとそうだろうと、クロエが考えていた通りの状況にウォードは陥っていた。


「最近は眠るのが怖い。起きていた方が楽なんだ」


 なんと声を掛けるのが正解だろう。掛ける言葉を間違えれば取り返しのつかない事態になりそうな気がする。クロエはしばらくの間、言葉を探しては逡巡して、結局おずおずと切り出した。


「……アリスは、どういう女の子だったの?」


「どういう意味だ?」


 ウォードはすぐに切り返してきた。臆する気持ちをなだめてクロエは説明を付け足す。


「そんな風に旦那さんを責めるような子だった?わたしにはそうは思えないのだけど」


 クロエがアリスと過ごした時間は、ウォードがアリスと過ごした時間とは比べ物にならないくらい短い。知ったような口をきくなと怒らせるかもしれない。


「アリスは、俺を責めてはいないと思う」


 考える間も置かずにウォードは答えた。声音にささくれだったものはなかったので、クロエはほっとした。


 死者が遺さなかった思いを生者が語るとき、それは推測にしかならないのだが、ウォードの声には確信が漲っていた。自分は妻のことを理解しているという自信の表れなのか、自分すらも欺こうとしているのかは分からない。


「だけど、俺は俺を責めている。だから、あんな夢をみる」


 自己分析はすでに済んでいるらしい。医師であれば、そういった方面にもクロエなんかより詳しいのだろう。


「ウォードは、後悔をしている?」


 相手の内面に踏み込んでいく質問を口にするのはいつだって緊張する。だけどここで背を向けるのではあまりに自分が情けない。


 ウォードは背もたれに深く体を預け、焼け焦げた跡のある天井を見上げるようにした。


「それが、していないんだ。何度あの状況に置かれても、同じ選択をしただろう。だからこそ、そんな自分が嫌になる」


 迷いはない。後悔もない。だけどウォードの中には罪悪感が渦巻いている。


 それを取り除いてあげることはクロエにはできないだろう。


「ウォードは、すごいよ」


 クロエは一歩だけ操縦席に歩み寄ってぴたりと止まった。ウォードはクロエに弱りきった顔を見られたくないのだ。だからこそこちらを向いていない。


「とってもつらい思いをしているのに、わたしたちをきちんと導いてくれた。あなたがいなかったらわたしはきっと今よりひどい状況にいたと思う。もしかしたら生きていなかったかもしれない。だから、ありがとう」


 伝えたかったことをきちんと言えて、クロエは少しだけ肩の力を抜くことができた。


 ウォードが鼻から抜けるように微かな笑い声をたてた。


「今の状況もいいとは言えないけどね」


 椅子から立ち上がって振り返ったウォードの顔にはやはり疲労が色濃く浮かんでいる。


「わたしに見張りを任せてくれる?」


 クロエがもう一度申し出ると、今度はウォードも断らなかった。


「そうだな。俺は少しだけでも休んでおこうか」


 クロエの横を通り抜けるとき、ウォードはわざわざ足を止めて、不健康な顔に笑みを浮かべた。


「ありがとう、クロエ。元気づけようとしてくれたこと、感謝するよ」


 休憩室の方へと歩み去っていくウォードを、クロエはじっと立ったまま見送った。


 感謝を伝えたら、感謝を返される。当たり前のような人間関係のやり取りがぎゅっと胸を絞った。

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