E はじめての契約

 不覚だったと、エルバは思う。


 岩の上にヴィックの姿を見て、舞い上がってしまった。助けが来たのだと分かって喜びすぎてしまった。


 ただ助けが来るのではなく、ヴィックが来てくれたことこそに意味があるのだが、エルバはそんな本心を認めていなかった。自分は助けが来たことに喜んだのだ。ヴィックが来てくれたからなんかではない。決して。


 不覚だったと、エルバは思う。


 いくら、助けが来たと分かって舞い上がってしまったとしても、あんな格好で、下着姿で、駆け出したなんて。しかもヴィックにしがみついて泣いてしまうなんて。迷子の子供みたいに、人目も憚らず。


 にやにやとした笑い顔で見てくるヒューよりも、とにかくヴィックに腹が立った。


 なんでお前、裸なの?それがしばらくぶりに再会した幼なじみに言う台詞?しかも傷だらけだし。あんなに巫術ふじゅつは使っちゃ駄目だって言ったのに。


 エルバはそうしてヴィックに腹を立てていないと、恥ずかしさでどうかなってしまいそうだった。ぶってやってからは一言も会話していないし、目も合わせていない。本当は幼なじみがどんな怪我をしているかが気になってしょうがないのだが、近くに寄れる機会は逸してしまった。


 太陽は水平線から完全に姿を現し、辺りは充分すぎるほど明るくなった。ざぶんざぶんと波が寄せては岩を叩いて返す音が繰り返し聞こえている。穏やかなその音が大変場違いに思えるほど、エルバの心には大波が立っていた。


「モンスターねぇ。モンスターが人を助けたなんて、信じられねぇな」


『偏見は駄目~。いいモンスターだっているんだから』


 ゾーイはエルバの傍らに立って〈白海豚デルビー〉に警戒の目を向けている。もしも襲いかかってこようものなら、返り討ちにしてやらんとばかりに抜け目なく身構えている。一方、そんな目を向けられた自称いいモンスターは、波に身を任せて呑気にゆらゆら揺れていた。


「人を食べたことはないの?」


 エルバの髪を梳いて編んでくれているクロエがモンスターに尋ねた。


『そりゃあ、あるよ。でも、食事は仕方ないの。君たちだってお肉やお魚食べるでしょ~。それと一緒』


「モンスターは生きるために食べるわけじゃないって、聞いたことあるけど」


『うん。食べなくてもいいけど、人っておいしいでしょ~?』


 全生き物共通の認識とでもいうようにイルカのモンスターは同意を求める。クロエの顔が引きつった。ゾーイが露骨に顔をしかめた。


「人なんて食ったことねぇよ」


「わたしたちを襲って食べようとは思わないの?」


 クロエは視線を落とすこともなくエルバの髪を編んでいく。随分手慣れているようだ。


『君たちを食べちゃったら、また一人ぼっち、話す相手がいなくなるじゃないか~』


 食欲より話し相手。人も色々なら、モンスターも色々。


「お前、そんな変わりもんだから群れに置いていかれたんじゃないのか?」


『違うもん。ママは探してくれてるもん』


 ゾーイの遠慮のない物言いにイルカの怪物は少し怒ったようだ。ぱしゃぱしゃと海面を叩いていたが、すぐにしゅんとしてしまう。


『でも、海って広いから、群れからはぐれちゃったら再会するのは難しいんだ~』


「じゃあ、また一人ぼっちだな」


『しょぼーん』


 落ち込んだように俯いてみせるイルカは、凶悪なモンスターには見えなくてちょっぴりおかしかった。


「ち……!ち……うよ!ちが……て!」


 あちら側の岩の手前でヴィックが大きな声を出している。エルバはここに来て初めて、ヴィックをまじまじと見ることができた。だが、ヴィックはこちらを見ようともしない。意図的に視線を外しているようだ。


