E 怪物の善意①

「エルバ!」


 名前を呼ばれたから振り向いた。聞き慣れないアルトの声質は、実は幼い頃から知っている相手のものだった。


 ゾーイはどうして私たちに正体を隠してたのかな。


 聞いたら答えてくれそうで、だからこそ安易に聞けなくて。きっと大変な事情があるんだろう。ゾーイが話したいと思ったときに聞きたい。それまでは聞けない。


 手を差し出されたから、手を伸ばした。指先と指先が少しだけ触れて、離れた。長いおさげがあおられて、ぺちりと手の甲をはたく。


「エルバぁぁぁー!」


 ああ、私、落ちてる。


 ゾーイの鬼気迫る表情でそんなことに気付いた。


 ゾーイの顔がどんどん遠くなっていく。伸ばした手がそのままの形で固まっている。


 背中から冷たいものに包み込まれた。

 鼻から口から耳から、冷たいものが侵入してくる。

 息ができない。

 どんどんどんどん落ちていく。

 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!

 上に上がらないと。海面に出ないと。このままじゃ死んじゃう!


 生きるためにエルバは必死に水を掻いた。それをあざ笑うかのように体はどんどん落ちていく。口からこぼれた呼気は泡となって顔を伝い、容易に上へとのぼるのに。


 苦しい。

 暗い世界。

 どっちが上でどっちが下か分からなくなる。

 体が動かなくなってきた。

 私、本当に死んじゃうんだ。

 

 絶望に呑まれかけたとき、何かが体に触れた。エルバは残った力を振り絞り、懸命にしがみつく。


 水の動きに逆らって、何かはエルバを導こうとしているようだった。


「ぷっ、げほっ、げほっ、う、はぁー、ごほっ」


 海面から顔が出て、エルバは最初に思い切り水を吐きだした。


 噴出は止まらない。咳き込むたびに鼻から口から水が出る。一秒でも早く酸素を取り込みたいのに排出が止まらない。おおよそ、可憐な少女とは思えない様相で、猛烈な有様で、これでもかと水を吐きだした。


 塩味が舌に沁みて、頭の下の方がずきりと痛い。鼻からこぼれる水が鼻血を出したときのように生ぬるく感じられる。びしょ濡れの顔に波と雨がさらに水を叩きつけた。


『大丈夫~?』


「え?」


 頭の中で声がした。


『大丈夫かって聞いてるの~。君、排水ポンプみたいだね。そんなに水を吐き出してさ』


 なんだか嬉しくないことを言われた気がする。


 状況を把握するため、エルバは閉じていた目を意思の力でこじ開けた。目の中に水が入ってぼやけた視界が広がる。ぱちぱち瞬きを繰り返しても、なかなかきっちりとした像を結ばない。何より、人の目で見るには辺りが暗すぎる。


『排水ポンプ知ってる?昔、ママに連れて行ってもらったんだ。人間が作った排水ポンプ。人間界では廃水とかいうやつ?それを海に流しててね~。ママはすっごく怒ってたけど僕にはよくわかんな~い。だって廃水っていってもね、見た目はただの水なんだよ~』


 耳に水が入ってごろごろいっている。それなのにこの声はくぐもって聞こえない。はっきりと頭の中で聞こえてくる。


 まさか、幻聴?自らの感覚を疑って、エルバはぞっとした。


『あ、ママっていうのはね、君たちがいうママじゃないんだよ。僕らのグループの中のママみたいな存在ってこと。僕にはママはいないからね~。だってモンスターだから~』


「え?」


 モンスター?モンスターって言った?


『あのね~、君ね~。さっきから僕に爪を立ててるんだよね~。警戒した猫でもあるまいし、爪立てないでくれる~?地味に痛いんだから~。あ、そうそう猫といえば――』


 エルバは自らの手元に目を凝らした。暗い海の色とは違う何かがある気がする。白くて、少しだけ明るい?試しに撫でてみたら、すべすべしていた。


『――やっぱり白いやつが一番品が――、えっ、なんだよ~。急に撫でたりして。くすぐったーい』

 

 これだ。これが喋ってる。しかも私の頭の中で。


『撫でられるなら頭がいいな~。ついでによしよしって言って~。僕、褒められるようなことしたよね。君を救ったの、僕~。あはは』


 エルバは必死に酸素の足らない頭で手掛かりをもとに考えを巡らせた。頭の中で喋る。モンスター。すべすべ。答えはまさに二つ目。


「ええぇっ!まさか、モンスター!?」


 大袈裟にのけぞったエルバはまた海中に落ちてもがくことになった。

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