C 堕ちた舞台女優①

 月が雲に呑まれて見えなくなった。

 足元から伸びる影の周囲が明度を落として、境界がぼんやり曖昧になる。


 クロエは街路を歩いていた。

 生ける屍のように闇雲に、ただ足を進めていた。


 部屋には帰れない。


 玄関ドアにはいつの間にか黒いスプレーで不倫女と落書きされていた。

 わざわざ高価なボイスメールで送りつけられたメッセージには、卑猥な言葉が連ねられていた。


 たまらずアパートから飛び出てみれば、待ってましたとばかりにマスコミに囲まれ、マイクを向けられた。

 なんとか包囲を突破したが、帰ればまた同じ目に合うのだろう。


 それに何より、現実と向き合いたくなかった。

 部屋には残酷なほど、彼との思い出が溢れている。


 舞台で主演に抜擢されたときにもらった毛足の長いテディベア。

 ドラマの端役が決まったときはカラフルな細身の腕時計だった。

 初めて二人で撮った写真は、卒業旅行で買った写真立ての中に。

 売れてもいない役者に不釣り合いな、ブランド物の食器が二組ずつあって。

 一番最近のプレゼントは、映画の役をもらったときのガーネットのネックレスだ。


 全てがあの部屋にある。クロエの心に深々と爪を立てる。


 足がもつれて石造りの街路に崩れ落ちた。

 膝が打ち付けられて、ずきりと痛みを訴える。

 気にならなかった。立ち上がる気力すらなかった。


 全部嘘。嘘。嘘。嘘――。


 愛してるだとか、君が一番大切だとか。

 囁かれるたびに心ときめかせていた台詞の数々が、

 全て、嘘だった。


 手の甲に雫が落ちて、つぅっと流れていった。

 一筋、二筋と次々、涙の跡が増えていく。


――もう会わない、連絡しないでくれ

 

 つい先ほど、公衆電話の受話器から告げられた、温度のない言葉。


 その瞬間、体の中に氷でも詰められたかのように、全身が凍えて固まった。


 古今東西、よくある話だ。騙されて、弄ばれただけ。

 ただ、それだけのこと。


 そうして納得してしまうには、まだまだ時の経過による癒しが足りなかった。

 不倫をしたという罪悪感と、それを周囲に知られたことによる羞恥によって、絶望を怒りに転化することも難しかった。

 

 何よりも、あんな男でも本気で愛していたから、傷は心の深部に達して、血がどくどくと噴き出し、止まってくれなかった――。

 

――消えてしまいたい


 ふと浮かび上がってきた思考は、人の道に反することだろうか。

 それでもクロエには抗いがたく、甘美に思えた。


 歩道から一歩外へ出れば、そこは車が走る車道だ。

 遅い時間帯、車通りは少ないが、それだけに速度を上げて走っている。


 ただ、踏み出せばいい。這ってでも、踏み出せばいい。


 痛みの遠のいた膝を動かそうと力を入れた。前に進めなかった。

 右腕を持ち上げられ、無理矢理、立たされていた。

 

 驚きに振り返ると、両頬と額の部位に目の意匠が施された覆面を被った男が、クロエの腕を掴んで引き上げていた。

 不気味な三つ目は、ギャング集団〈トリニティアイズ〉の証だ。

 いかにも剣呑な気配を全身から放っており、クロエの自死の決意を溢れる正義感から止めてくれたというわけではなさそうだった。


「クロエ・キャンベルだな」


 断定する口調で言った男の声は、聞き取りにくいほど低かった。


「半端モンのあんたには利用価値がある」


 それだけ言って、男はクロエの腕を掴んだまま歩き出した。

 男の力は強く、クロエは容易く車道側へと引きずられていく。


――連れていかれてはいけない


 今まで生きてきた中で身に付けた感覚が、危険を訴えている。


「待ってください、放して」


 男はクロエの声など聞こえないかのように、歩調を緩める素振りも見せなかった。


 クロエは周囲に目をやった。

 深夜とはいえ、人通りの多い場所でのことだ。

 誰か、助けてくれる人はいないか。

 

 歩道を歩く人は何も見ないふりで通り過ぎていく。

 車道を通る車も同じだ。


 当たり前だった。

 ギャングと、ことを起こしたい人間なんて、この街にいるはずがない。


――誰も助けてくれない


 そう察したとき、クロエは踏ん張って堪えていた些細な抵抗をやめた。

 

 この身がどうなろうと、もうどうでもいい。どうせ、全て失った。

 この手にはもう絶望しか残っていない。

 これ以上、悪い状況なんて考えられないし、それに――


 こんな世界で、あがいてもがいて、必死に生きていかなくたって、いいじゃない。

 