 エルバは少しむっとした。


『あの人が、エルバのいい人なの?』


「…………」


「おい、エルバ。イルカちゃんが聞いてるぞ」


「へっ?はっ?な、何?」


 先ほどからヴィックのことばかり考えていたエルバは、頭の中に響いた声の内容を掴んでいなかった。


『ふふ。いい。僕、もう、察しちゃったもんね~』


「お前、勘がいいなぁ。モンスターにしとくにはもったいないくらいだ」


『僕は情緒が分かるモンスターなので~す』


 イルカとゾーイの会話の意味がエルバには分からない。クロエが微笑んでいるので、悪いことではないのだろう。そう考えて、深くは探らないことにした。


「そろそろ行こう。ヴィックも随分回復したようだ」


 サラサラの砂に足跡を残しながらウォードが近づいてきた。


 エルバの髪も準部万端、編み終わった頃合いだった。エルバはクロエにお礼を言って立ち上がり、尻についた砂を払う。


『え~、行っちゃうの~?』


 頭の中の声が残念そうに響いた。エルバは一つ頷く。


「もう帰らないと。助けなきゃいけない子がいるの」


 ジェマ・アルビオル。少女を救うのだとエルバは徹頭徹尾決めていた。


「エルバ、まだあの子のこと助けるつもりなのか?」


 尋ねてきたゾーイに向かって、エルバはまた一つ頷いた。


「うん。だって、海賊に襲われたんだよね。攫われちゃったかもしれない。きっと怖がってる。助けなきゃ」


 ゾーイはやれやれといった調子でため息をついてから、にやりと笑った。


「ま、それでこそエルバか」


『ねぇねぇ、海賊と戦うの~?』


 イルカが口を挟んでくる。


「そういうことになるかも」


 エルバが答えると、イルカはヒレで海面をぱしゃぱしゃ叩いた。


『僕も海賊は嫌い~。あいつらモンスター狩りするんだもん。だからエルバたちと一緒に戦うの~』


 エルバはイルカの申し出に驚いたが、願ってもないことではないかと考え直した。海賊と争うにあたって、海を自在に泳ぎ回れる味方の存在は貴重だ。


「それは助かるかも」


「それならちゃんと契約した方がいい」


 ウォードが冷静に口を出してきた。


「相手はモンスターだぞ。いつこちらが襲われるか分かったものじゃない」


「それもそうだよな」


 ウォードの意見にゾーイが賛同する。エルバはと眉を寄せた。


「この子は襲ってきたりしない」


「そうとは言い切れないだろうが」


 いつの間にかヴィックとヒューもこちらに寄って来ていた。ヒューはイルカへ冷めた視線を落としている。


「こいつはモンスターなんだから」


 クロエは何も言わないが、ウォードたちと同意見なのだろう。今にも怒ったイルカが襲ってこないかと心配している様子だ。


 残るヴィックはエルバをじっと見つめている。何も言いださない以上、味方する気もないようだが敵に回るつもりもないらしい。


 エルバは孤軍奮闘だ。


 いいじゃない。やってやろうじゃない。少数派だろうと、大人相手だろうと、引く気はなかった。


 だが不穏な空気を破ったのは、能天気に間延びした子供じみた声だった。


『いいよ~。契約しよ』


「えっ?」


 エルバは耳を疑った。契約は人側から見ればうまみが多いが、怪物モンスター側から見るとそうはいかない。


「契約って、分かってるの? 契約したら、もう自分の意思でこの世に存在することができなくなるんだよ」


『知ってるよ~。そのあたりのことは。この世に生み出されたときから知ってる、いや、分かってるって言った方がいいかな~』

 

 イルカはちゃぷちゃぷ波に身を任せ、体を上下させている。


『でも僕、この中だったら、エルバとしか契約しないからね~。エルバがいいんだも~ん』


 あまりに呑気に喋るイルカに、エルバは確認せずにはいられなかった。


「……もう、自由にママに会うこともできなくなるんだよ」


『それはちょっと残念だけど~。絶対会えないってわけじゃないし~。その代わり、ずっとエルバの傍にいられるじゃな~い』


 思わず涙腺が緩みそうになって、エルバはぐっと口をつぐんだ。


「おい、モンスターの方から契約しようなんて言ってくることあるのか?」


「いや、聞いたことはないが……」


 ヒューとウォードがひそひそ話している。


 エルバは一歩、前に出た。


「うん、契約する」


 決断を声にして、二歩、三歩と歩を進めていく。〈白海豚デルビー〉自身が契約したいと言っているのだ。ためらう理由はない。足が波打ち際に至ったとき、後ろから声がした。


「罠かもしれない。警戒を怠るな」


『うーん。僕、信用ないな~』


 ウォードはきっと後ろで銃を構えているに違いない。エルバが襲われそうになったら、イルカの急所を撃ち抜けるように。ゾーイもヒューも身構えているに違いない。エルバが攻撃を受けたら、いつでも対処できるように。


