W 貧民街の医師

 午前の診察を終えて、ウォードは医院から繋がる居住エリアへと身を移した。


 色時計は白昼のマリーゴールド。

 今日は午後から休診だから、もう診察はない。

 

 隣家のご婦人が先ほど持ってきてくれたベリーパイの香ばしい匂いが、ダイニングの中には満ちている。


 ヒューがテーブルについて、一足先にパイを食べていた。

 ヒューの肩に届かない程度の濡羽色の髪は、ぼさぼさにはねてしまっている。

 確実に寝起きだ。

 ヒューは基本的に、朝は寝ていて、昼から起きだしてくる性質なのだ。


「おはよう、ヒュー」


「おう」


 声を掛けると、ヒューは短く答えてきた。

 パイを片手に、医院の待合室に置くための雑誌を読んでいる。

 芸能人のスキャンダルになど興味のないウォードにとっては、何が面白いのか分からない。

 

 ウォードはヒューの向かいの席に座ってパイに手を伸ばした。

 焼きたてであるようで、ほんのりと温かい。

 バターと自家製ベリージャムの匂いが鼻腔をくすぐり、食欲をそそった。


「不倫だってよ」


 ヒューが突然持ちだした単語は、昼間の食卓に相応しいものではなかった。


「何だって?」


 動揺が混じって、声が少し上ずった。

 ヒューはウォードにも見えるように、雑誌をテーブルの上に広げて置いた。


「不倫だよ、不倫。映画監督ハロルド・ハリス。

 まったく、お盛んなことで。

 結婚してることを隠して交際だと。

 おっ、相手、美人だ。羨ましいねぇ。

 クロエ・キャンベル、顔も名前も晒されちまって、可哀そうに。

 ほら、見てみろよ」


 ヒューの指す先には、整った顔立ちをした儚げな若い女性の顔写真があった。

 透き通るような肌に赤みがかった瞳、色素を失って白い髪色。

 ウォードの妻アリスと同じ瞳と髪の色の持ち主だ。

 おどろおどろしい書体で記された不倫という二文字が、彼女の清楚さを侵食していくようだった。


「何?何の話?」


 事務作業を終えたらしいアリスがダイニングに入ってきた。

 テーブルの上に広げられた雑誌にさっと目を通したようで、「ふーん」と呟く。


「あの新進気鋭とか言われてる映画監督ね。

 うんうん、やりそうだわ。いかにも詐欺師みたいな顔してるもの」


 会ったこともない男を誹謗しながら、アリスはウォードの隣の席についた。


「いい女がいれば、手に入れたくなるのが男ってもんさ」


「何、それ。そんなの言い訳にならないから」


 不倫映画監督を擁護したヒューに、アリスは義憤をぶつける。


「相手の子、舞台女優だって。職権濫用じゃない、気持ち悪い。

 それにこの男、子供だっているって書いてあるし」


「他人が怒って騒ぐことでもないだろ。

 それもこれも含めて、本人たちの問題だ」

 

 ウォードはパイを咀嚼しながら二人の話に耳を傾けていた。

 あえて口を出すべき話題とも思えなかった。

 そもそもウォードは、かの映画監督を知らない。


「可哀そうに。この舞台女優さん、これから役者としてやっていけるかなぁ?」

 

