C 堕ちた舞台女優②
アリスが夫への過信を口にしてから、小一時間ほど経ったろう頃。
にわかに外が騒がしくなった。
始まりは風船が破裂するような乾いた音だった。
一発、二発、三発と続いて止まる。
銃声だと察したのは周囲も同時だったようで、驚き、戸惑い、恐怖の声があちこちで発せられた。
その中でアリスだけが喜色を帯びた声色で誰かの名前を口にした。
「ウィリアム……!」
クロエは真っ暗な中を落ち着きなく見回した。
一面の黒。
視界がまったく利かなくても視覚に頼ろうとするのは人間の性だろうか。
やがて、ばたばたと誰かが駆けてくる音が聞こえた。
足音からして、二人以上。
がちゃがちゃと金属が触れ合うような音が続いて、ガラガラと壁が引き上げられる。
クロエの目が僅かな光を捉えて、唐突に視覚が蘇る。
光源を背にして、二人の男と思われる影がそびえていた。
「なんだ、いっぱいいるな」
男の片方が声を発した。
クロエの隣に座っていたアリスが、勢いよく立ち上がる。
「ウィリアム!」
アリスは先ほどと同じ名を口にして、男の片方に駆け寄り、その勢いのまま抱きついた。
抱きつかれた方は体勢を崩すこともなくしっかり受け止め、小さな体を抱きしめ返している。
「アリス、よかった……。無事か?」
「おい!さっさと逃げろ!」
男の片方が腕を回して、押し込められている人たちを促した。
勇敢な一人がおそるおそる立ち上がった。
それをきっかけにして、二人、三人と腰を浮かす。
最初に立った人物が意を決したように外へ飛び出していくと、周囲を窺うようにしていた人たちがそれに倣った。
あとは堰を切ったように、皆が逃げ出した。
唯一、クロエだけがその場に座ったままだった。
未だ、状況の変化を受け止め切れていない。
「オレたちも、とっととずらかろう」
「ああ、そうだな」
人々を誘導した男が言って、アリスを抱きしめている男が頷く。
「おい!」
クロエは手首を引っぱられて、我に返った。
夜のささやかな光が、クロエの手首を掴む男の姿をうっすら浮かび上がらせている。
頭に丸い獣耳を持つ、尻尾の生えた男だ。
目にかかる長い髪の一房が、淡い光を反射している。
「何してる。行くぞ!」
男はやや強引にクロエを引っぱって立たせ、外の世界へと連れ出した。
空はほの暗く染まり、暁の頃だろうと察せられる。
「嫌な静けさだ。早く逃げよう」
アリスの背に手を添えながらもう一人の男が言った。
こちらはフーマのようで獣耳や尻尾といった特徴は見られない。
髪色は明るく、短く刈り込んである。
駆け出した三人のあとを、クロエは何も考えず追っていた。
視界の背景を占めるのは、無数の四角い大きな箱だ。
それらが迷路を作るように逃げ道を限定している。
別れ道に出くわしても、二人の男は躊躇することなく進んでいった。
怒声がした。銃声が鳴った。
先頭を切っていたビーティの男が大きく舌打ちして、左右の手にそれぞれ一本ずつ長い得物を具現化させた。
淡い光を反射して輝くのは鋭い二つの刀身、――
「オレが切り開く」
「後ろは任せろ」
フーマの男もいつの間にか長く細いものを手にし、走る速度を緩めて後方に移った。
黒光りする筒状の物体、あれは、――
この二人は
前方に覆面を被った者が現れ、こちらを認めるや、何か叫んで発砲してくる。
たちまち辺りは物騒な音で包まれた。
これほどの恐ろしさを、クロエは今までに味わったことがない。
先刻、この世界から消えてしまいたいと願ったことなど、頭からとうに消えている。
身を撃ち抜かれることに恐怖を覚え、再び捕まることを恐れて嫌悪した。
「あぁっ!」
近くで上がった悲鳴に、クロエは思わず竦み上がった。
直前を走っていたアリスが吹っ飛ぶように倒れてきて、受け止めきれずに膝が崩れて地面に手をついた。
クロエの足の上に乗りかかる形で、アリスが呻きを上げている。
薄色の石造りの道に、じわじわと重い色の溜まりが広がっていく。
「アリス!」
フーマの男がアリスの傍らにしゃがみ込んだ。
「止まるな!やられるぞ!」
ビーティの男が前方から叫ぶ。
考えるだけの間も置かず、フーマの男は小銃を消失させてアリスを抱え上げた。
「大丈夫だ、アリス。すぐに治療してやるから」
男たちは再び銃弾の礫が飛び交う中を駆け出した。
