H 大人と子供の議論
遊覧船としては大型に当たる部類だろう。
外見からして存在感と威圧感があった。
船内は煌々と照明が灯り、フローリングの廊下はワックス掛けされて間もないらしく、艶めいている。
廊下の幅は人二人が余裕ですれ違える程度。
侵入口は開け放たれたまま閉じる様子もなく、ぽっかりと口を開けて、赤く染まった海を覗かせていた。
覆面の男を追いかけて船に乗り込んだはいいが、入ってすぐの場所で追跡対象を見失った。
敵が逃げた可能性のあるルートは八通り。
入口から見て一番手前側には、白く塗装された階段が左右どちらにも設けられている。
一番奥、突き当たりは左右共に廊下が続いていくようだ。
階段と突き当たりの間の壁には右にも左にもアーチ形をした二つの扉があった。
左右対称の形で四つずつ選択肢が存在する。
八つの中からどの道を選ぶか。
こういうときはまず選択肢を減らすことだ。
ヒューは向かって右側にある二つの扉を順に開けた。
「誰もいない」
「こっちもだ」
反対側の扉を頼んでもいないのにヴィックが確認していた。
扉の向こうは、一つは掃除用具入れ、もう一つは簡易な二段ベッドが壁際に二つある、船員の使うものだろう休憩所。
ヴィックが開けた方はどちらも、シンプルな木の机と椅子が何脚か置かれた部屋だった。
机の上には酒瓶とグラスが乗っている。
突き当たりの廊下を、高齢の夫婦らしき男女が通っていった。
貧相な身なりでもないが、着飾っているわけでもない。
こちらに目を向けて、軽く会釈をしてゆっくりと通り過ぎていく。
「中流階級向けの大陸遊覧船か」
ウォードが顎に手を当てて呟いた。
頭の中でこれからどう行動するか、プランを組み立てているに違いない。
「まずは空いている客室を探して拠点にしよう。
こんなところにいたら不審に思われる」
「そんな悠長なことしてる場合?ジェマちゃんを助けなきゃ」
正義感に燃える少女エルバが異を唱える。
ウォードは田舎の自警団の少女に視線を落とした。
「闇雲に探して見つかる広さじゃない」
「だけど早くしないと、どんどん陸が遠くなっちゃう!」
小娘は無謀にもウォードに食って掛かった。
「そう、それだ。だからこそゆっくりしよう。そちらの方が成功率が高い」
ウォードは突き当たりへ向かって歩き出した。
老夫婦が去っていった方へと進路を取って視界から消える。
数日間を共に過ごしただけでウォードを信頼しているクロエと、何も考えていなさそうなヴィックがウォードのあとに続いた。
銀狼は飼い主の間で逡巡するように視線をさまよわせたが、結局、頼りない方の飼い主を追っていく。
ヒューは膨れっ面の少女の隣に立った。
「早く行けよ。一人で解決できる問題でもないだろ」
「うるさい!そんなこと分かってる!」
エルバはヒューを睨みつけて高い声を出すと、足を踏み鳴らすようにしてずんずんと進んでいった。
ひっでぇ、八つ当たり食らっちまった。
不景気なことに空き部屋は難なく見つかった。
気配からして、半分以上が空き部屋だったのではないかと思われる。
不用心なことに施錠さえされていない。
「誰もいないからって使っていいわけじゃないでしょ。
船員に見られたらすぐにばれちゃうんだから」
「堂々としてれば意外とばれないものだよ」
室内にはシングルベッドが二つ。
窓は丸く、赤黒い海と紅の空を半分ずつ映し出している。
壁にかかった色時計はマゼンタと青みを帯び始めた頃合いだ。
空き部屋でも冷房は効いていたのだが、二人用の部屋に六人も集まると狭苦しい。
ヒューは壁にもたれかかりながら、少女と相棒の議論を聞いている。
「近くの部屋の人に怪しまれない?」
「マナティに寄港したばかりなんだ。新しい乗客だと思われるだけだろう」
「乗客も含めて全員覆面の一味だったらどうするの」
「さっきの老夫婦の反応からしてその可能性は低い」
「敵が乗客の中に紛れ込んでたら?」
「それは好都合だ。船員より乗客の方が探りやすいからね」
合いの手を入れるような気安さで返してくるウォードを、黙らせてやろうとエルバは必死になっている。
「いつ次の港に着くか分からないでしょ。覆面に逃げられちゃうかもしれない」
「この船はエンプレスシティ行きだ。どんなに急いでも三日はかかる」
「なんで、エンプレスシティ行きだって分かるの」
「さっき港で見た」
「でもそれは最終目的地であって、途中で他の港に寄るかもしれないでしょ」
「大陸遊覧船に最終目的地はない。
とにかくこの船の次の行き先はエンプレスシティだ」
「じゃあ、じゃあ、覆面の一味が船を乗っ取って、どこかに船を寄らせたら?」
「連中だって目立つ行動は避けたいはずだ。
一般の乗客を巻き込んでまで事を起こしたいとは思わないだろう。