 アリスは不倫相手に同情的なようだ。

 相手が既婚者であることを知らず、不倫している自覚すらなかったのだから、それもそうだろう。


「どうかねぇ。いくら知らなかったとはいえ、イメージってのは怖いからな。

 しっかし、惜しい。オレのタイプなのに」


「ヒューは女なら誰でも好きでしょ」


「はっはー、オレの守備範囲は広いのだ」


 おどけた調子のヒューに、アリスは呆れ顔を向けている。


「あなた、そのうち雌猿でも口説くんじゃないの?」


 ヒューはただ笑って、コップに注がれたオレンジジュースを飲み干すだけだ。


「おいおい、さすがにそこは否定しろ」


 反論しようとしないヒューに、ウォードは思わず口を出してしまう。


「まあ、世界に雌猿と二人きりになったらあり得るかもしれねぇし」


「はぁ?本気?」


 ヒューの回答に対し、アリスは声色に露骨な軽蔑を滲ませる。


 ウォードはそこで席を立つと、食器棚からマグカップを二つ取り出した。

 自分とアリスの飲み物がないことに気付いたのだ。

 自分の分のコーヒーを入れてから、もう一方に牛乳を注ぐ。

 アリスはいつもパイには牛乳を合わせる。牛乳をアリスの前に置く。


「ありがと」


 アリスの礼に頷いて、ウォードはコーヒーを片手に席についた。


「さーて、と」


 ヒューがパイの最後の一切れを口に放り込んでから、ウォードと入れ替わるようにして立ち上がった。

 指についたパイ生地を舐めとりながら言葉を継ぐ。


「飯も食ったし、出るか」


「換金か?」


 昨日、ヒューが耳を負傷してまで得た戦利品は、そのままでは使い道がない。

 闇ルートで金に換える必要がある。


「ああ。で、そのあとはマーキング」


 ヒューはにやりと笑みを浮かべた。

 マーキングとは、ヒューにとって風俗に行くことを表す単語だ。

 時々、小便に行くときにも使うが、今回は前者だろう。


「ほどほどにな」


 苦笑しつつのウォードの台詞に、ヒューはウィンクを返して部屋を出ていく。

 その背に向けられたアリスの視線は冷ややかだ。

 ウォードはアリスを宥めるように、テーブルの上に置かれたアリスの手に軽く手を重ねて、親指で撫でた。

 

 途端にアリスは、はにかむような笑顔になった。




 休診の札を医院の入り口に掲げ、ウォードはアリスと共に外に出た。

 今日は昼から薬を取りに街の方まで行く予定だった。

 よく晴れた空に一条の雲がかかり、まさにお出かけ日和といった風情だ。

 常に北の空に浮かぶ第二の月〈永久星エクス〉は鮮やかな青色をしている。


 アリスはウォードの左腕に自らの右腕を回し、ウォードにもたれかかるようにして歩いている。

 毎週のこのお出かけは二人にとってちょっとしたデートのようなものだった。


 アリスはいつもの看護師服ではなく、おしゃれな赤いワンピースを身に付け、長い兎の耳に筒状の飾りを付けている。

 妊娠が分かってからは転んではいけないと、ヒールの高い靴は履かなくなった。


 ゆっくり歩いて進み、いつしか人通りの多い街路に到達した。

 アリスとはぐれてしまわぬよう、知らずのうちに緩く結ばれていた腕に力がこもる。

 人の多い場所は得意ではないが、馴染みの薬局が街中にある以上、仕方がない。


「ねぇ、ウィリアム」


 人ごみの中、アリスが呼びかけてくる。

 ウィリアムはウォードのファーストネームだ。


「ヒューにこのままの生活を続けさせていいと思う?」


 質問の意図を掴みきれず、ウォードが答えずにいると、アリスは続けた。


「昨日はあんな怪我をして帰って来たでしょ」


 雑踏の喧騒の中でも、すぐ傍にいるからかアリスの声はよく聞き取れる。


「それに近所の人の中には、遊んでるだけの居候だって、ヒューを悪く言う人もいるし」


 それはウォードも耳にしたことがあった。

 診察した患者の中に、お節介にもヒューを追い出すよう言ってくる人がいる。


「ヒューはそういうのは気にしないんじゃないか。

 何も知らない他人の言うことだ。それに、遊んでるのは事実だし」

 

 ウォードの返答にアリスは口元を押さえて軽く笑った。

 こんな大人っぽい仕草を彼女がするようになったのはいつからだろう。


「そうね、私もそう思うけど」


 アリスの顔から笑みが消える。


「だけど、いつかすごい大怪我でもするんじゃないかって。

 それに義賊なんて言ったって、盗人に変わりはないでしょ。

 いつか警察に捕まるかもしれないし」


 ヒューの盗みの対象はぬくぬくと私腹を肥やす悪狸の贅肉だけだ。

 彼らの財を盗み取り、物であれば金に換えて、一部を懐にしまい、あとは全て貧民街でばらまく。

 そんなヒューをいつしか人々は〈黒豹ブラックパンサー〉と名付け、義賊と担ぎ上げるようになった。

 本当は豹ではなくジャガーなのだが。


「アリス、君の言う通りだと思う」


 ウォードはまず、妻の意見に同意した。


「でも、それも含めてヒュー自身が決めることだ。

 あいつが出ていくと言うのなら止めるつもりはない。

 何か他のことがしたいと言っても止めはしない。

 でも今のあいつの生き方を否定することも、俺はしない」


 アリスは少し黙ったあとに、口を開いた。


「私はあなたの意見に従う。あなたを信頼してるから」


 揺るぎない確信がアリスの表情から見て取れる。

 ウォードは思わず、背筋を正した。


「ありがとう。でも俺も間違うこともあるだろう。

 そのときはきちんと指摘してくれ」


 アリスと視線を絡ませて笑みを交わす。

 結婚する前から彼女に言ってきたことだ。

 ウォードは自分の欠点のいくつかを知っているつもりだ。

 それを補うために人は支え合って生きるのだと思う。


「それにしても――」


 アリスは唐突に話題を変えた。


「ヒューのやつ、女と見れば誰かれかまわず口説くくせに、私を口説こうとはしないんだよね」

 

