W 不穏な気配
街中を行く黒ジャガーは、なかなかに目立っていた。
道行く人は大抵が無関心を決め込んでいたが、無遠慮にじろじろ見てくる者もいる。
誰も本物のジャガーが歩いているとは思っていないだろうが、普通ビーティは獣型で出歩くものでもないから、不審に思うのも無理はない。
当のヒューは周囲の視線を気にする様子もないが、クロエは恐縮したように肩を縮こまらせている。
最後尾からそれを眺める自分はどんな顔をしているのか。
商店街に達すると人の波はいや増した。
三階建ての店舗が道路を挟んでいくつも軒を連ねる様は、いつもどこか整然としている。
ホットドッグの移動販売車は不景気なことに閑散としたものだ。
街路樹に生った固そうな実はいかにも不味そうで、ベンチに座る老人はゆっくりした動作でアイスを食べている。
クリーム色の歩道の上には多くの人が行き交い、大袋を抱えた婦人が早歩きで脇を掠めていく。
日常の風景がそこにあった。
家電屋の前に差し掛かったとき、最前を進んでいたヒューが足を止めた。
目線はウィンドウ越しに置いてある最新型テレビに注がれているようだ。
ウォードはヒューに追いついて、テレビに視線をやる。
ガラス越しなので音声は聞こえない。
[凄惨 一二人が死亡 集積所での惨劇]
集積所という単語に引っ掛かりを覚えた。
アリスを助けに行ったその場所こそ、港の集積所だ。
ウォードは食い入るように画面下部の字幕を見つめる。
[犯人は男二人 人質を一人連れて逃走中]
嫌な予感がした。
[短剣二振りと小銃一丁を所持 どちらも天印持ちとみられる]
素早くヒューと視線を交わす。
ヒューは何事もなかったかのように歩みを再開した。
ウォードは立ち止まったままのクロエの肩にそっと手を置いた。
「大丈夫。なんでもないような顔をして。
堂々としているんだ。さぁ、行こう」
クロエの耳元に囁く。
クロエは僅かに顔を揺らして頷き、ヒューの背を追っていった。
表面上は平静を装いつつ、押し寄せる不安を抑え込みながら、ウォードは頭をフル回転させる。
報道があったということは、警察が動いているということ。
警察とギャング集団〈トリニティアイズ〉は裏で取引をしているともっぱらの噂だ。
犯人とされている男二人は、自分とヒューに違いない。
人質一人はクロエと考えるのが妥当だろう。
では、死んだという一二人は誰のことなのか。
ヒューと共に始末した追手の数はそんなに多くなかったはず。
まさか、一二人の中にはアリスが含まれているのではなかろうか。
では、自分がアリスを殺したということになっているのか。
果たして、このまま医院に戻っても大丈夫なのだろうか。
思案に暮れているうちに貧民街へと到達した。
考えれば考えるほど、不安は大きくなっていく。
ヒューに行き先変更を告げるべきだろう。
そう思って、黒ジャガーの背に声を掛けようとしたとき、ジャガーは寂れた細い路地へと曲がっていった。
そちらは医院へ向かう道ではない。
いったい、何処へ行くのか。考えてすぐに思い当たった。
オレだってバカじゃないんだぜ、得意げなヒューの声が聞こえてくる気がした。
ヒューがウォードとクロエを連れてきたのは、薄汚れた土壁の真ん中に取ってつけたように作られた、粗末なドアの前だった。
元の色が分からないほどに土と埃で汚れ、丸いドアノブはほとんど錆びてしまっている。
ヒューが人型に転身してドアノブを捻った。
ノブはぎしっと音をたてたが、扉自体は軋む音もたてなかった。
全裸の男が中に消えていき、躊躇うクロエをウォードは視線で入るよう促す。
この場所のことは知っていたが、来たのは初めてだ。
室内は外見と同様に寒々しく、灰色の壁に覆われた空間には色時計も観葉植物も小物の類も一切ない。
小さな木製のカウンターが設えられているが、その中にも誰もいなかった。
「おーい、親爺」
ヒューが奥へと呼びかけた。
しばらく反応はなかったが、がたっと物音がしたかと思うと、カウンターの奥から背の低い老人が現れる。
ウォードは咄嗟に身構えた。
老人はライフル銃をこちらに向けていたのだ。
「やってくれたな、この腐れ猫が」
低く掠れた声を発して、老人はヒューに照準を合わせた。
「おいおい、ちょっと待てって。いきなりなんだよ。オレ、なんかした?」
「おめぇがトリニティ・アイズに喧嘩なんて売るから、俺がしばかれたじゃねぇか!」
ウォードはヒューと老人の間で視線を行き来させた。
