W 冷徹な理性と博愛の正義

 傷口をホチキスで留められた老人は、卵軟膏を塗ってもらうならクロエがいいと我がままをこねた。


 卵軟膏は薬学と属性学の粋を結集して作られた最高峰の傷薬だ。

 個人差はあるが、ちょっとした傷ならたった一日で治してしまう治癒力を持つ。

 難点はやや高価なところと、塗った箇所が痒くなることくらいだろうか。

 臭いが苦手だという人もいる。


 クロエによって薬が塗られていくのを眺めながら、ウォードは老人に情報と物資の提供を求めた。

 老人は先ほどから打って変わった上機嫌で、クロエに手を握ってもらうことを条件として提示してきた。

 

 クロエが承諾してくれたので良かったが、ヒューの女好きを非難しておいて、とんだエロじじいである。


 カウンターの奥にあった部屋でコーヒーを飲みながら卓を囲んでいる。

 湯を注ぐだけのインスタントコーヒーだ。

 誰が淹れても味は変わらないだろうに、老人はクロエにコーヒーを淹れさせた。

 ウォードの医学生時代の恋人は、ジェンダーの問題に積極的に取り組む女性だった。

 彼女がこの場にいたなら、声高く抗議していたことだろう。

 現在は大病院の産婦人科医だ。

 

 ウォードの隣に着席するヒューはちゃんと服を着ていた。

 自宅の椅子に裸の男が座るのを老人が断固拒否したためだ。

 服は老人が顧客たちのために用意している物資の中から、ヒューが自分で選んだものである。


 ニュース番組の話題が切り替わり、ウォードはリモコンを操作してテレビの音量を大きくした。


『明朝、発生しました集積所でのビーティ虐殺の犯人は未だ捕まっておりません。

 そんな中、私たちはさらに衝撃的なニュースをお伝えせねばならなくなりました。

 犠牲者が一三人に増えてしまいました。

 犠牲者の名前はアリス・ウォーフィールドさん』


 不意に聞かされた妻の名に、一瞬呼吸が止まった。

 腹の中にずしんと重いものが落ちてくる。

 手に持ったリモコンが滑り落ちそうになった。


『アリスさんの冥福をお祈りします。

 アリスさんをはじめ、一三人もの罪なき人々を殺害した、憎むべき犯人の映像はこちらです』


 画面が赤いスーツ姿のアナウンサーから、不明瞭な暗い映像へと変わった。


 集積所で撮られたものらしい。

 暗視機能の作動した赤黒い景色の中を、二人の男が駆けていく。

 エンプレスシティに存在する、数多くの監視カメラの功績だろう。

 クロエやアリスの姿はないことから、攫われた人々を助け出す前の映像だ。


「奴らはもう、お前らの素性は掴んでるだろうよ」


 静止画に切り替わった画面を興味もなさそうに見つめながら老人が言う。

 犯人二人の顔が拡大されるが、画像が粗くてはっきりとした判別は出来そうにない。


「だけど指名手配まで踏み切れねぇのは、ひとえに先生のお家のおかげだろうさ」


 老人が嫌らしげにじろりと視線を向けてくる。

 好奇と嫉妬と一握りの侮蔑。


 居心地の悪くなったウォードは身じろぎをした。

 パイプ椅子がぎしっと軋む音を立てる。

 クロエが老人の手を握ってやりながら、不思議そうな顔でウォードを見ている。


「ウォーフィールドっていったら、真っ先に誰を思い浮かべる?」


 黙っているウォードの代わりに、ヒューが口を開いた。

 クロエは考える間も置かず答える。


「それは、ユニオン委員の……、えっ?」


 ルビーレッドの目を丸くしたクロエの視線がウォードに刺さる。

 みんな、こんな顔をする。


「まさか、ウォーフィールド委員の?」


 立派な出自と人は言う。

 そう言いながら、ウォード自身ではなく、背後にある父の姿を見ている。


 ダイア大陸の全土を統治する共同体をユニオンという。

 ユニオン委員とはその共同体の方針を決める代表者。要は政治家だ。

 元々はただの富豪であり、金の力によって権力をも手にした強欲な支配者たちである。

 

 ウォードの父親は支配構造の頂点に君臨するユニオン委員の一人だ。


「ウォーフィールド委員は息子の不始末を揉み消そうと必死だろうよ。

 クソ猫野郎だけに容疑が固まるのも時間の問題だな。

 凶悪犯は二人じゃなくて実は一人でしたってな。

 事実はいくらでも作り替えれるってわけだ。

 大手を振って外を歩けるようになるぞ、先生」

 

 老人の台詞には嫌味が多分に含まれている。

 貧民街の人たちは支配者たるユニオンを嫌うものだ。

 こうしたことは言われ慣れているし、聞き流すすべも身に付けている。

 

