V 港町の捕り物劇

 港町マナティの水色の屋根が連なる高級住宅街を、一人の泥棒が疾駆する。

 泥棒は大型商店の立ち並ぶ通りから今いる高級住宅街までを、邪魔な人間を突き飛ばして、懸命に逃げ続けていた。

 自分を捕まえようとする連中に追われているからだ。


 ヴィックは前方の細身の背中を、ひたすらに追いかけて走った。

 周りの風景をじっくり観察している余裕などなかった。

 幸運にも泥棒は人通りの少ない方へと駆けていき、人ごみに紛れる心配はなくなっていた。

 

 盗人は不健康そうな見た目からは想像もできないほどの脚力を見せた。

 たまに足をもつれさせ転びそうになるのだが、そのたびなんとか体勢を立て直す。

 すぐに追いつけるだろうとのヴィックの目論見は見事に外れた。

 追跡劇はもうすでに持久戦と化している。


 けたたましく犬が鳴いた。と、泥棒の横合いから銀色の狼が飛び出してくる。

 ゾーイだ。住宅の庭を通り抜けて、先回りしたらしい。

 やったな、ゾーイ!

 今は不法侵入だとか言っている場合じゃないから、その点は不問だ。

 いや、そもそも狼には不法侵入もないか。


 ゾーイは盗人に体当たりを食らわせて転倒させた。

 エルバが言うには、ゾーイは体調が悪いらしいのだが、そんなことはまったく感じさせない働きだ。


「ヴィック、捕まえて!」


「おうよ!」


 エルバの声に反射的に返事をしてから思う。

 お安い御用だが、何故、おれが?

 絶体絶命の泥棒に向かっていくヴィックに対し、エルバは足を止めた。

 不可解だが、問い詰めている間もない。


 もつれあっているゾーイと盗人は、ゾーイが優勢に見えた。

 が、泥棒が地に背中をつきながらも、何やら懐を探っている。

 武器でも出すつもりか?

 難なくやられるゾーイではないが、怪我でもしたら大変だ。


「ゾーイ、危ない!」


 ヴィックは叫んだ。と同時にゾーイが身を引いた。

 次の瞬間、盗人の下方から水が噴水のように噴き出した。


 突如湧きだした水流は、泥棒の身を突き上げ、近くの鉄柵に打ち付けさせた。

 盗人の手から、衝撃でナイフがこぼれ落ちる。

 即座に追いついたヴィックは足でナイフを払い除け、濡れた泥棒の体の上にのしかかるようにし、相手の動きを封じた。


 振り返ると、エルバが両腕を絡ませるようにして肘を曲げ、指をぴんとまっすぐ伸ばして、天に向かって突き上げていた。

 巫術の発動には言霊か、この動作モーションを必要とする。

 エルバの天印は右大腿、膝の上辺りに刻まれている。

 レンジャーの制服のスカートの裾からちらりと見えるそれは、群青色の輝きを放っていたが、次第に黒に戻っていった。


「よっし!やっと捕まえた……」


 体を丸めて呻いている盗人を体の下にしてヴィックは空を見上げ、勝利の吐息をこぼした。




 ずぶ濡れの冴えない男が涙を流して、地に膝をつき、こちらを拝むようにして哀願している。


「頼むよ、見逃してくれよ。

 母ちゃんが病気なんだよ。金がいるんだ、金が。

 女手一つで育ててくれた自慢の母ちゃんなんだよ。

 頼むよ、頼む、後生だから……」


 エルバは問答無用とばかりに、男に手錠を掛けた。

 ヴィックはさっきまで必死に追いかけていた盗人が途端に可哀そうになってきて、眉を寄せる。


「なあ、エルバ……」


 エルバは男の後ろに回ってその腕をがっしり掴んで立たせながら、自分を呼んだヴィックの方に視線をくれた。


「ちょっとさ、見逃してやったら?

 ミスター・ナルバエスはあんな奴だし、ちょっと金盗られたって痛くもかゆくもないだろ?」


 エルバはチョコレートブラウンの瞳を大きく開いた。


「そんなこと関係ない!盗みは盗みよ」


 エルバは至極まっとうなことを言って歩き出す。

 その背に小走りで追いつき、ヴィックは泣いている男の肩を優しく叩いてやった。

 哀れに過ぎて男を直視できず、目は逸らしている。


「ヴィック、あんた、同情してるの?」


 エルバはこちらを見もせずに、冷たい声音を放った。


「こいつの言ってることが、もし仮に本当だったとしても――」


 泥棒は「嘘じゃない、嘘じゃないよ」と泣きじゃくっている。


「罪は罪なの。罪を犯せば、裁かれなきゃならないのよ。

 それが世の道理なの」


 そう言って凛とした表情を見せるエルバの横顔に、ヴィックはまだ小さかった頃に起こった出来事を思い出さずにはいられなかった。


 リンダの集落は小さな集落だ。

 同年代の子供は少ないから、皆、一緒になって遊ぶ。

 その遊び仲間の中に一人、とても貧しい家の子がいた。

 彼はよく、ヴィックとエルバの家に遊びに来た。

 そしてその度、ものを盗んでいった。

 事態に気付いたエルバは、おじいちゃんに言いつけると言った。

 そんなことしなくてもいいとヴィックは止めた。

 彼は反省しているようだったし、もうしないと約束したから。

 でも、エルバは反省しているかどうかは問題じゃないと声を高くした。

 結局、盗みの事実はエルバからおやっさんに伝わり、その彼は親にこっぴどく叱られたという。


 思えば、エルバの主張は昔からぶれていない。

 悪いことは悪いこと。犯罪は犯罪。

 どんな事情を抱えていても罪人は罪人で、相応の罰を受けなければならない。


 さすがレンジャーの家系の生まれだと感心する。

 そんなエルバを頭が硬いだとか非情だとか陰口を叩く人もいるのだが、ヴィックにはどうしても、エルバがただ非情なだけの人間とは思えない。


 この昔話には続きがある。

 盗みの一件があって以来、その貧乏な家の子に、エルバは度々、物をあげるようになった。

 多くはお菓子だったが、おもちゃだったこともある。

 妹にあげなさいよ、などと言って、ぬいぐるみを渡すエルバのふくれっ面にも似た横顔を、盗み見るのがヴィックは好きだった。


「お前にもさ、きっといいことがあるよ」


 ヴィックは頼りなく震える盗人の背中に哀れみの視線を向けつつ、慰めるように声を掛けた。


「反省して、ちゃんと償うんだ。そしたらきっと、いいことがあるよ」


 エルバがこちらをちらりと見て、すぐに視線を戻した。


 住宅街に夏の昼の温い風が吹く。

 水色の屋根の上を歩いていた鳩が、羽ばたいた。

 晴れた空にうっすらと虹の橋が架かっている。

 ヴィックにはそれが希望の象徴のように思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る