 ウォードは思わず噴き出してしまった。


「口説かれたいの?」


「そういうわけじゃないけど。でも、女心はフクザツってやつ」


 膨れっ面をしてみせるアリスは年相応に幼く見えた。

 アリスは世間で言うところの幼妻である。


「君には俺がいるじゃないか」


 我ながら気障な台詞を言ったなと思いつつ、アリスの腰に腕を回す。


「そういうこと、さらっと言うんだから。怖いなー。惚れ直しちゃいそう」


 アリスはウォードの方へ顔を寄せてきた。

 ウォードの視界に彼女の白い耳がちらちらと映る。


「いくらでも惚れ直してくれ。少なくとも、俺の方がヒューよりいい男だから」


 ふふふ、とアリスが笑う。

 それに笑い返してウォードは少しばかり歩調を速めた。

 東の空にいつの間にか黒い雲が現れている。

 一雨くるかもしれないと思った。




 美しく飾った大都市の景観を守るように、貧民街と都心部の間には高い壁がそびえ立っている。

 境界線は曖昧でなく、はっきりと貧と富とに土地を隔てている。


 ウォードはかつて、大都会の真ん中にいた過去を持つが、今の暮らしの方が性に合っていると思う。

 無駄な虚勢を張る必要もないし、虚しい駆け引きをする必要もない。


 病気の進行を抑える錠剤から、外傷を癒してくれる軟膏まで雑多に買い込み、ウォードはアリスと並んで貧民街の領域へと戻ってきた。

 黒い雲が勢力を拡大し、頭上を覆わんとしている。


「降ってきたら、やだなー」


「もうすぐ着く。急ごう」


 空を見上げて不安げに呟くアリスを急かし、ウォードは妻の速足に合わせて進む。

 今日は時間も金も余分があるから街でデートを楽しもうと思っていたのに、突然の黒雲の来訪で台無しだ。

 憎々しく空を睨んでみても、雲は当然引いてくれない。


 近道をするため、細く陰鬱な普段は通らないような路地を進んだ。

 人の生活の臭いがぷんぷんと漂っている。

 頭の上で洗濯物を取り込むような音がした。

 ねずみが一匹、道を横切っていく。


 アリスの不安そうな面持ちが、ただ雨降りを心配してのものなのか、この物騒な路地を恐れているからなのかわからない。

 早く彼女の安心した顔を見たいと思った。

 若々しく生気に満ちたアリスには、負の表情は似合わない。


 細い路地を抜けて少し広い通りに出た、ちょうどそのときだった。


「きゃっ」


 少し前を進んでいたアリスが、悲鳴を上げて体勢を崩した。

 覆面を被った男がアリスの左腕を掴んで強引に引き寄せている。

 突発的な事態に驚くと同時に、怒りが湧いた。

 何をすると叫んで男に掴みかかろうとした。

 

 後ろ襟を掴まれて後ろにぐっと引っぱられる。

 首に腕を回されて締め付けられた。

 どうやらもう一人いたらしい。

 完全に首を絞められる前に相手の腕を握って捻り、それを支点に体を回転させて背後を取った。

 一瞬で立場が逆転する。

 人の体の構造は職業柄、熟知している。

 どう力を加えれば、ダメージを与えられるかもよく分かっている。


「い、いててて、いてててててて!」


 襲撃者はウォードの腕の中で悲鳴を上げた。

 声からして男のようだ。

 男の肩の関節が、めきっと音を立てたのが伝わってくる。

 こちらも同じ覆面を被っていた。

 ウォードは男の肩の命運を握ったまま目線を上げる。


「彼女を放せ」


 額と頬にリアルな目のデザインがされた覆面。

 その意味を知らないわけではなかったが、怖れる理由にはならなかった。

 手に力を込めて、もう一度仲間の悲鳴を聞かせてやる。


「勇ましいな。ただの医者のくせに」


 どうやらこちらを知っているらしい。

 狙いをつけられる心当たりはないでもないが、複数あるだけにどれが当たりか分からない。

 いや、そんなこと今はどうでもいい。

 アリスの恐怖の表情がウォードの怒りを加熱させる。

 こいつの肩をすぐにでも外してやろうか。

 いや、それは駄目だ。脅しに使えなくなってしまう。

 