それにもし、そんな大ごとを起こそうとするなら、むしろそれこそ好機じゃないか。
敵が誰かはっきりする」
エルバは今にも頭から火を噴きそうな顔をしている。
「じゃあさ、三日以内にあの子の居場所を探らなきゃいけないってこと?」
エルバの隣でベッドに腰かけているヴィックが、律義に手を挙げて発言した。
「それが目標だな。でもたぶん、この船の出力じゃ三日よりかかるだろう。
時間は充分ある。焦ることはない」
「悠長なこと言わないで。
ジェマちゃんは囚われの身できっと怖がってる。
早く助けてあげるべきでしょ」
エルバが再起したが、ウォードは考えるだけの間も置かず反論する。
「救出はエンプレスシティに近づいてからだ。
ここは船上なんだ。早く助けてあげたって逃げ場がない。
密室のようなものなんだから」
「脱出艇とかないの?」
ヴィックはまたしても挙手をした。まるで先生と生徒だ。
「脱出艇を使っても漂流してしまうのがオチだ。
俺たちには海図もないし、あったとしてもそれを生かす技術を持つ者もいない。
運よく陸に着けたとして、陸上のトリニティアイズに連絡が行っていれば、待ち伏せに合う危険もある」
「たしかにそうだけどっ。でも、早く安心させてあげようって気はないの?」
あーあ。ヒューはエルバに哀れみの視線を向けた。
よりによってエルバは、ウォードに対して感情論で訴えようとしている。
ウォードは表情を変えず、当然とでも言いたげな調子で答えた。
「安心より安全を取るべきだろう。
焦って行動してこっちが捕まるなんていうのは最大の悪手だ。
それは絶対に避けるべきだろう」
エルバは眉根を寄せてきゅっと唇を引き結んでしまった。
「うーん、腹減ったな」
そんな連れの様子にも気付かず、場違いに呑気なことを言ったヴィックは後ろに体を倒すようにして寝転んだ。
ベッドの上で体を丸くしていた銀狼を枕にする形で落ち着いて、腹に手を乗せる。
「もうおれ、腹が減りすぎて難しいこと考えられないよ。
作戦はウォードが考えてよ。あ、そうだ」
ヴィックはぴょこんと体を起こして、ウォードを視界の中心に据えた。
「ウォード、お医者さんなんだよな。
こいつ調子が悪いらしいんだ。ちょっと診てやってよ」
ヴィックの親指は狼を指している。
「おいおい、俺は獣医じゃないぞ」
そう言いつつも、ウォードは腰を浮かして銀狼の傍らに歩んでいった。
基本はお人好しなんだよな。
現実的過ぎる思考が、ときに他者を傷付けるけども。
クロエが労しげな目でエルバを見つめている。
同情はしているが、会ったばかりの少女に声を掛けるのが憚られるらしい。
ここはオレの出番だな。
鈍感な男どもに傷付けられた女の子を慰めるのは美味しい役目だ。
ヒューは壁から背中を離し、ベッドに腰かけるエルバと視線を合わせるため、しゃがみこんだ。
「エルバ、落ち込むなよ。
早く見つけてやって、絶対に助けてやるから信じて待ってろって伝えてやればいい。
そうすりゃ、あっちも少しは安心できるだろ」
「う、うるさい!大体、落ち込んでないし!
それに、そんなこと、そんなこと……、言われなくたって分かってるもん!」
またもや差し伸べた手に噛みつかれてしまった。
しかし「分かってるもん!」とはなんとも可愛らしい反応だ。
傷付いた少女の心は普段は纏っているはずの鎧をはぎ取られ、瑞々しく滑らかな剥き出しの肌を晒している。
強がっていても少女は少女だ。
にやりと笑ったヒューの表情が気に食わなかったらしく、エルバは顔を歪めてそっぽを向いてしまった。
ぽーん、ぽーん、ぽーん、と軽快な音が鳴った。
『夕食バイキングの終了時刻まで、あと三〇分です』
船内放送だった。
しなやかな絹を連想させる女性の声は、機械音声などではなく肉声だった。
この船には女の船員も乗っているということだ。
ヒューが着目したのはその点だったが、他の皆は違った。
「バイキングだってさ、バイキング!」
「耳元で大きな声出さないでよ!」
「くーん」
「腹ごしらえするのも悪くないか」
「そうだね。ご飯食べないと元気も出ないし」
「オレはこの、しなやか~な声の主に会いに行きたいね」
室内が静まり返って、全員の視線がヒューに集まった。
「それは、どうなんだ?」
「自分が指名手配犯だって分かって言ってるの?」
「わふっ」
「ヒュー、目立つ行動はするな」
「大人しくしてた方がいいんじゃないかな?」
さっき会ったばかりだというのに、なんなんだこの一体感は。
全員から窘められたヒューは、舌打ちでもしたい気分で拗ねてそっぽを向いた。
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