この場所はヒューにとって換金所であり、情報屋でもある。
〈
いわば、取引相手であり商売仲間ともいえる。
「見てみろ、これを!」
老人はライフルをカウンターの上に放ると、左手をぐっと突き出した。
手の形が分からなくなるほど厚く巻かれた包帯に、今にも滴りそうなほどぐっしょりと血が滲んでいる。
手首には止血用だろうか、細い紐がぞんざいに結ばれていた。
「どうされました?」
自分の領分と察したウォードは老人に近づく。
老人の憎々しげな視線が、今度はウォードに突き刺さった。
「おめぇらのせいだぞ。手ぇ出しちゃいけねぇ領域ってのがあるんだよ」
凄むように言った老人の包帯を、ウォードは丁寧に解いていく。
カウンターの上に血がぽたぽたと零れ落ちた。
「ちくしょうが。
トリニティ・アイズのことなんて聞いてくるから、ろくなことじゃねぇとは思ったんだ。
とんだとばっちり食っちまったぜ。俺も焼きが回ったな」
老人の左手は掌から手の甲まで一文字に貫通する重傷を負っていた。
「何があったんですか」
半ば想像はつくが、ウォードは問診の体で尋ねる。
老人の手首に雑に絡まった紐を一度解いて、きつく締め直した。
出血はまだ続いている。
「刺されたんだよ。ナイフでぶっすりな。
ったく、こっちの言い分なんて聞きやしねぇ。
いきなり大勢で押しかけてきて、押さえ込まれて、手をぶっすりだ。
生きた心地がしなかったね。
奴ら、何も喋りゃぁしねえし、あの覆面は気味が悪ぃ。
本当に、とんだ災難に巻き込まれたもんだ」
不安からか興奮からか、老人は口を動かし続けている。
ウォードは無惨な傷口をしげしげ眺めた。
縫合が必要な傷だが、生憎、必要な装備を持ち合わせていない。
ウォードはバッグの中からスキンステープラーを取り出して老人の前にかざしてみせた。
「これを使います」
「なんだ、そりゃ」
「医療用のホチキスです」
ウォードの答えに、老人は露骨に顔を顰めた。
「うへぇ、痛そ」
いつの間にかウォードの隣に立っていたヒューが、他人事じみた声を出す。
がん!と大きな音がして木のカウンターに振動が走った。
老人が怒りに任せて、右の拳を叩き付けたのだ。
「元はと言えばおめぇのせいでこうなったんだろうが!
ちくしょう、なんで俺がこんな目にあわなきゃなんねぇんだ。
なんだってんだ、この!」
「ヒュー、患者を怒らせるな」
ウォードはヒューを窘めたが、それくらいで老人の怒りは収まらなかった。
「すかした面ぁしやがって!このクソ猫野郎!
おめぇはいっつもそうだ。恩ってもんが分かっちゃいねぇ。
人妻だろうと構わず手ぇ出すから、男どもに憎まれて、遊びでしかねぇから、女どもにも恨まれて。
それを俺がどれだけ取り成してやったか分かってんのか!」
ヒューは首を傾け、左耳に小指を突っ込んでいる。
音波銃にやられて以来、負傷した耳がどうにも気になるようだが、説教を食らっているときにとる態度ではない。
老人の怒りのボルテージが高まっていき、雷のごとき一喝が落とされる。
「聞いてんのか、こら!女たらしの万年発情猫!!」
腹が立ったのは分かるが、大音声で言う台詞じゃない。
「大体、綺麗なお嬢さんの前で、そんな汚ぇもん、よく丸出しにしてられるな!」
全裸のヒューに対し、老人は唾を飛ばす勢いで怒鳴り続ける。
「汚ぇもんとは言ってくれるな」
黙っていたヒューがやっと反応を示した。
どうやら気分を害したようである。
「オレのナニほど立派な上等品、なかなかお目にかかれないぜ?なぁ?」
ヒューは同意を求めるように、あろうことかクロエを振り返った。
こんな状況でこんなことを言えるこいつの神経は、樹齢千年の大樹より太いに違いない。
「ちきしょうが。その自慢の一物、引き千切ってやろうか」
「残念だったな。野郎には何があっても触らせねぇよ」
怒りに震える老人の声音に、ヒューは涼しく応じる。
ウォードはひっそりため息をついた。
鞄を探って、タオルを引っぱり出す。
「ヒュー、引き千切られないようにこれでも巻いておけ」
ヒューは差し出されたタオルを腰ではなく首に引っ掛けた。
どこまでも挑発的な態度に、老人も怒る気力が萎えたらしい。
脱力するように肩を落としてしまう。
「こいつには何言っても無駄だ。
先生、あんたよくこんな男と組んでるな」
ウォードは微苦笑を漏らした。自分でもたまにそう思う。
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