 ちゃきっ、耳元で音がした。

 それはウォードのよく知る音だった。


「ゲームオーバーよ、先生」


 声のした方に視線だけを動かすと、黒い拳銃が頭に向けられていた。

 ウォードの背後から現れた赤毛の女は、銃を手に自らの優位を誇るように立っている。

 やはり覆面を被っていた。


「こっちにもあるぜ」


 アリスの左腕を掴んでいる覆面も拳銃を握っていた。

 銃口はアリスの側頭部に突き付けられている。


 この瞬間、ウォードは敗北を悟った。


 アリスが今にも泣きだしそうな顔でこちらを見ている。

 ウォードは一つ呼吸し、二つ呼吸してから、掴んでいる男の腕を放った。

 すぐさま体勢を立て直した男は、ウォードの左頬を拳で殴ってきた。

 ウォードは地面に転がり、立て続けに腹に蹴りを見舞われる。


「先生!ウォード先生!」


 アリスの叫びが聞こえる。それは昔の呼び名だった。

 癖が抜けきらないらしく、今でもアリスはウォードを先生と呼ぶことがある。


 いつしか、暴力は止んでいた。

 ウォードは抵抗しなかった。

 立ち上がることすらしなかった。

 

 足も動くし、腕も動く。

 腹は痛むが、致命的な傷は負っていない。

 だが、今ここで抵抗してさらなる暴力を受けたら、体が動かなくなるかもしれない。

 それではアリスを助けられない。


「情けねぇ奴だ。医者ってのは、やっぱりなまっちろいな」


 罵られて、唾を吐きかけられた。

 それでもウォードは動かない。

 後の勝利を得るために。アリスを助けるために。

 今は耐えるしかない。

 

 時々、こんな合理的な自分がたまらなく嫌になる。

 

 突然の災厄はアリスを奪い、高笑いを残して去っていった。

 彼らが乗り込んだ車のエンジン音があっという間に遠のいていく。


 アリスの泣きそうな顔が蘇る。

 彼女にあんな顔をさせないように、彼女を守れるような男になろうと誓ったのは、結婚を決めたときのことだ。

 今すぐに助けてやれたなら。

 敵を倒して彼女を奪還する、そんなスーパーヒーローみたいな力が自分にあったなら。

 

 拳で地面を一度打って、立ち上がる。

 腹部にずきりとした痛みが走った。

 ぐずぐずしている時間などありはしない。

 アリスを助け出すために出来ることをしなければ。


 いつの間にか、雨がしとしとと降り始めていた。

 



 警察に相談することは考えもしなかった。

 エンプレスシティの警察は貧民街の住人のために腰を上げようとはしない。

 ましてやあの覆面が相手となるとなおさらだ。

 本末転倒に思えるが、弱者を守ってくれはしない。

 端から、あてにならない。


 ウォードは弱い雨が降る中を全力で駆ける。


〈昼間の嬌声〉


 ウォードの家からそう離れていない場所にある風俗店だ。

 夜に営業する店が多い中で〈昼間の嬌声〉はその名の通り、昼間から営業している。

 女性と共に多種の酒を飲みかわすことができ、さらに気に入った女性とは個室でいちゃつける、そんなサービスを提供する店だ。


 ウォードはなんの躊躇いもなく〈昼間の嬌声〉の扉を開け放った。

 泥まみれの男の突然の乱入に、店中の視線が刺さるように集まってくる。

 その只中でウォードは目当ての相手を探した。


「ウォード?」


 長い黒髪に一房の黄色が交じった、褐色の肌の男。

 ヒューが店内の左奥のいつもの場所で立ち上がっていた。


「どうしたんだ、いったい」


 ヒューがこちらに歩んでくる。

 ただならぬ気配を察しているらしく、いつもなら口にするような冗談を発してこない。


「ヒュー」


 喘ぐような声が出た。


「アリスが、攫われた」


 頼れるのは、相棒だけ。

 縋るように、一縷の望みを託した。

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