C 堕ちた舞台女優③
ウォードが小屋から出てきたのは、クロエの感覚からすると早すぎるくらいだった。
扉の開く音でそう気付き、こちらへ歩んでくるウォードに視線を向ける。
顔つきから感情が読み取れない。もう、妻とのお別れは済んだのだろうか。
「君を家まで送ろう」
クロエの前まで達したウォードが、クロエの目を見つめて言った。
「あ、わたし……」
玄関ドアの落書き。
テディベア、腕時計、写真、二揃いの食器、ガーネットのネックレス。
帰る場所なんてない。
「ああ、すまない。先に警察に保護してもらった方がよかったか」
ウォードはクロエの逡巡を違った意味に解釈したらしい。
肯定も否定も出来ずに、クロエは俯いてしまった。
帰りたくない。
現実と向き合いたくない。
でも他にどうしようもない。
「追手か?」
ウォードの声に顔を上げると、ヒューが腰を浮かせて警戒の姿勢を取っていた。
林の一点を見つめながら、尻尾をゆらりと揺らめかしている。
もちろん、クロエには何も聞こえない。
ウォードがヒューの見つめる反対方向へ体を向けた。
「早く逃げよう」
ヒューは軽くかぶりを振ると、林の方に向かって駆け出した。
ウォードの腕にチェスナットブラウンの光が絡みつき、
もう逃げるには遅いらしい。
ウォードが泰然とした動作で小銃を構える先に、三つ目の覆面が複数見える。
怒声、銃声、悲鳴。再びクロエの世界は剣呑な音でいっぱいになった。
立ったままでは、いい的だ。
身を守るように体を丸めて草地に座り込む。
目を閉じてしまおうかとも思ったが、怖くてそれも出来ない。
目を凝らすようにして戦闘の様子を観察した。
ヒューは襲いくる弾丸に怖れる様子もなく、果敢に俊敏な動作で飛び込んでいく。
そうして敵の下に辿り着いては、牙と爪を武器に血祭りにあげ、また次の敵へと向かっていく。
ウォードの放った銃弾は、ヒューを狙った弾とこちらに向かって放たれた弾とを的確に撃ち落としていく。
余力があれば敵の額を撃ち抜いて、確実に相手を絶命させていく。
普通の人間に許された身体能力ではない。
二人とも、天印持ちの戦人なのだ。
天印は人の身には余るような能力を授けてくれる、天からの贈り物だ。
体内に武器を宿せるようになることから、戦士の烙印とも呼ばれている。
一部では崇拝の対象とされ、また一部ではハーフと並んで厭忌の象徴でもある。
躊躇の様子もみせず敵を屠るこの二人は、戦いを生業とする人なのだろうか。
そんなことを考えていたクロエの左足を突如、激痛が襲った。
ちょうどくるぶしの辺りである。
まさか撃たれたのかと思ったが、出血はない。
まるで皮膚の下を虫に食い破られているような感覚だった。
口から漏れた悲鳴は周囲の騒音にかき消される。
痛みから逃れようと身をよじるが、なんの意味も為さない。
患部に当てた指の隙間に黒い何かがうごめいたように見えた。
クロエは目を瞠った。
黒い何かはまるで居心地のいい場所を求めるかのように、気味悪くクロエの肌の上を這いずって動き、やがてぴたりと止まった。
同時に痛みも嘘のように治まっていた。
おそるおそる、くるぶしの上の手をどけてみる。
古代文字のような、拳くらいの大きさの黒い意匠があった。
まるで元からそこに刻まれてあったタトゥーかのような顔をして、居座っている。
クロエの呼吸が知らずのうちに速まった。
間違いない。戦人の証、天印だ。
「伏せろ!」
切羽詰まったウォードの声に、はっと顔を上げる。
ウォードが発砲した。一、二、三、四、五発。
ウォードの小銃は不思議なことに、うるさい発砲音をたてない。
さらにはいちいち銃弾を装填している様子もないので、撃ち出しているのは普通の弾ではないのだろう。
ただ、一度に連発できるのは五発までのようだった。
五発撃つと、少し間が空く。
ウォードの撃った弾がこちらに殺到してくる凶弾を真正面から粉砕する。
一、二、三、四、五――、
こちらに向かってくる弾は、もうあと二発ある。
ウォードがクロエと凶弾の間を隔てるようにして自分の身を投げ出した。
クロエの視界がウォードの背中でいっぱいになる。
ウォードはクロエの盾になろうとしている。
このままではウォードが被弾してしまう――
クロエは右手を天にかざし、指先で一周、宙に輪を描いた。
左足の天印が白緑の輝きを放つ。
クロエとウォードの周囲を、目に見えるほどの風の流れが渦巻いた。
びょうびょうと唸りを上げ、周囲の喧騒が一時届かなくなる。
渦からはぐれた風に遊ばれて、クロエの長い髪が方々へなびいた。
今の自分は蛇髪のゴルゴンのごとき恐ろしい見掛けをしていることだろう。
そんなことを考える余裕すらあった。
風が止んだとき、凶弾はすでにどこかへ流れていた。
風の渦が盾となって、クロエとウォードから狙いを逸らしてくれたようだ。
ウォードが立ち上がって小銃を構え発砲した。
狙いは違わず、銃弾は敵の額に吸い込まれていく。
たちまち辺りは静かになった。
「片付けたか」
確認するように言ってから、ウォードが振り返ってくる。
手に持っていた小銃を消失させ、しゃがんでクロエと目の高さを合わせてくれる。
その隣にジャガー姿のヒューが帰ってくる。
「アリスの天印だ」
ウォードの視線はクロエの左くるぶしに落ちていた。
そこには先ほど出現したばかりの黒い印が刻まれている。
天印は常に生ある宿主を求める。
宿主が死ぬと新たな住処を求め、近くにいる生き物に寄生するのだ。
「ありがとう。君のおかげで助かった」
ウォードはクロエに向かって礼の言葉を口にした。
礼を言わねばならないのは自分の方だ。
クロエはそう返そうとしたが、その前にウォードが言を継いだ。
「その巫術は【
巫術とは天印を宿した者が授かる魔法のようなもので、先ほどクロエが使った【竜巻】は間違いなく巫術の力といえる。
術者の意思と、一定の動作か言霊によって発動されるというが、誰に教わるでもなく使えるとは思わなかった。
ウォードは脇に落ちていた細い木の枝を拾ってクロエに差し出した。
「こんなものでも、あった方が巫術をコントロールしやすい。持っておくといい」
クロエは言われるがままに受け取り、ただの枝をしげしげと眺めた。
巫術の威力を高め、制御しやすくするための道具。
ヒューの短剣、ウォードの小銃と同じ、いわばこれがクロエの武器となる。
自分が武器を持つことになるだなんて、少しぞっとする気持ちもあった。
「早くここを離れよう」
腰を上げたウォードがクロエに手を差し伸べてくれる。
甲に天印が浮き出ている。
クロエはその手を取って立ち上がった。
大きくて温かい手だった。
近くで見たウォードの頬には涙の筋が残っていた。
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