 そんなことよりも老人の目線がクロエの体の線をなめているようなのが気にかかった。


「あの……、殺された、ビーティの人たちって……」


 話題を変えてくれたのはクロエだった。

 おずおずと切り出してきて、答えを知りながらも、その先を口にするのを躊躇うように口を噤んでしまう。


「あの場に捕まっていた人たちだろう」


 ウォードは冷静さを保とうとしながら言う。

 それでも忌々しさが口調の端から漏れていた。


 ウォードが撃ったギャングの構成員は大半が男だった。

 しかし被害者はビーティの女性ばかりだったという。

 となればそれは、あのコンテナの中に荷物のように押し込められていた人たちに違いない。


 そのうちの一人がアリスだった。

 

 変えようもない過去と現実が重く冷たい石となってウォードの胸を塞ぐ。


 アリスは死んだ。殺された。

 巷間では、その犯人はウォードということにされている。


「大丈夫、気にするな。クロエちゃんのせいじゃねぇから」


 猫撫で声が聞こえた。

 目をやると、老人の手が机の下に消えたところだった。

 クロエの太ももをさする角度で腕が動く。

 クロエの顔が強張って、細い肩がふるりと震えた。

 

 瞬間、胸が悪くなるほどの嫌悪感と怒りが沸いた。


「彼女から手を離してください」


 敬語を使うだけの余裕はまだあった。

 ウォードは老人を冷たい目で見据える。


「あぁ?なんだ?なんだってんだ、先生」


 老人はウォードを睨み返してきた。

 文句があるのかとでも言いたげだ。

 手の動きは止まったようだが、まだクロエに触れている。


「手を、離せと、言っている」


 ウォードは一言一言、区切って発声する。

 今にも立ち上がって老人を威嚇しそうなのを拳を握って堪える。


「なんだぁ、その態度は」


 老人はやっとクロエから右手を離し、卓の上に叩きつけた。

 大きな音が出たが、そんなことで委縮するほどウォードも臆病ではない。

 一歩も引く気はない。


「俺はな、おめえらのせいでこんな目にあったんだぞ。

 それなのになんだ、その態度は」


「たしかに俺たちのせいです。しかしそのこととクロエは関係がない」


「おめえらが連れてきた女だろうが!これくらい許容範囲のスキンシップだ!」


「あなたにとってはこれくらいのことでも、女性にとってはそうでない。

 嫌がっているのが分かりませんか」


「これが男と女ってもんだ。そんなことも分からねぇか」


「そんな考え方は時代遅れだ。互いに尊重し合うのが今の流儀です」


「出て行け!今すぐだ!出て行け!」


 若造に諭されて腹が立ったらしい。

 腕を振り回して足を踏み鳴らして老人は怒鳴った。

 怪我をしている左手すら振るものだから、包帯にじわじわと血が滲んでいった。

 傷口が開いたらしい。


「クロエ、ヒュー、行こう」


 ウォードは静かに言って立ち上がる。

 恐ろしい形相のセクハラ老人から離れられるとあって、クロエは急いで椅子を引いた。

 ヒューは面白いものでも見物するようににやにやしている。

 

 戸をくぐる寸前でウォードは足を止めた。


「その傷、早く病院で診てもらったほうがいいですよ」


「うるせぇ!とっとと出て行きやがれ!」


 ウォードの傍の壁に何かが投げつけられて、ばりんと破砕音を立てた。

 きっと卓の上に置いてあったマグカップだろう。

 殺意すらこもっていそうな憎々しげな呪詛の声を背中に受けながら、ウォードは足早に戸をくぐった。

 

「珍しいな。お前が感情的になるなんて」


 外へ出たところでヒューが口を開いた。

 屋外なのに埃っぽい空気が沈殿しているように思える曇り空だった。


「感情的?俺は感情的だったか?」


「間違いないね。実利を取らずに正義を優先させた。

 お前らしいと言えばお前らしいが、お前らしくないと言えばお前らしくない」

 

 ヒューは矛盾したことを言って何食わぬ顔で歩き出した。

 どこへ行くつもりか知らないが、先頭を行くからにはあてがあるのだろうか。


「ウォード」


 呼びかけられて、首を傾げるようにして視線を落とした。


「ありがとう」


 クロエからの礼を受けて、ウォードは微笑む。


「どういたしまして」


 結局、ある程度の情報は聞けたが、物資の方は入手できなかった。

 ウォードが義憤を抑え、クロエが不快な思いを我慢し続けたら、これからの逃走に必要なものを揃えられたかもしれない。


 だけどウォードは、正しいことをしたと思う。


 ただ、正しいことがいつも最善とは限らないだけだ。


「ヒュー、どこへ行くつもりなんだ?」


「さあ、知らね」


 少し先にいるヒューの背中に声を掛けると、頼りない答えが返ってくる。


「お前が決めろよ、ウォード。

 いつだってそうしてきただろ。

 考えるのはお前の役割だ」

 

 振り返ってきて、偉そうに胸を張って相棒は言う。

 ウォードは微苦笑を漏らし、息を吐き出した。

 

 たとえ最善でなくても、間違っていたとしても、この信頼を裏切るようなことだけは絶対にしたくないと思える。


「分かった。任せろ」


 この瞬間、行くべき道が定まった。

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