W 冷徹な理性

 鳥が囀っている。

 鳥たちにとっては、昨日となんら変わらない朝なのだろう。


 ウォードにとってはそうではなかった。


 昨日の今頃、ウォードはベッドの中にいたはずだ。

 朝の気配に浅くなりゆく眠りに浸り、肩に触れるアリスの体温を感じて、繰り返される寝息を優しく浜に打ち寄せる波音のように聞いていた。


 一転、今朝はギャングに追われる身の上だった。


 追手に追いつかれることもあったが、なんとか片付けた。

 躊躇うことなく、頭や胸といった急所を狙った。

 ウォードにとっては自らの意思で行う、初めての人殺しだった。


 罪悪感はなかった。

 愛する妻とまだ見ぬ我が子を奪った元凶に、そんなものは抱かなかった。


 前を歩くヒューとクロエが立ち止まったので、ウォードも歩みを止めた。


 木々の間に、連なる建物群が覗いている。

 黄みがかったクリーム色の街路が、朝陽に照らされて白っぽく光っている。

 まだ朝も早いというのに、人の姿もちらほら見受けられる。


「とりあえず、医院に戻ろう。

 今は人が少ないから人ごみに紛れられないが、歩いているうちに人も増えてくるだろう」

 

 ウォードは建物の方に目をやりながら口を開いた。

 なんだか別の誰かが喋っているようなふわふわとした不思議な心地がする。

 

 街並みを見れば、なんとなくだが現在地を把握できる。

 ここからなら、正午までには医院に着けるだろう。

 

 ヒューとクロエのあとを追うようにして歩を進める。

 

 歩きながら、シャツのポケットに指を入れて中をまさぐる。

 硬い感触が返ってきて、どうしようもなく胸を絞られる。


 緑と白の入り交じった筒状の耳飾り。

 少し前まで、アリスの長くて白い兎耳を飾っていたものだ。

 

 輪の中に指を通すようにして、指先で感触を味わい感傷に浸る。

 

 これは、ウォードが初めてアリスにプレゼントしたものだった。

 

 あの時はまだ、ウォードにとってアリスは、医院の仕事を手伝ってくれる女の子でしかなかった。

 事務仕事をこなし、掃除をし、料理をしないウォードのためにご飯を作って、さらには簡単な処置の仕方や薬の効能まで覚えたがる、働き者で熱心な女の子だった。

 

 その日、かねてから街に行きたがっていたアリスを伴って、ウォードは薬を取りに出かけた。


 往路でアリスが物欲しそうな顔をして、ビーティ専門の装飾品店を見つめていた。

 柔らかな黄色い壁に緑の屋根をかぶった洒落た店だ。

 アリスも見た目を気にする年頃なのだなと思って一度は通り過ぎた。


 薬を受け取って復路、やはりアリスの視線は緑の屋根の装飾品店に注がれている。


 笑みが漏れた。

 そのあからさまな様子を、さすがのウォードも、二度は無視できなかった。


「アリス。あの店に寄って行こうか」


「ええっ!」


 ウォードの提案にアリスは驚いてから目を輝かせ、思い直したようにその目をぎゅっとつむって勢いよくかぶりを振った。

 そうしてくるくると表情を変えたあとで、「私には敷居が高い」とか「どうせ似合わない」などとぶつぶつ言っている。


 ウォードはそんなアリスの背を押して一緒に店の入り口をくぐった。


 店に入ったアリスは、直前の尻込みはどこへやら、女性の買い物にしては短い時間で欲しい品を選び出した。

 どうやらショーウィンドー越しにもう狙いを定めていたらしい。


 値段はたしか、二百ベラほどだったか。

 アリスの給金でも充分買える値段だったが、彼女に払わせるなんてそんな無粋な真似はしなかった。


「先生、大好き。ありがとう」


 そう言って大輪の向日葵のように笑ったアリスの顔は、二百ベラ以上の価値があったと思う。


――先生、大好き。ありがとう


 先ほどウォードの胸元でも、アリスはそう囁いた。


 それがアリスの最期の言葉となった。


 喉の奥に込み上げてくるものがある。

 その場に膝をつきたくなったが、意志の力でぐっと堪えた。


 何故、助けられなかった。

 どうにかしたら、救えたのではないか。

 

 悲歎は止めどもないほど、今この瞬間も溢れてくる。

 それ以上の高波と化した無力感に押し潰されそうになる。

 

 自己に対して湧き上がる怒りは、身の内を灼くように熱い。

 喉が潰れるまで叫びたい、血が滴るまで体を掻きむしりたい、そんな衝動に駆られそうになる。


 ウォードを冷静の内に繋ぎ留めるのは義務感という鎖だった。


 しっかりしろ。今はまだ崩れるな。

 少なくとも、ヒューとクロエの前では気丈に、あくまで合理的に――

 最善を選び取れ。


――誰にとっての最善だ


 すかさず反証するのは自らを疑う心の声だろうか。


 アリスはもうこの世にいない。

 体ももうすでにあのプレハブ小屋にないだろう。

 天印が他の者に移った時点で、戦人は髪の一本も残さず消えてしまっている。


――最善だった


 あの状況でアリスに治療を施すのは不可能だった。

 敵に追いつかれて、三人のうち誰かが撃たれていたかもしれない。

 そうなっていたら、新たな犠牲が出たかもしれない。

 今、生きている者にとっては、最善だった。


 では、アリスにとっては?

 

 拳をぐっと握りしめて自分に言い聞かせる。


――死者は死者でしかない


 合理的な自分が嫌になる。

 でもそんな自分をどこかで心地よく感じているから、ウォードは今のウォードなのだ。

 

 だから再びあんな状況に巡り会っても、同じ選択をするだろう。

 

 ポケットから髪飾りを取り出し、朝陽に妻の形見をかざしてみる。


――こんな俺を、何度も大好きと言ってくれた君は、幸せだっただろうか


 答えを知る人はもういない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る