Z 狼女、エロ猫を成敗する

「寝るぅ~~?」


 ゾーイの頭の中で、エルバのビブラートじみた声が頭蓋骨をノックする勢いで反響した。


「本気で言ってるの?まだ夜も早いでしょ。調査、始めようよ」


 色時計はパープル。まだ宵の口だ。

 それでも卵色の髪をした医者は首を縦に振らなかった。


「今日の分の調査はこれで充分だ」


 ウォードはベッドの上に広げられた〈ゴッデス号の歩き方〉という名の旅のしおりを指で突いた。

 この医者が食事に行った際に抜かりなく持ち帰ったもので、船内案内図は探し物をするのに役立つだろう。


 一つのベッドを囲んで、ジェマ捜索隊の六人全員が狭い部屋に集まっている。


 ゾーイはベッドの上に寝そべった姿勢で、舌をぺろりと一周させて口の周りを舐めとった。

 先ほど食べたチキンカツサンドに入っていたタルタルソースの風味がした。

 そう、タルタルソースだったのだ、チキンカツサンドに。

 そこはマヨネーズだろうが!


 大体、タルタルソースというのはけしからん。

 なんでマヨネーズに要らぬものを入れるのか。

 エルバはタルタルソースを好むようだが、ゾーイにはまったく理解できない。

 一時期エルバがライスにタルタルソースをかけて丼にして食うのにはまっていたのだが、ゾーイはそれを見て吐き気をこらえるのに必死だった。


 ヴィックも同じく思っていたようだが、「そんなの人間の食べるものじゃない、犬の食いものだ」との発言は聞き捨てならなかった。

 犬だって御免だ、絶対食わねぇよ。

 当時、ゾーイは反論のために、二人の前に人型を晒すかどうか本気で悩んだ。


 結局、ビーティであることを明かすことはなかったが、たしかに今が頃合いなのかもしれない。


 クソエロ猫野郎の助言に従う形になることは、不服も不服、業腹で大変癪に障るが。


「みんな、これを今日中に頭に入れておいてくれ。

 エリアごとに分担して調査しよう」


「え、この案内図を?」


 簡単そうに言ったウォードにヴィックが目を剥いた。


「いや、このしおりの全部を。

 規則やタイムテーブルなんかも頭に入れておいた方がいいだろう」


「えぇー……」


 インテリは自分の能力を基準にものを考えるから嫌だよな。


 ずしりと石が詰まったような頭を持ち上げる気力もないまま、ゾーイは前脚に顎を乗せた体勢で旅のしおりに視線を落とした。

 こんなナリでも字は読める。


 楽しい船旅を貴方に。

 緊急時ももちろん安心。脱出艇完備。

※ビーティのお客様は人型での乗船をお願いいたします。


「だから、そんなまだるっこしいことしなくても、今から調査すればいいでしょ」


 ベッドの傍らに立ったエルバが、両手を腰に当てて意見する。