クロエは慌ててあとを追う。
震えてもつれそうになる足を必死で前へ動かし、息苦しさも疲労も忘れて走り続けた――。
ビーティの男が足を止めたとき、周囲の景色は一変していた。
いつの間にか、木々が並び立つ林の中にいた。
ささやかな鳥の声が耳に優しく響く。
目の前に一軒のプレハブ小屋が建っていた。
ビーティの男が小屋の扉を開けて中を覗いている。
「ウォード、ベッドがある。アリスを」
「ああ」
三人が小屋の中に入っていったので、クロエも続いた。
小屋の中は簡素なものだった。
机があって、椅子があって、ベッドがあるだけだ。
なんのための小屋なのか、考える気力はなかった。
ウォードと呼ばれたフーマの男がアリスの体をベッドに横たえる。
そこでようやく、クロエはアリスの腹が膨れていることに気が付いた。
妊娠しているのだ。
ウォードはアリスの手を取って、ぎゅっと握りしめ、そのまま動こうとしない。
「何してんだ。早く治療して――」
「もう死んでる」
ビーティの男の台詞を遮った声は、淡々として聞こえた。
それだけに、言葉の意味を理解するのが難しかった。
「は?何言ってんだ、お前。死んでるって……」
ビーティの男の言葉が続かない。
時が止まったかのような、痛いほどの静寂が訪れる。
その静寂の中に、取り返しのつかない事態を知る。
クロエはウォードの背に隠れるアリスの姿に目を凝らした。
暗がりの中、その手がうっすらと透けている気がする。
戦人は命を落とすと体が空気に溶けて消えてしまうという。
アリスが絶命しているというのは本当なのだ。
「……少しアリスと二人にしてくれないか?」
ウォードの声は、やはり感情が抜け落ちたかのように響いた。
「ヒュー、見張りを頼む」
「分かった」
ヒューと呼ばれたビーティの男が小屋を出ていくので、クロエもそれに従った。
扉を閉めるときに窺い見たウォードの背中は、薄暗いからかもしれないが虚ろだった。
空が白み始めている。一日が動き出そうとしている。
「えっ」
クロエは驚きに硬直した。
照り始めた太陽の光の下、ヒューが服を脱ぎ始めたからだ。
「ん?ああ、悪いな」
ヒューは脱衣の手を止めることもなく、首だけで振り返った。
露わになった裸には至るところに傷跡が浮いていた。
剥き出しになった右肩に0963と数字が見える。
奴隷に施す焼き印のようだとクロエは思った。
「あれ、あんた、どっかで見たことが……」
半裸のヒューはそう言ってクロエを凝視してくる。
クロエはヒューから視線を逸らして、顔を隠すように俯いた。
クロエ・キャンベルの名は穢れている。
名前を言い当てられたくなかった。今は名も無きただの女でいたい。
幸いにもヒューは大して頓着も見せず、服を全て脱ぎ終えると流れるような動作で獣型に転身した。
ビーティは人型でいるよりも獣型でいる方が様々な感覚に優れるという。
ヒューは追手の気配をより早く察知するために、獣型をとったのだろう。
クロエは雑草を踏みしめて、ヒューに近づいていった。
「黒ジャガー……」
光沢のある黒い毛並み。
美しく隆起した骨格と筋肉。
洗練された無駄のない体の形。
豹に似ているが、豹よりやや頭が大きく、尻尾が短い。
額に稲妻型の黄色い模様があるのは個性の主張だろうか。
クロエの呟きに、ヒューはゆっくり瞬きを返してくれた。
クロエは、地面に伏せているヒューの隣に腰を下ろした。
そこで初めて、足の痛みを知覚する。
あれだけ走ったのだ。疲労も溜まっているだろう。
足をさすると、ヒューのセピア色の瞳がクロエの手の動きを追った。
「こんなときに、言うことじゃないかもしれないけど、ありがとう」
クロエはヒューに語り掛けた。
「助けてくれる人がいるなんて思わなかった」
とっくに涸れたと思っていた涙が、こぼれそうになった。
「私を助けてくれる人なんて、もうこの世にいないと思ってた」
クロエは長い髪を垂らしてうつむいた。
こんなことになったのに、それでも自分を憐れむなんて、なんて自己中心的な女だろう。
指に、温かい何かが触れた。
顔を上げると、ヒューがクロエを慰めるように、クロエの手を舐めていた。
白い曙光が、クロエの泣き顔を照らし出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます