H 放送コードアウト

 廊下より少し明るい色合いのフローリングに、白いテーブルと椅子が据え付けられている。

 半円形をした壁は全面ガラス張りで甲板と空の様子が覗けた。

 海鳥の落とし物がそのガラスにべったりと張り付いているのが、せっかくの雰囲気を台無しにしている。


 こういったところに、この遊覧船が流行っていない理由があるのだろう。


 ヒューは大きく口を開けてハンバーガーにかぶりついた。

 トマトが反対側から飛び出し、テーブルの上にべしゃっと落ちる。

 それをつまんで口に放り込み、バーガーと一緒に咀嚼した。

 このソースに合わせるならトマトじゃなくてレタスだろ。

 そんな批評を心中で下し、目だけでホールの中を見渡した。


 ヒューたち以外、乗客の姿はなかった。

 バイキング形式の完全セルフサービスには人件費削減のためか、スタッフの姿も見当たらない。


 穏やかに談笑する声が聞こえてくる。

 クロエが見惚れるほど綺麗に笑っている。

 その正面ではウォードが身振りを交えて何か話している。

 ヴィックはトレイにあれもこれもと山のように食べ物を載せて、エルバに小言を頂いていた。


 皆さん、楽しそうなことで。


 ヒューのテーブルには誰もいない。


 男二人と少年一人、女が一人に少女が一人、狼一匹。

 この組み合わせはあまりに怪しい。


 それはそうだ。ヒューだってそう思う。

 結果、ウォードとクロエが夫婦という設定で、ヴィックとエルバが若いカップル、ヒューが独り者ということになった。


 狼は食事の席に連れていいか分からなかったので部屋に残った。

 ヴィックとエルバがチキン料理を持って帰るからと、約束していた。


 納得はしている。なるべくしてなった穏当な組み合わせだ。

 しかし、ヒューにとってはつまらない。


 孤独を実感するのは真に一人のときではない。自分だけがひとりのときだ。


 話す相手のいない、笑い合う相手のいない、分かち合う相手のいない、自分だけがそんな状態のとき、孤独は寂しさを伴ってのしかかってくる。


 まあ別にそんなことで拗ねるほど幼くも無知でも分からず屋でもないけれど。


 ヴィックが、ハンバーガーがないと騒いでいる。

 少しだけ溜飲が下がる思いがする。

 これが最後の一個だったからな。ざまあみろ、青春小僧。


 ジンジャーエールを飲み干して席を立つ。

 味は六〇点。ムードは二〇点だ。ただ飯だったから文句は言うまい。


 食器の返却口をちらりと見てから、そのまま視線だけを後ろに向ける。

 ウォードがこちらを睨んでいる。

 言われなくても分かるさ。きちんとトレイを返却口に返せって言いたいんだろ。


 真面目なのは結構だが、真面目の押し売りは出来ないぞ。


 あとは任せた。ヒューは後ろに向かって軽く手を振り、そのまま食堂を出た。


 一雨来そうな空模様だった。




 客室に戻ると丸窓の外は仄暗く染まっていた。


 銀狼は帰ってきたヒューに見向きもせず、ただベッドの上で丸くなっている。


 ヒューは入り口から見て奥側の、狼がいるベッドに腰かけた。

 安っぽいスプリングがぎしっと音を立てる。


「ベッドの軋む音っていいよな。大人なら連想するものがあんだろ」


 しんと沈黙が落ちる。ヒューは背後の狼に向かって語り続ける。


「それともずっと狼のままだから、未経験なのか。

 だったらオレがいただいてやろうか」


 ぐるぐるぐる。喉を唸らせる音がする。

 猫なら安らぎの証だが、犬だと真逆の意味を持つ。


「安心しろ。オレならその姿のままでもいけるぞ。

 獣型でも人型でもどっちでも――」


「今すぐその口を閉じな、蛆虫野郎」


 アルトの音色がヒューのわいせつ発言を遮った。


「てめえの話を聞いてると気持ち悪すぎて、この暑いのに鳥肌が立つ。

 どうしたらそんな発想ばっかりできんだ、ああ?

