Z 恐れていたこと
廊下に掛かった色時計はウィスタリア。夜は刻々と更けていく。
結局、大した調査はできなかった。
乗客はすでに各自の部屋でくつろいでおり、さりげなさを装った聞き込みはできそうもない。船員は〈
というわけで、調査というよりは隠密の船内探検といった具合になった。
ゾーイたちは甲板を目指していた。ほかに回れるところはもう見てきた。残るは頂上、甲板だ。船員の目が一番光っていそうな場所ではあるが、どんな造りかだけでも知っておきたい。
甲板へ繋がる階段は船のちょうど中央あたりにあった。
横幅が広くとられており、三人並んで通れるほどだ。金属製で、上り下りの際の音を軽減するためか黒い布が敷かれている。頂点には丸い覗き穴のついた扉があって、透明な丸いガラスの向こうは暗かった。
しかしそういった外見的な様子より、ゾーイの注意を引くものがあった。
「叫び声……?悲鳴か?」
「そうみたいだな」
ゾーイの呟きにヒューが答えた。エルバが不思議そうな顔でビーティ二人を振り返る。
ずぅぅぅん。訝しむゾーイの耳に、身を震わせるほどの巨大な音が轟いた。体積のあるもの同士がかち合ったような音。続く激しい揺れ。明らかな異常事態。
「なに、なに?」
あまりの揺れに耐えきれず、しゃがんだエルバが辺りを見回す。
「あー、こりゃあ、ちょっとまずいかもな」
ヒューが低い姿勢で駆け出した。甲板に繋がる階段を足取り軽く上っていく。
「エルバ、立てるか?」
ゾーイは治まりつつある揺れの中でエルバに手を貸した。ヒューが出て行った扉から、悲鳴がさらに大きく聞こえてくる。ゾーイは立ち上がったエルバと共にヒューを追った。
雨が降っていた。夜も更けた屋外は暗かった。左舷側前方の照明が落ちている。そちらの方から怒声が聞こえてくる。
「何が、起こってるの?」
用途不明な機材の陰から様子を窺うヒューに近づいていって、エルバが尋ねた。
「海賊だ」
「か、海賊ぅ?」
「あんまりおっきい声出すなよ」
ゾーイもヒューの隣に立って、薄暗がりに目を凝らしながら耳を澄ました。
雨音。怒声。罵声。悲鳴。ぶつかり合う金属音。飛沫の音。呻き声。祈りの声。
「どうやら、形勢は悪そうだな」
冷静に見立てたゾーイの視界の隅で、ヒューが頷く。
「ああ。こんな貧乏臭い船、海賊は普通、襲わないからな。対抗できるだけの戦力が揃ってないんだろ」
「じゃあ、助けなきゃ!」
「エルバ、待て!」
物陰を飛び出していったエルバはゾーイの意に反して止まってくれない。
ゾーイはエルバを追うしかなかった。
人型の体は思うように動いてくれなかった。エルバに追いつけない。狼より幾分か遅い足に苛立った。だが、今ここで転身したとしても服が全身に絡まって余計動きにくくなるだけだ。ゾーイは手足をばたつかせるようにして必死に走る。
エルバが
エルバの突きを太腿に受けた男は、自分を傷つけた少女を認めると、大きな楓の葉のような手を広げて、エルバの槍の柄を掴んだ。男は柄を掴んだまま腕を大きく横に振った。槍を握ったエルバはそのまま舷側に振られる格好になる。
「エルバ!」
ゾーイは懸命に手を伸ばした。宙を横切るエルバの姿がやけにくっきりと見えた。
船べりの手すりを越えて、落ちていく体。
伸ばした手と手が、ゾーイとエルバの指先が、わずかに触れて、離れた。
「エルバぁぁぁー!」
ゾーイには常々恐れていたことがある。いつかエルバの強すぎる正義感が、
本人の身を滅ぼすことになりはしないかと――
驚きに大きく開いた瞳が、恐怖に歪んだ口元が、はっきりとゾーイの網膜に像を結んだ。闇に呑まれて落ちて微かになって消えていく。
「馬鹿!お前まで落ちる気か!?」
気付くと、ヒューがゾーイを羽交い絞めにして、船の手すりに押し付けていた。ゾーイが視線を滑らせると、巨漢の敵は首から血を流してすでに絶命している。ゾーイの頭にいっきに血が昇った。
「お前がもっと早くっ、こいつを殺していたら!」
ゾーイはヒューの襟元を掴んで怒鳴った。ヒューの顔は返り血でも浴びたのか、黒く汚れている。
「もっと早く、お前が来てたら!アタシじゃなくて、お前がっ!なんでだ、どうして、エルバは――」
「落ち着け」
ヒューの掌が両側からゾーイの頬をばちんと挟んだ。
「落ち着け。落ち着いて考えろ」
鼻と鼻が触れ合いそうなほど近い距離で、ゾーイの瞳をセピア色の瞳が覗いている。
咳払いが聞こえた。そちらに目をやると、ヴィック、ウォード、クロエが揃って立っていた。
「何があった?」
「見ての通り。海賊だよ」
ウォードの問いに、ヒューはゾーイから顔を離して答えた。
「あれ、エルバは?一緒じゃなかったのか?」