 エルバは〈白海豚デルビー〉と相対した。イルカの大きな黒い瞳にエルバの全身が映っている。互いの心を確認するようにしばし見つめ合う。


 エルバの中に、このおしゃべり好きな怪物を疑う要素は一つもなかった。


 契約には、ちょっぴりおぞましい儀式がいる。


『う~、そんなに見られてると緊張しちゃうなぁ』


 イルカはもぞもぞ体を動かし身震いをすると、口をぱかっと開いた。中にはサックスブルーの輝きを宿した丸い何かがある。ピンク色の舌がべぇっと突き出され、その何かがエルバの前に差し出された。


 この〈白海豚デルビー〉のコア。言うなれば、命の塊だ。


 エルバはその輝きを両手でそっと掬い上げるようにした。手ごたえはなく、温度もない。ゆっくりと胸の前まで掲げ上げる。


 シロイルカは穏やかにエルバを見つめている。


 エルバは一つ頷いてから、感触のない輝きをさらに上へと持ち上げた。口元まで持っていって、一息に口づける。


 口内にどろっとしたものが流れこんでくる。不味まずくはない。美味でもない。ほのかな甘みの中に潮の香りを感じた気がして、どこか懐かしいような気がした。


 不思議な味の余韻に浸りながら、エルバは視線を〈白海豚デルビー〉に落とした。イルカの体の線は頼りなくぼやけてきている。コアを失ったため、消えつつあるのだ。


「あなたの名前はミスト。実は契約の話が出る前から考えてたんだ」


『そうなの?』


 幼い声は頭の中で反響するように聞こえてきた。


 契約の儀式で為すことは大きく分けて二つだ。


 一つは契約する怪物の核に口づけてすべて飲みくだすこと。


 もう一つは契約する怪物に名をつけてその名を告げること。


 エルバはしゃがみこみ、境界がぼやけていくイルカの顔を掌でそっと挟んだ。


「あなたの名前はミスト。昔観た映画の主人公の名前。向日葵が大好きな女の子。あなたみたいに明るくて楽しくておしゃべりが好きなの。思い出したら、これしか考えられなくなった」


『ミスト。ミストか~。ミスト。うん、ふふふ。名前ってもらうと楽しいね~』


 表情のないはずのイルカが、まるで笑っているように見えるから不思議だ。


『僕はミスト。僕を呼びたいときは、ちょっと痛いかもしれないけど、血を流して僕の名前を呼んで~。いつでもすぐに出て行くからね~』


 ミストの姿が水に滲む絵の具のように、薄くなって掠れていく。


『いつでも、エルバの傍にいるからね』


 流れて消えていく。ミストはエルバの一部になって、エルバの中にいる。それなのに、消えてしまうと寂しく感じた。 


 エルバはそのまま海の中に立って、イルカの消えた海面を見つめていた。神獣を得た、そういった感慨は込み上げてこなかった。一生のうちで契約できる神獣は一体だけ。一度きりの決断を終えた割にはあっさりとした心持ちだ。だけど自分の中にミストがいるという感覚は、たしかに意識の中にある。


「格好いいなー」


 海の中に佇むエルバに背中側から声が掛かった。ヴィックの声だった。


「すごいな、エルバ。神獣と契約しちゃったんだ。おれも神獣欲しいなぁ」


 少し前にあった確執なんてまるで元からなかったかのように。


 エルバは振り返った。ヴィックは歯を見せて笑っている。そうだった、こいつはこういうやつだった。だからこそ、私は――


「あ、ありがと」


 波打ち際へと戻ったエルバは勇気を出して、しっかりヴィックと目を合わせることができた。


「それと、ごめんなさい。さっきは、助けに来てくれたのに、殴っちゃって」


 ヴィックは一瞬、きょとんとした顔をしたが、するっと笑顔に戻った。


「ああ、あれ?別にもう痛くないし。骨の欠片が刺さったところの方が痛いからな」


「もう、だからあんたは」


 エルバはさっそくいつものお小言スタイルに戻って腰に手を当てた。


巫術ふじゅつは使っちゃ駄目っていっつも言ってるでしょ。あんな自滅巫術」


「自滅ぅ?ひっでぇなぁ。あれのおかげでさっきは勝てたんだぞ」


 ヴィックはさっそく、自分がいかに華麗に活躍して巨大骸骨を葬ったかを語り始めた。


 エルバは聞きたくないという態度をとりつつも、しっかりと耳を傾けていた。

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