 車道に停められていた黒いワゴン車のドアが開き、中に押し込まれた。

 車内にも三つ目の覆面がいて、クロエの身体を乱暴にシートに引き上げる。

 足のすぐ先でドアが閉まった。振動で車が走り出したのが分かる。


 もうどうにでもなればいい。

 いつしか自分を憐れむ涙も止まって、クロエはただ運命を受け入れた。




 顔の前にかざした自分の指の先も見えない闇の中。

 クロエはそんな場所にいた。

 先ほど三つ目の覆面によって、ここへ押し込められたばかりだ。


 ねっとりとして淀んだ、生暖かい空気が満ちている。

 息遣いやすすり泣き、さらには嗚咽が聞こえてくることからして、クロエの他にも何人かいるらしい。


「ねぇ、あなた、大丈夫?どこか怪我でもしてるの?」


 すぐ近くから声がした。

 振り返ってみても、視界は闇一色に染まっている。


「痛いところがあるの?さっきから全然、動かないから」


 少女のような若々しい声だった。

 警戒する相手でないように思えて、クロエは固くしていた身を少しだけほぐした。


「あ、私、アリス・ウォーフィールドっていうの。こんな場所だけど、よろしくね」


 やや間があいて、再びアリスと名乗った少女の声がする。


「あ、そっか。あなたフーマだもんね。見えないんだ」


 すぐ近くから衣擦れの音がした。アリスが体を動かしたらしい。


「私は兎のビーティだから。はっきりとは見えないけど、なんとなく見えるんだ」


〈フーマ〉と〈ビーティ〉

 ダイア大陸に暮らす二つの人種の呼称だ。

 太古の昔は、人と呼ばれる種はフーマだけだったという。

 いわゆる、二足で歩行し、道具を使うことを得意とし、他の生物より優れた知能を持つ生き物のことだ。

 ビーティは人の姿と動物の姿の二つをもつ人種である。

 人型のときも動物の特徴、例えば頭に獣耳が生えていたり、尻尾があったりするのでフーマとの外見の違いは明らかだ。

 ただ、ビーティは全般的にフーマより感覚に優れているらしい。

 耳がよかったり、鼻がよかったり、夜目が利いたりするのだ。

 

 また衣擦れの音がした。

 アリスがクロエの方に身を寄せてきたのだと気配で分かる。


「とりあえず、端の方に行こう。

 そこ、入口だから、そんなところいたら、また誰かが連れてこられたとき、ぶつかっちゃう」

 

 誰かの手が、クロエの手を優しく握って引っぱった。

 きっとアリスの手だ。

 抵抗する理由もなく、クロエは連れられるがまま真っ暗な中を移動した。


「フーマの人が来たのは初めてだよ」


 移動した先で改めて座ったあとも、アリスは声を掛けてきた。


「他はみんな、ビーティなの。女の人しかいないけど――」


 アリスはまだ何か話しているが、クロエは聞いていなかった。

 膝に触れている髪の先を指でいじくりながら、物思いに耽る。


――わたしはフーマじゃない、ビーティでもない


 クロエの見た目はフーマそのものだ。

 ビーティの特徴はどこにもなく、もちろん獣型に転身なんてできるはずもない。


 今までもずっとフーマとして生きてきた。

 そうしないと迫害を受けてしまうから。

 

 一部の人から禁忌と忌まれる存在。

 クロエはハーフだった。

 フーマでもなく、ビーティでもない。


――半端モンのあんたには利用価値がある


 クロエを連れ去るとき、覆面を被った男は言った。

 あの男はクロエがハーフだと知っていた。

 

 ぞっとするものが背筋を這い上がっていく。

 クロエがハーフだと知る者は少ない。信用した相手にしか明かしていない。


 まさか、あの人が――?


 クロエの心を弄んでいた男の顔が脳裏を過っていく。

 目の裏に焼き付けてあるかのように、離れていかない偽りの笑顔。


「大丈夫」


 クロエの左手を、誰かの手が力強く包み込んだ。


「助けがくるから。絶対に」


 アリスの的外れの励ましには、確信がみなぎっている。


「私の旦那さんは、相棒と力を合わせると、ヒーローになるんだよ」


 アリスはそう言ってから、こんな状況の中で照れたように短く笑い声をたてた。

 

 顔すら見えない暗闇の中なのに、なぜか眩しかった。

 助けなんてくるわけないのに、そんな疑いなんて微塵も抱いていない女が。

 信じることの出来る他者が存在する女が。


 羨ましく、妬ましかった。


「そう、なんだ……」


 力なく、クロエは呟いた。

 アリスの妄信を否定してやれるほど、クロエは勇ましい性格をしていない。

 

 クロエはアリスから離れた場所に移りたくてたまらなくなったが、辺りは真っ暗で身動きが取れない。

 そもそも周囲が明るかったとしても、生来の気の弱さゆえ、そんな行動が起こせたかは怪しいものだ。

 

 あんな地獄に落とされたあとで、こんな地獄を味わうなんて。

 クロエは膝の間に顔を埋めて、何も聞こえないふりをした。

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