 誰かを従わせようとするときのエルバの癖だ。

 しかしそんなことで、先生なんて呼ばれる職業につく大の男が威圧されるはずもなかった。


「今日はもう休もう。みんな疲れてるだろう」


「別に疲れてないし」


「おれ、もう眠たい」


 エルバは同時に喋った裏切り者の幼なじみをぎろりと睨んだ。


「寝てる場合じゃないでしょ。ジェマちゃんを助けなきゃ」


 エルバの中では、あの爬虫類系少女はジェマ・アルビオルで確定らしい。


 確たる証はないものの、ゾーイもそうだろうと思う。

 追いかけた際の残り香が亀のものだったから。

 乾いた亀の甲羅の匂い。太陽の香り。


「疲れた頭で考えや行動を起こしても、いい成果は出ないものだ」


 医者の正論。エルバは旗色が悪い。

 味方のはずのヴィックは完全にウォード派。

 エロ猫ヒューと自己主張をしないクロエに至っては元からウォード派だ。


 口をへの字にしている少女に狼が味方するにはどうしたらいいか。


 意見を述べる口が要る。


「空き部屋はたくさんあるようだから、他の部屋も使わせてもらおう。

 部屋割りはバイキングに行ったときと同じ組み合わせで。

 それが一番怪しまれない」


 有無を言わせぬ語調。人を従わせることに慣れた者の声遣い。


 気に入らないな。


「うぉふっ」


 ゾーイは一声発し、部屋中の注目を自分に集めさせた。


 あのジャガーに従うわけじゃない。あくまでエルバに加勢するため。


 重い頭を意志の力を使って持ち上げ、満を持して転身する。


 あえてベッドに寝そべったまま。

 短くなっていく鼻面を感じる。

 前肢が腕に変わって指が伸びる。

 長くなっていく足を折りたたんでも、ベッドから爪先がはみ出した。

 人間の体は縦に長い。


 頭の中に立ち込めていた霧がさぁっと晴れていく感覚。

 呼吸がすぅっと楽になる。


 後ろの方からヒューがひゅーっと口笛を吹いたのは無視だ。駄洒落かよ。


「まだアタシの意見を聞いてないだろ、ドクター?」


 驚愕に染まった二対の目が四人分刺さる。


 ヴィックがぽかんと口を開けている。

 エルバは今度ばかりはヴィックの視界を封じることを忘れている。

 クロエは両手を口に当てて、いかにもお上品に驚いている。

 ウォードは大袈裟に身を引いて、ベッドのフレームに腕をぶつけた。


「おいおい、大丈夫か、先生」


 気遣いの言葉を掛けてやると、ゾーイを凝視していたウォードは慌てた様子でパッと視線を逸らした。


 そうか、アタシ、今、裸なのか。


 いつも冷静に振る舞っている奴が動揺する様は面白いよな。


「アタシはエルバに賛成だな。

 助け出すまではせずとも、亀ちゃんがどこにいるかくらいは早めに知っといて損はないだろ」

 

 しーん。沈黙。


「おい、なんとか言えよ」


 くっくっくっと、忍び笑いの音がする。ヒューだろう。こいつは無視だ。


「ゾーイ!」


 ヴィックがぽかんと開けていた口を閉じてゾーイに詰め寄ってきた。


「ゾーイ、ゾーイはどこだよ?いつの間に入れ替わったんだ?ゾーイを返せよ!」


 ああ、そういう理解なのか。やっぱり愛しいお馬鹿だなぁ。

 ゾーイは目を細める。


「アタシがゾーイだよ。よく見てみろ、この耳の形。

 可愛いペットの狼は実はビーティでしたって種明かしだ」


「違う。ゾーイは狼だ」


 やれやれ、まったく。


「三歳のとき、アタシの餌皿からフライドチキンをくすねて食った。

 五歳のとき、木登り競争でアタシに負けて拗ねて帰って、玄関の鍵を閉めてアタシを家に入れないようにした」


 話していたら、思い出してむかっ腹が立ってきた。


「九歳のとき、おねしょをごまかすためにわざと布団にオレンジジュースをこぼした。

 そしてそれをアタシのせいにした」


「わ、わ、やめろ。なんでそれを……。分かった!もしかしてゾーイなのか?」


「さっきからそう言ってるだろうが」


 ゾーイはベッドの上に膝立ちになってヴィックをきゅっと抱きしめた。


「愛しい飼い主。今まで何度、この姿でお前たちに会いたかったか」


 誓いは自分自身にかけた呪いだった。

 過去の家族のためと、ゾーイが勝手に定めた戒め。

 恐れへの言い訳。今、それを破ったことに不思議と罪悪感も恐怖心もなかった。

 現在の家族を愛し、信頼し、溶け合っている証拠だ。


「や、やめろよ、ゾーイ。放せって」


 ヴィックが暴れるので、ゾーイはさらにきつくヴィックを抱擁した。


「本当にいたずら小僧だったよな、お前は。

 カメムシに触った手をわざとアタシに嗅がせたり、捕まえたクワガタを寝てるアタシの耳に入れようとしたりな」


「い、痛い、ゾーイ!力、強いって!」


「ゾーイ」


 横合いから呼ばれて、ゾーイはもう一人の愛しい飼い主を正面に捉えた。

 エルバは真剣な顔をして、ゾーイの目を覗き込んでくる。

 エルバのチョコレートブラウンの瞳に、ゾーイの姿が丸くなって映っている。


 確信を得たのか、エルバがぽつりと呟く。


「ゾーイだ」


「ああ、ゾーイだよ、エルバ」


 ゾーイはエルバに向かって手を伸ばした。

 その隙にヴィックが腕の中から抜け出てしまったのは残念だった。


「全然気付かなかった」


「ああ、隠してたからな」


「ずっと一緒にいたのに」


「ああ、ごめんな、秘密にしてて」


 エルバは素直にゾーイの抱擁を受けてくれた。

 こういうところ、女の子は可愛い。


「ゾーイ、助けてくれたんだね。

 ロンボの町で港にいたビーティはゾーイでしょ。

 ううん、あれだけじゃない。

 今までずっとゾーイは色んな形で私たちを助けてくれてた」


「ああ、当然さ。家族だからな」


 ゾーイはエルバの背中をすりすりと撫でる。なんて可愛い子だ。


「だけどね、ゾーイ」


 エルバはゾーイの肩をがしっと掴むと、まっすぐ真剣な、言い換えれば怖い顔をしてゾーイを捕らえた。


「ちゃんと服は着なさい」


 こんなときでも真面目な少女だ。

 ゾーイがぷっと吹き出すと同時に、後ろの方からも吹き出す音が聞こえた。


 感動の家族愛の場面を汚された気分になった。

 ゾーイはがらりと形相を変え、くるりと振り返って声を低めた。


「なんだ、てめぇ」


「オレのことは気にすんな。どうぞ、続けてくれ」


 ヒューはそう言いながらにやにやした顔でゾーイの体をなめるように観察している。


 ゾーイの全身を怒りが駆け巡った。


「じろじろ見んな、気持ち悪い」


 ゾーイは立ち上がって、ヒューの目の前まで歩んでいった。

 それでもヒューはゾーイの目を見ることもなく、体に視線を落としている。


「いや、いい体だなと思って」


 ゾーイは前置きも躊躇いもなくヒューの股間をがっと掴んだ。


「こいつをねじ切られたいか?ああ?」


 声にならない苦悶がヒューの口から漏れる。

 それでもゾーイは握る力を弱めなかった。

 本当にねじ切ってやってもいい。ぎりぎりと締め付け続ける。

 カーゴパンツ越しに伝わってくる、こりこりとした感触がまた気持ち悪くて腹が立って手に力がこもる。


「悪かった。もうやめてやってくれ」


 ゾーイの肩に何かがぱさりと落ちてきた。薄青色のシャツだった。

 ウォードが自分の着ていたシャツをゾーイに着せかけたらしい。


「頼む。やめてやってくれ。俺からきつく言っておくから」


 医師の懇願にゾーイはとりあえず手を引いた。

 目の前でヒューが崩れるようにうずくまり、呻きを吐き出しながら股間を労わるように手を当てている。


「思い知ったか、このクソエロ猫が」


 勝利の遠吠えを敗者に落とす。

 この光景を見れただけでも、今は良しとしておこう。


 達成感に満ちた心持ちでゾーイが振り返ると、ベッドの上に座るヴィックが内股気味になって、手で股間を隠すようにして、痛みを堪えるように顔を歪めていた。


 ゾーイにはこの苦痛が如何ほどのものか、想像することもできなかった。

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