ヴィックの当然の問いが、ゾーイの胸に刻まれた無力感を深くする。
「エルバは……」
声が震えるのをゾーイは自覚した。それでも自分が答えなければならないと思った。
「落ちた」
ゾーイは視線を海へと投げる。ヴィックは息を呑んで、すぐさま手すりに駆け寄っていった。大きく身を乗り出して海を覗きこんだヴィックの腕を、ウォードが強く引く。
「危ない。君まで落ちる気か!」
「でも、エルバを助けに行かないと」
手すりを乗り越えていきそうなヴィックを、ウォードが強く留める。
「それで君が飛び込んでどうなる?……エルバはもう助からない」
ゾーイの胸が、のみで削られたように痛んだ。
「この辺りは潮の流れが速いんだ。身一つで呑み込まれればひとたまりもない」
ヴィックが振り返る。ウォードは続ける。
「この海域では、船ですら遭難することがある。そんなところに投げ出されたんだ。……残念だ。エルバはもう死んでる」
「死んでないよ」
ヴィックはなんでもないことを語るように、焦りも怒りも戸惑いも感じられない平然とした調子で言った。
「エルバは死んでないよ。おれには分かるんだ」
「受け入れられないのは分かるが……」
「違うよ、そんなんじゃない」
まるで既成事実を語るように。
「おれはさ、前にエルバに言ったことがあるんだ。もしおれが死んだら、最初にお前の所に出てやるからなって。だから、エルバもそうだと思う。もしあいつが死んだなら、すぐにおれの所に来るはずなんだ。でも、エルバはまだおれの所に来てない。だから、まだ生きてるってことだろ?」
強がるふうでもなく。
「そんなの、論理的じゃない」
「論理的……?おれ、馬鹿だから論理とか分かんないや。とにかくエルバを助けに行かないと」
ヴィックは本気で思っている。幼なじみは生きていると。流れの速い海に闇に落ちて呑み込まれても生きていると本気で思っている。気の毒な者を見るような目を向けられても、物分かりの悪い子供のように扱われても、それでも。
アタシが信じてやらなくて、味方してやらなくて、どうするんだ。
「脱出艇だ」
全員の視線がゾーイに集まる。
「この船には脱出艇があったよな。あれを使ってエルバを助けに行こう」
ゾーイは言い終わる前に駆け出していた。
「ゾーイ、場所分かるのか?」
「お前、ちゃんと船内案内図見なかったのか?先生に暗記しろって言われただろ」
後ろからの聞き慣れた声に答える。足取りは嘘のように軽い。
「待て!」
さらに後方から叫ぶ声が聞こえる。
「死にに行くつもりか?死別は誰にでも訪れるものだ!それが唐突なことだって世の中にはいくらでも――」
すぐに聞こえなくなった。
脱出艇は想像していたよりも立派だった。
白いクジラを思わせる船体はアーティスティックで美しいのだろう。でもそれ以上の感想を持つ余裕はなかった。一刻も早く海原に出たい。
しかし、動かし方が分からなかった。
「そのレバーじゃないか?引っぱってみろ」
「さっきやったよ。うーん、こっちのボタン……いや、このつまみかな?あっ」
ライトがついた。
「参ったねぇ。こんなことになるなんて」
ゾーイは頭を抱えて呻いた。天を仰いで息を吐き出し、その体勢のまま振り返らずに声を出す。
「で?また説得でもしに来たのか?」
「そんな無駄なことに使う時間はないだろ。こんなことだろうと思った。どいてくれ」
「あれ、ウォード!」
ヴィックが操縦席から腰を浮かして、医者に場所を譲った。
「昔、クルーザーを所有していたことがある。うん、これならなんとかなるだろう」
まさかのお坊ちゃん発言だ。普段であれば気に障るところだが、今はありがたい。
「ヒューにクロエまで!みんな手伝ってくれるのか?」
「この船に残っても海賊に捕まるだけだしな」
「エルバのこと放っとけないし」
仲間が増えてヴィックは嬉しそうだ。操舵室の真ん中で無意味に拳を突き上げている。
「エルバ救助隊、出発だな!」
ちょうどエンジンが始動して、船全体が小刻みに揺れ始めた。まるでヴィックの気合に呼応したかのようだ。
「この辺りは魔の海域と呼ばれている。流れが速く、熟達した船乗りが操縦する大きな船であっても遭難することがある」
レバーを操作しながらウォードは語る。
「だから流れに逆らわず流されるままに進めば、エルバのいる場所に辿り着けるかもしれない」
「その場所って?」
操縦席の後ろからひょっこり顔を覗かせてヴィックが尋ねた。
「船の墓場だよ」
クジラのような脱出艇が前進し、雨の中を波を切って進み始めた。
上等じゃないか。墓場への旅路だ。
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