 気持ち悪い色した蛆虫より気持ち悪ぃ存在だな、お前は。真正の鳥肌もんだ」


 なんて口の悪さだ。それでもヒューはめげなかった。


「鳥肌ってのはいいぞ。最初はそうしたもんさ。

 それがだんだん気持ちよくなってくる」


「……首絞めてやろうか。ヴィックの仇だ」


 余裕たっぷりに笑って流したら、本当に首を絞められた。


 背後から親指と人差し指の間で喉を絞めつけられる。

 体の位置関係は違うが、ヒューがヴィックにしたような形で、本当に絞め返されてしまった。

 

 しかしそんなことよりヒューの意識を引くものがある。

 背中に当たる楽園の果実の感触、左右に二つ並んだ弾力だ。


「どうだ、少しは反省できたか」


 指摘すれば離れていってしまうだろう。

 本気で絞め殺す気はないようだが、この力加減だと呼吸より血流の滞りの方が苦しい。

 それでもヒューは抵抗せずに耐えた。


 逃亡生活の中で随分ご無沙汰だった生の女の体。

 快楽の序章に身悶える勢いだ。


 それと引き換えにするなら、脳への血の巡りが絶たれるくらいなんだっていうんだ。

 大したことじゃない。全然、大したことじゃない。


「と、これくらいで勘弁してやるか」


 ふっと呼吸が楽になり、どっと血流が再開された。

 楽園の果実が背中を離れ、束の間の夢のひと時は視界に浮かんだ星の如く瞬く間に散っていった。


「もっと、もっと、やってくれ……」


 荒い息の合間にこぼすと、完全に引いた声が返ってくる。


「お前、そっちの趣味もあるのか……」


 勘違いを正すだけの分別すら、貧血酸欠間近のヒューは失っていた。


 呼吸を整えながら、へこんだ感触のある喉に触れて、動きを確かめるように首を左右に折る。


 首にはたくさんの重要な管が通っている。

 そんなことを言っていたのはきっとウォードだ。

 それまでのヒューには首は急所という知識しかなかった。

 その理由なんて考えたこともなかった。


「少しはヴィックの苦しみが分かったか」


 人の首を絞めておいて、偉そうにふんぞり返ったような調子の声がする。


 嫌な気にはならなかった。調子づいた女というのは威勢がよくてよろしい。

 尖った部分を揉みほぐすように均していって、そこから滲み出るわき水を※△●□

 

 ヒューは軽く咳をして、喉の調整をしてから声を出す。

 それでもセクシーに掠れた。


「随分、元気になったようだな」


「ああ?」


「人型になると、かなり楽だろ」


「…………」


 アルトの返答はない。


「田舎ではいいかもしれないが、都会の街中で獣型でいるのはきついんだよ。

 少しの間ならいいが、ずっと獣でいると、まず鼻がやられる。次に耳だ。

 それ以上をオレは体験したことないが、どんな感じだ?

 聞いた話によると、脳みそ掻き回されてるみたいな気分になるらしいな」


「頭の中は常に鉛が詰められてるみてぇだ。

 たまにその鉛が頭の後ろの方で重さを増して、そういうときは物理的に頭の中が混乱したみたいになる。

 鼻の奥の方になんか詰まってる感じがして、気付くと息が止まってる。

 吠えたくなって、噛みつきたくなる。手当たり次第にな。

 特にクソエロ猫野郎とか、噛んだら気持ちいいだろうな」


「そうか。噛むなら肌の薄い敏感なところを甘噛みで頼む」


「ああ?」


 首筋を指して言うと、心底不快そうな声が返ってきた。

 今まで抱いてきた女とは違う反応にも、ヒューは余裕の微笑を漏らす。


「腹とか足の付け根もいいが、そっちは噛まれるより舐められる方が――」


「興味ねぇ。黙れ、クソエロ馬鹿猫」


 馬なのか、鹿なのか、猫なのか。


「なんでどんな話もそっちに持っていくんだ、てめぇは」


「常にそういうこと考えてるから」


 後ろでため息をつかれた。吐息が首筋に当たってぞくっとする。


「てめぇとは話したくねぇ」


「まあ、そう言うなよ。で、本題。これからどうするつもりだ?」


 返答なし。ヒューは構わず続ける。


「あの様子だと、お前の飼い主はお前を狼だと思ってるんだろ。

 隠し通すつもりか?無理だと思うがね。

 まずお前の身がもたない。マナティであのザマだ。

 エンプレスシティはもっときついぞ」


 そう言えば、今オレの後ろには裸の女がいるはずだよな。


「そうでなくとも、お前の飼い主だってバカじゃないだろ」


 見たい。すごく見たい。絶対見たい。


「あー、まあ、男の方はバカっぽいが、女の方はな。

 遅かれ早かれ、いつかバレる」


 今、振り返れば無修正の裸の女がそこに。


「今がチャンスだろ。もうバラしちゃえよ。秘密はなしだ」


 ヒューは目を見開いて、視覚に全神経を集中させて、期待を込めて振り返った。


 青銀の被毛で毛むくじゃらの雌狼がいた。

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